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1-3

「――聖女よ、目覚めるのです」


 聞き覚えのない女性の声が響く。

 まるで、頭の中に直接語りかけられているようで――初めての感覚に、背筋がぞわりとした。


(えっと……私、さっきまで何してたっけ?)


 横になっているはずの体は、ふわふわと宙に浮いているみたいで。

 なのに眠気だけが重くのしかかり、指一本、動かせない。


(変な夢……幽体離脱?)


 生まれてこのかた心霊現象とは無縁の人生だった。

 だからこそ、この状況にどう対処すればいいのか見当もつかない。


「――あなたは選ばれたのです、聖女よ」


(ど、どうしよ。私まで死んだら、お兄ちゃんどうなるの……)


 そこまで考えて――ふっと、現実がつながる。


(……あ。思い出した!炊飯器から自称魔王の黒い生き物、出てきたんだった)


「――どうか私の世界をお救いください」


(帳簿を見てて……急にコンサル始まったと思ったら、魔王が帳簿を直すとか言い出して……)


「――頼みましたよ、聖女よ」


(っていうか、さっきからこっちをガン無視して喋り続けるの何!?人の話を聞けー!)


「――世界の命運を、あなたに託します……」


(何を託すのか知らないし、分からないし、指示が曖昧すぎ!ホウ・レン・ソウが基本でしょうが!)


 あまりの暴虐無人ぶりに、さっきまで指一本動かなかった体が、勢いよく跳ね起きた。


「いったた……!」


 変な寝方をしていたのか、全身の筋肉が固まって悲鳴を上げる。


 ――すぴぴ。


 小さな寝息が、足元から聞こえた。


 眠い目をこすって見下ろすと、黒い小さな生き物が『初めての簿記』を抱えながら寝ている。

 自分の足元には、飛び起きた拍子にぐしゃぐしゃになった毛布が転がっていた。


「……そうか。昨日、あのまま寝ちゃったのかな」


 固まった体をほぐすように大きく伸びをする。


 昨日、突然始まった魔王による米屋コンサル。

 それに続いて「字が読めねば話にならぬ」と、私がついこの間買った『初めての簿記』の朗読をさせられたのだ。


 聞き慣れない用語と、炊飯器から魔王が出てくるという非日常。

 疲れていたのか、途中からの記憶がない。


 兄が見かねて毛布でもかけてくれたのだろう。

 おかげで寒さで起きることもなく、ぐっすり朝を迎えた――というわけだ。


 それにしても。


 寝ているこの黒い生き物は、魔王と名乗るわりに無防備すぎる気がする。

 寝顔だけ見れば、まるで小動物で――


 結衣はたまらず手を伸ばし、黒いふさふさの毛並みを堪能した。


「ふわふわ……」


「……ん」


 起こさないように触ったつもりだったのに、魔王の目がうっすら開く。

 眠たげな赤い瞳が、結衣の視線に気づいて丸くなった。


「私まで眠ってしまっていたか……どうにも魔力が安定していないようだ。この体は体力がなさすぎる」


「見た目は可愛らしい小動物だしね」


「む、失敬な。私は三日徹夜しても問題ないほどの体力の持ち主だぞ」


「いや、睡眠は大事だから」


 昨日の話ぶりからして、この魔王は案外、仕事中毒なのかもしれない。


 結衣は髪を手櫛でほぐしながら立ち上がった。

 朝ごはんの支度をしよう――魔王はそこに本と一緒に転がしておけばいいか。


「朝ごはん、食べるでしょう?」


「うおぬまさんか?」


「残念。あれは特別な時だけ。今日は別の銘柄。でも、うちの米はどれも美味しいんだから」


「違う種類が食べられるのか!」


 妙にキラキラした目でこちらを見上げる姿は、“ごはん”のワードでお座りするペットそのものだった。


(……そういえば、さっきの夢)


「聖女」と呼ばれた気がするのは、気のせいだろうか。

 結衣は首を振り、考えるのをやめた。




 昨日のうちにセットしておいたお米は、すでに炊き上がっている。

 今日はバイトが休み。久々にゆっくり食べられる朝ごはんだ。


 冷凍庫から取り出したのは、スーパーの特売で買った冷凍干物。

 鍋には薄切り玉ねぎと、不恰好に切った豆腐。味噌汁の準備を進める。


 その間に、グリルの中で魚がぱちぱちと音を立て、香ばしい匂いが台所に広がった。


(……そろそろいいかな)


 グリルを覗き込んでいると、後ろからトテトテと足音が近づいてくる。


 振り向けば、魔王がちょこちょこと歩いてきた。


(……可愛すぎない?)


 ペットを飼う人の気持ちが、ちょっとだけ分かった気がする。


「良い匂いだ」


「もう少しでできるから、大人しく待ってて」


 素直に頷く魔王の頭を、結衣は撫で回したい衝動に駆られた。




 兄はいつものように配達に出てしまっている。もう少ししたら帰るはずだが――

 じーっとテーブルを見つめる魔王の圧に負けて、先にいただくことにした。


「いただきます」


「……いただきます?」


 結衣の真似をして、小さな両手を合わせて首を傾げる。

 意味は分かっていないだろうに、合わせてくるところがまた可愛い。


「儀式の挨拶のようなものか」


 ひとりでふむふむと納得してから、魔王は小さなスプーンでご飯を頬張った。


 くりくりの目を大きく瞬かせて――


「うまい」


「……でしょ?」


 結衣は少し得意げに鼻を鳴らす。


 魚は魔王の手ではほぐせないと判断し、小皿にほぐした身をよそうと、魔王は小さく頭を下げた。


「感謝する」


(……本当に律儀)




「程よい塩味が、ご飯との相性を倍増させているな。ほろほろとほどける身も柔らかくてうまい」


 味噌汁を挟みつつ食べ進める魔王は、その容姿の特異性がなければ驚くほど日本の食卓に溶け込んでいた。


 すぐに空になった茶碗を、しゅんと寂しそうに見つめている。


 結衣は二杯目をよそいながら言った。


「もうひとつ、ごはんの贅沢な食べ方を教えてあげよう」


 冷蔵庫から卵と醤油を取り出し、湯気の上がる白いご飯の真ん中を少しだけ窪ませる。


 コンコン、と殻にひびを入れて――ぱかり。


 黄金色の黄身が、真っ白な米へととろりと落ちた。

 醤油をひと回し。黒と金が混ざり合い、香りだけで勝ち確。


「全部混ぜてもいいし、ちょっとずつでもいいよ。好きなように食べてみて」


「……何かの卵か。生で食べるとは斬新な……」


 そう言いながらも、魔王は一切ためらわずスプーンを口に運んだ。

 未知の食材に対する警戒心というものが、まるでない。


 次の瞬間。


 魔王の尻尾らしきものが、ぶんぶんと振り回され始めた。


「……!」


 言葉にならない声。

 目は輝き、まばたきすら忘れている。


 熱々の米粒に、冷たい卵が絡む。

 醤油の香ばしさがふわりと立ち上がり、口の中で甘みがほどけていく。


 どうやら卵かけご飯は、相当お気に召したらしい。


 ……まさか、この小さな魔王が、私の朝の風景を変えていくことになるなんて


 そのときの結衣は、まだ知る由もなかった。

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