1-6
帳簿を閉じた時、結衣はようやく気づいた。
集中していたせいか、胃の奥がきゅっと小さく鳴っている。
「……あ」
時計を見ると、もう日付が変わりかけていた。
兄の部屋の明かりは消えていて、階段の向こうは、しんと静まり返っていた。
「結衣」
終わるまでずっと側にいた魔王は、きゅるん、と真紅の瞳をかすかに震わせて小さく言った。
「腹が……減った」
「今言う!?」
思わず声を潜めてツッコミを入れると、魔王はむすっとした気配を滲ませた。
「仕方あるまい。貴様の世界の“管理業務”は、想定以上に脳を消耗する。これは、合理的な空腹だ」
「空腹に合理性とかあるの……」
結衣は小さく溜息をついてから、きょろりと周囲を見回した。
兄が起きてくる気配は、ない。
「……ちょっとだけなら」
「む?」
「夜食。こっそりね。
お兄ちゃん起こしたら、俺も食べるってうるさいから。……音、立てないでよ」
一瞬の間。
それから、ピン、と尻尾を伸ばした魔王は次の瞬間、喜びを表すようにブンブンと尻尾を振り回す。強めの風圧が結衣の顔にかかって、まるで小さなワンちゃんを見ているようだと結衣は苦笑いをした。
「――承知した。隠密行動だな」
「そうそう。隠密、隠密」
いそいそと結衣の手を伝って肩に乗った魔王は、結衣が何を作るのか見るつもりなのだろう。相変わらず喜びを表す尻尾がうなじにかかってくすぐったいのだが、肩に感じる温かさに、これは案外良いカイロかわりになりそうだ、配達の時に胸に忍ばせるのもありかもしれないと、結衣は小さく思った。
キッチンの明かりはつけず、ダイニングの小さな手元灯だけを点ける。
冷蔵庫をそっと開けると、煌々とした電気が結衣と魔王の二人の顔を照らす。
(えっと……今日の残りのご飯があるから……)
結衣は考えながら、卵と、冷やしてあったラップに包まれたご飯を取り出す。
包丁は使わない。電子レンジも、使わない。
代わりに、小鍋をコンロに乗せ、火を極々弱くつけた。
「何を作る?」
魔王が興味深そうに覗き込む。
「簡単なやつ。
あったかくて、ちょっとお腹にたまるやつ」
卵を器に割り入れ、箸でそっと溶く。
白身を切るというより、なだめるように。勢いをつけすぎると、夜の静けさが壊れてしまいそうだった。
そこに、用意してあった出汁を少しずつ加える。
湯気はまだ立たないはずなのに、鼻先にふわりと、かつおと昆布の香りが届いた。
「……その液体は何だ」
魔王が、じっと鍋の中を覗き込む。
「出汁。味の土台みたいなもの」
「土台……兵站の要か」
結衣は小さく笑い、鍋を火にかけた。
極々弱火。音が立たないよう、泡が出る手前で止める。
鍋肌がじんわり温まり始めたところで、溶き卵を静かに回し入れる。
とろり。
卵はすぐには固まらず、出汁の中でゆっくりと広がっていく。
箸でひと混ぜするたび、淡い黄色の雲がふわり、ふわりと形を変えた。
じゅわ、と小さく鳴る音。
それだけで、胃の奥がきゅっと反応する。
「……っ」
魔王の尻尾が、ぴしりと揺れた。
「匂いが……侵攻してくる」
「侵攻されてて」
火を止める直前、最後にひと息だけ待つ。
卵が完全に固まりきる前で、鍋を下ろした。
器によそったご飯の上に、ふわふわの卵と出汁をそっとかける。
湯気が立ち上り、夜の空気に、やさしい香りが溶け込んだ。
派手さはない。
けれど、身体が「これはうまいやつだ」と理解してしまう匂いだった。
「……ほう」
「声、でかい」
「……ふむ」
くすくすと笑いをこらえながら、結衣は器に盛りつける。
派手さはない。でも、ちゃんと“食べ物”の顔をしている。
小さなスプーンを添えて、テーブルの端に置いた。
「どうぞ。魔王様」
魔王は一瞬、警戒するようにそれを見つめてから、そっと口に運んだ。
――沈黙。
次の瞬間。
「……」
そして、もう一口。
「……」
さらにもう一口。
「……この世界の食べ物は」
結衣が、にやりと笑う。
「なに?」
「私を……堕落させるために作られているのか?」
「大げさすぎ」
そう言いながらも、魔王は止まらなかった。
小さな体で、黙々と、きれいに完食する。
空になった器を名残惜しそうに覗き込む魔王。
「ごちそうさま、だね」
「……認めよう。
これは兵糧ではない。……癒しだ」
フードの中で、尻尾がゆらりと揺れる。
結衣はマグカップにお茶を注ぎ、小さく一口飲んだ。
静かな夜。
台所に残る、かすかなだしの香り。
「ね」
「なんだ」
「これ、内緒だからね。
お兄ちゃんに言ったら、次は作らないよ」
一拍の間。
「――了解した。
これは、我々だけの補給線だ」
「言い方」
思わず吹き出すと、魔王も小さく喉を鳴らした。
帳簿も、数字も、昼間の不安も。
今は全部、テーブルの外に置いてきたみたいだった。
秘密を一つ共有しただけなのに。
それだけで、夜の空気が、少しだけ柔らかくなった気がした。




