第5話 魔王、教えてくれない
(炊飯器から出てきた魔王、帳簿のズレを一緒に解決してくれた)
新しい帳簿をつけ始めてから、三日目。
夕食の片付けを終えたダイニングには、わずかに洗剤の香りが残り、拭き上げられたテーブルが照明を反射して静かに光っていた。
テレビは消したまま。
代わりに聞こえるのは、壁掛け時計の秒針と、電卓の乾いた音だけだ。
カチ。
カチ、カチ。
結衣は、レジ横から出した現金を何度目か分からないほど数え直し、帳簿に書かれた数字と見比べた。指先で紙の端をなぞる。何度も往復したせいで、その部分だけ少し紙が毛羽立っていた。
「……あれ?」
小さく、声が漏れる。
もう一度、電卓を叩く。夜の冷気が足元から忍び寄り、ボタンを押す指先がこわばる。
結果は、変わらない。
レジに残っているお金と、帳簿の合計金額。その差は、きっちり3,000円。
「……なんで」
1円単位まで書いたはずだった。
今日来たお客さんの顔も、渡した米袋の重さも、ちゃんと思い出せる。
なのに、数字だけが合わない。視界が少しずつ狭くなっていくような錯覚。綺麗に引いた線が、自分を責める柵のように見えてきた。
胸の奥が、じわりと重くなる。
(私、ちゃんと出来てるって思ってたのに)
これまでは「まあ、こんなもんか」で済ませていたズレ。
けれど、正しくやろうと決めた途端、その「曖昧さ」が牙を剥いて突きつけられる。
結衣は、握りしめていたボールペンをそっと置いた。カタ、という小さな音が、静かな部屋で驚くほど大きく響く。
「……もう一回」
自分に言い聞かせるように呟き、電卓に手を伸ばす。
けれど、その指は震えていて、隣のボタンを押しそうになった。
理由が分からない、という事実が、少しずつ心を削っていく。
「……ねえ」
結衣は顔を上げ、テーブルの端を見る。
そこには、まるで置物のように微動だにせず、結衣の苦闘を見守っている小さな黒い影があった。
「お願い。どこが変なのか、教えて」
弱音だった。
自分でも分かるくらい、頼る声だった。
魔王はすぐには答えなかった。
帳簿、レジの中、結衣の書いたメモ。それらを順番に眺め、ゆっくりと尻尾を揺らす。
「……正解を示すことはできる」
結衣の肩が、わずかに強張る。
「だが、それをすれば、次に同じことが起きた時、またここで立ち止まる」
「……」
「これは失敗ではない。ただの経験不足だ」
責めるでもなく、慰めるでもない声だった。
淡々としているのに、不思議と突き放されている感じはしなかった。
「だから、少しだけ手を貸す。考えるのは結衣だ」
魔王は、帳簿の端を指先で軽く叩いた。
「最近、『まあいいか』で済ませた取引を思い出せ」
「……まあ、いいか……」
結衣は視線を落とし、頭の中を探る。
商店街。
夕方、買い物客が重なる時間帯。
『細かいのがなくてね。お釣りはいらないわ』
笑いながら差し出された3,000円。
『じゃあ、その分は次に引いておくね』
軽く返した、自分の声。
「あ……」
小さく、息が漏れた。
「お財布には3,000円入ってるのに……帳簿には、2,900円って書いてる」
善意だった。
悪気なんて、どこにもなかった。
でも、帳簿は気持ちを汲んでくれない。
「他にも……あるかも。こういうの」
「あるだろうな」
魔王はあっさり言った。
「この世界は、“後で”と“ついで”が多すぎる」
「……ほんとだね」
思わず、苦笑がこぼれる。
肩の力が、少し抜けた。
「分かった。原因」
結衣は帳簿を閉じ、立ち上がった。
「ちゃんと、言ってくる。お釣りのこと。今度じゃなくて、今、きちんと」
「それでいい」
短い肯定だった。
「気づいた時点で、それはもう前進だ」
戻ってきて、帳簿を広げ直した時。
紙の擦れる音が、妙に落ち着いて聞こえた。
「……なんとか、なったね」
「うむ。混乱は収束した」
「言い方」
笑うと、魔王が小さく喉を鳴らす。
完璧じゃない。
まだ分からないことだらけだ。
でも、最初にあった「全部間違ってる気がする」感覚は、もうなかった。
「……さ」
帳簿の端を指で押さえながら、結衣は言う。
「一人だったら、たぶん途中で投げてた」
しばらくの沈黙。
「それは、私も同じだ」
「え?」
「結衣がいなければ、この世界の曖昧さに、いずれ私の方が音を上げていた」
一拍置いて。
「補助輪としては、悪くない」
「それ、褒めてる?」
「事実だ」
結衣は椅子にもたれ、天井を見上げた。強張っていた肩が、ようやくゆっくりと沈んでいく。
「じゃあ……もう少し、一緒にやろう」
「合理的だな」
ダイニングの灯りは、まだ消えない。窓の外では冷たい風が吹いているはずなのに、マグカップから伝わる温度が、今はやけに心地良い。それは飲み物の温度だけじゃなく、すぐそばにいる存在のせいだと、結衣は気づいていた。




