2-6
結衣のストレスが多少なりとも和らいだのか、今日の朝はほっとしたような笑顔で、足取り軽く仕事へ出かけていった。
豊も朝から倉庫へ米を取りに出ていて、家にいるのはノクスだけだ。
静かな室内に、時計の音だけが刻まれている。
ノクスにとっては、最高に集中できる環境だった。
結衣が仕事に出てから集め続けている資料は、机の上を占領するほどの枚数になっている。
人員配置の見直し、業務の流れの整理、教育コスト、離職率。
そして補助金制度――設備投資支援、人材育成助成、省力化補助。
制度を活用すれば、資金の問題はある程度緩和できる。
だが。
それだけでは、いずれ限界は来る。
売上そのものを引き上げなければ意味がない。
客単価の向上、差別化商品、地域密着型のサービス。
論理は組める。
だが――視線が資料の山へ落ちる――手が足りない。
市場調査、競合分析、商品開発、制度申請、現場教育。
全て同時に動かさなければならない構造だ。
今の状態では、人型の姿を長く保てない。
競合調査だけで何日かかるか分からない。
歯痒さを覚えながらも、ノクスは小さく息をついた。
一つずつ、積み重ねていくしかない。
⸻
「ノクスー? 今日ね、いいもの炊こうと思うんだけど」
仕事から戻った結衣が、キッチンから顔を覗かせた。
「……いいもの?」
「魚沼産コシヒカリ」
思考が一瞬止まる。
「久々のご褒美。ほら、昨日付き合ってくれたお礼もあるし」
米を計って洗い始める結衣の手から、かすかに魔力が流れ出しているのをノクスは感じた。
この世界に魔力と呼ばれるものは存在しない。
だが何故か、稲宮の兄妹だけはその流れを持っている。
だからこそ結衣の手料理や豊が精米した米には意味がある――摂取すれば、それはノクスの魔力へと還元されていく。
本人たちはまったく気づいていないようだが、この世界では魔力を必要とすることもない。
特に支障がないのだから、当然だろう。
洗い終わった米に水を注ぎ、結衣が炊飯器に釜をセットした、その時だった。
不意に――
空気の流れに、切れ目が入るのをノクスは感じた。
呼吸が止まる。
「……⁉ 待て、結衣‼」
「……え?」
何かが、やってくる。
確信した瞬間、世界の輪郭がわずかに歪んだ。
結衣が“炊飯”のボタンを押した、その瞬間だった。
光。
視界を焼き尽くす、純白の閃光。
反射的に伸ばした手が結衣の腕を掴み、強く引き寄せる。
覆うように抱き込む。
――何が来てもいいように。
どさり、と。
この世界の重さではない何かが、床に落ちた。
⸻
結衣は気づけばノクスの腕の中にいた。
さっきまで小さかったはずの彼は、長身の青年の姿になっている。
近すぎる。
体温も、息遣いも、すぐそばにある。
心臓が、うるさいほど鳴った。
「いたた……」
背後から、聞き慣れない子供の声。
恐る恐る振り返る。
そこにいたのは、天使のように可愛らしい子供が二人。
日本人にはありえないほど透き通った金髪と銀髪。
そして――耳が、鋭く尖っていた。
「耳が尖ってる……?」
「エルフか」
ノクスは厳しい視線を向けたまま、静かに呟いた。
⸻
「あの……良かったら、どうぞ」
テーブルの上に、グラスに注いだオレンジジュースを置く。
金髪の少年は終始ニコニコしているが、銀髪の少年はノクスと結衣を睨みつけるように、警戒心を剥き出しにしていた。
「ありがとう〜」
「おい、アイル。見知らぬやつからのものなんて受け取るんじゃないぞ」
「でもキリ、せっかく出してもらったんだし……それに、多分この人は大丈夫だと思うよ? なんか、こう……ふわっとしてる」
「お前な……」
静まり返ったリビングに、かすかな緊張が張りつめる。
グラスの前でアイルが手を伸ばしかけて、止まった。
くん、と小さく鼻を鳴らす。
「……ねぇキリ」
「何だ」
「空気、変じゃない?」
沈黙。
キリの瞳がわずかに細まり、深く息を吸う。
そして、止まった。
ゆっくりと視線が動く。
壁、床、炊飯器、テーブル――そしてノクス。
「……空気が変だ」
低い声だった。
「自然のものでも、人工のものでもない。……混ざり合っている」
アイルが小さく笑う。
「だよね。なんかね、空気がね、世界樹の近くみたいに甘い」
「甘い?」結衣がきょとんとする。
誰も答えない。
双子の視線が、同時にノクスへ向く。
測るように。探るように。
しばらくの沈黙の後、キリが口を開こうとした――その瞬間。
「ノクス? 一体どうなってるの?」
結衣が何気なく言った。
空気が、凍った。
双子の表情が完全に止まる。
ゆっくりと、ゆっくりと、キリの首が動いた。
「……今」
声が低く沈む。
「何と呼んだ?」
「え? ノクスだけど」
沈黙。
アイルが瞬きをする。もう一度。ノクスを見る。さっきより、ずっと真剣に。
「……え」
「……嘘だろ」
キリの声がかすれる。
「……まさか」
ノクスは腕を組んだまま、無表情で二人を見下ろしていた。
観察する者の目で。
「何を騒いでいる」
キリが顔を上げる。
無礼でも敬意でもない、確認の声で。
「……まさか、魔王……なのか?」
「名を知っているのか」
「いやその、えっと、知ってるっていうか、有名っていうか、うん、伝説的な存在っていうか」
アイルが慌てて割り込む。
「魔族領の統治者。深淵の魔王」
キリが低く続ける。
「……存在だけはな」
ノクスの目が細まった。
「……なるほど。噂程度には知られているらしいな」
軽く吐き捨てるような声。
それからノクスは双子を改めて観察し始めた。
頭から足先まで、解剖するように。
「……妙だな」
双子が身構える。
「魔力が枯れている。肉体の維持が不安定だ」
ノクスは淡々と続ける。
「それに――」
視線が双子の間を行き来する。
「年齢構造が、合わない。これは本来の姿ではないな」
キリの瞳が、かすかに揺れた。
「……わかるの?」アイルが小さく声を漏らす。
「当然だ」
一歩近づく。
双子が反射的に身を引く。
「強制転移の反動か。魔力不足で肉体が退行した。この世界の魔力濃度では、維持できんのだろう」
キリの手が、微かに震えていた。
ノクスはそれを見て、少し間を置いてから呟いた。
「……エルフか」
二人が息を呑む。
ノクスの眉がわずかに寄る。
「そういえば、昔取引したな……」
遠い目になる。
ものすごく嫌そうな顔で。
「規律だの、調和だの、前例だの……百年待たされた。途中で三回、契約書を書き直された」
「うわ怒ってる」
アイルがキリに小声で。
「怒ってるな」
キリも小声で。
ノクスははっとして現実に戻る。
「……で」
双子を見る。
「何故ここに落ちてきた」
「知らん」
キリが即答。
「気づいたらいた!」
アイルが元気よく。
ノクスは深くため息をついた。
「……そうか」
「……あの、ちょっと。そろそろ私にも分かる言葉で説明してもらっていいですか⁉」




