第19話 魔王、家に居場所を作る
(その家は、気づけば四人分の居場所になっていた)
玄関の扉が開く音がした。
金属の擦れる音、靴底が土間を滑る音。
「ただいまー」
いつも通りの声——のはずだった。
リビングの扉を開けた豊の足が、一歩踏み込んだところでぴたりと止まる。
視界に入ったのは、見慣れない色だった。
金。銀。そして長身の黒髪。
豊は瞬きをして、もう一度見た。
変わらない。
金髪の子供。銀髪の子供。
そして、威圧感を放つ男。
沈黙の中で、豊の脳内で何かが高速回転しているのが分かる。
「……ゆ」
喉がひくりと鳴る。
「ゆ、結衣に‼ まさか結衣に隠し子が……⁉」
「んなわけないでしょ!!」
即座に飛ぶツッコミ。
ノクスは腕を組んだまま無言で、双子はきょとんとしている。
豊は固まったまま、もう一度子供たちをよく見た。
耳、目の色、顔立ち。
それから結衣を見て、また子供を見る。
「……だよなー、ははは。びっくりしたー」
心底ほっとした笑顔だった。
(びっくりする方向がおかしいわよ……!)
頭を掻きながら部屋に上がった豊が、「また炊飯器から出てきたのか?」と聞く。
「……おかげで、また魚沼産が消えたわ。もう炊飯器買い替えた方がいい? それともお祓いしてもらった方がいい?」
「うーん……でも、まだまだ使えそうだけどなぁ」
「でも、お祓いとかしたらノクスとか消えないのか?」
「……うーん、わかんない。そもそも魔王って存在がお祓いされるイメージないけど」
それまで黙っていたノクスが、不意に口を開いた。
「結衣。私はアンデッド系のモンスターではない。竜種だ。よって“祓う”という行為を行っても消滅はしない」
「うん、真面目に返してくれてありがとう」
夜も更けた頃。
リビングには、ガチャガチャと食器を洗う音が響いていた。
結衣の隣で、いそいそと洗い物を手伝っているのは、青年の姿に戻ったノクスだ。
豊は風呂掃除に行っていて、この場にはいない。
テレビの前で、結衣たちの意識が向いていないことを確認してから、アイルが小声で言った。
「……ねぇ、キリ」
「なんだ」
「あの人、ほんとに魔王なのかな?」
キリはテレビを見つめたまま、すぐには答えなかった。
「あんな、ふざけた姿でさ。魔力も、正直……薄いよね?」
「……少ない。だが、完全に消えているわけではない」
アイルがくすっと笑う。
「でもさ、威圧感だけは本物だよね」
「……ああ」
あの目。
あの、場の空気ごと掌握するような立ち方。
本気になれば、今の姿でも殺される——そう確信させる何かが、確かにあった。
「確認する術がない」とキリは低く呟く。「魔族領で聞いていた話とは、別人のようだ」
「そうだよね。魔王なのに、人間の生活に溶け込みすぎてるし」
視線がキッチンへ向く。
魔王が、真剣な顔で皿の水滴を拭き取っている。
袖が濡れているのに気づいた結衣が、笑いながら引っ張り上げていた。
ただの人間の営みのような、静かな光景。
「……仮に魔王だったとしても」キリは静かに言う。「ここは魔族領ではない」
「うん」
「この世界で生きるなら、状況を把握するしかない」
アイルは結衣の背中を見つめたまま、ぽつりと言った。
「僕は、嫌いじゃないよ」
「何がだ」
「この家の空気」
一拍、置く。
「僕たちの世界より、あったかい」
キリは小さく息を止めた。
「……エルフってだけで、睨まれることも多いしね」
アイルはさらりと続ける。
「森でもそうだけど、外に出ても、ずっと“よそ者”だった」
キリは何も言わなかった。
言えなかった、というのが正しい。
アイルの言葉が、正確だったから。
誰かの縄張りの外側で生きることに、ずっと慣れようとしてきた。
慣れたふりを、してきた。
「だからこそ、俺がしっかりする」
アイルがくすりと笑う。
「また兄ぶってる。僕がお兄ちゃんなのにね」
「黙れ」
「でもさ」
アイルは目を閉じる。
「もしあれが本当に魔王なら」
「……」
「面白いことになるよ」
キリは答えなかった。
ただ、胸の奥で静かに決める。
帰る方法は探す。
だが、それまでは——
アイルを守る。この世界で。
二人の背後から、ぬっと影が落ちた。
「お前ら、風呂入るぞ」
振り向くと、豊が腕を組んで立っていた。妙に真剣な顔で。
「え?」
「風呂」
「……ふろ?」
「自分たちだけで入れるか? まだちびっ子だろー? シャワーなんて手が届かないぞ」
キリは黙り込む。
キッチンから、ノクスの声が飛んできた。
「安心しろ。殺されはせん」
「そんな疑いはしていない」
「している顔だぞ」
アイルは楽しそうだが、キリは逃げ道を測るように豊を見る。
その様子を見て、豊がハッとした。
「ま、まさか……結衣と入りたいのか?」
「違うっ‼‼」
顔を真っ赤にして即座に否定する。
「じゃあ問題ないな!」
反応する間もなく、二人の体が宙に浮いた。
米の配達で鍛えられた筋力は伊達ではない。
「漢同士、裸の付き合いだなー!」
笑いながら消えていく豊の背中に、結衣が呼びかける。
「お兄ちゃーん、ほどほどにねー!」
リビングに残った結衣は、振り返った。
「……ね、ノクス」
「どうした?」
「私たちも一緒に入る?」
いたずらっぽく首を傾げる。
ノクスは一瞬固まった後、静かに結衣の肩に手を置いた。
「結衣。淑女は無闇に肌を許すものではない」
真剣そのものの声音で。
「もう、冗談だって」
結衣はくすっと笑った。
数分後。
風呂場から、盛大な水音と悲鳴が響いた。
「うわああああああ!!」
「ちょ、待て、何をする!!」
「じっとしてろー! 頭からいくぞー!」
ばしゃあああああ!!
「すごーい! 雨みたい!」アイルの歓声。
「雨じゃない!!」
「目ぇ閉じろ目ぇ! 石鹸入るぞー」
「だから待てと言っている!!」
ごしごしごし。
「痛っ! 痛い!!」
「汚れが落ちてる証拠だ!」
「泡だー! ふわふわー!」アイルが腕を振り回す。
「動くなアイル!! 滑る!!」
どん。
「わっ」
「だから動くなと言っただろう!!」
ばしゃん。
一瞬の静寂。
「ははは! いい湯だろー!」
どうやら湯船に強制投入されたらしい。
「すごい! 体が浮く!」
キリは呆然としていた。
「……終わった」
魂の抜けた声だった。
「俺の人生が終わった」
リビングで、結衣は風呂場の方に耳を向けていた。
「……大丈夫かな」
「殺されはせん」とノクスが静かに答える。
「そういう意味じゃないのよ」
一拍。
「目に入ったああああ!!」
「だから閉じろと言っただろう!!」
結衣は苦笑した。
「……うん、大丈夫そう」
湯気をまとって三人が出てきた。
アイルはぴかぴかで、豊は満足げで、キリは放心していた。
「どうだ、さっぱりしただろ?」
キリは少しの間、黙っていた。
豊を見る。
それからアイルを見る。
それから、キッチンの方向を一瞥して——
再び、豊に視線を戻す。
「……敵ではない」
「え?」
「だが」
キリは静かに言い切った。
「二度と油断しない」




