2-5
翌日、薄曇りの午前中。
風はまだ冷たいが、日の当たる場所はそれなりに過ごしやすい。
結衣はいつもより少しだけ明るい色のコートを羽織り、玄関で靴紐を結び直した。
「じゃ、行こっか。……今日は”視察”禁止だからね」
念を押すように言われ、ノクスはバッグの中で小さく頷く。
「……了解した」
特にどこかへ行くとは決まっていなかったが、結衣の足は自然と公園へ向かっていた。
通勤時間の過ぎたこの時間帯に外を歩いているのは、幼い子供を連れた母親や年配の人ばかりで、慌ただしさから切り離されたような清々しさがある。
こんなのんびりした午前中は、久しぶりだ。
車の音も、子どもの声も、どこか遠い。
公園に着くと、遊具から離れた人気のないベンチに座る。
結衣は深く息を吐いた。
「……なんかさ。昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが残ってる感じ」
独り言のような呟き。
ノクスはバッグの縁から小さく顔を出す。
疲労の回復が想定より遅い、とノクスは静かに記録する。
「でも、外出たらちょっとマシかも。家にいると、考えちゃうし」
結衣は笑ってそう言った。
気にしてないよ、という顔で。
「……仕方あるまい。これも業務内容の一部だ」
「え、ちょっ、ノクス⁉︎」
あたりを一瞥したノクスはバッグから飛び出し、結衣の膝の上に着地した。
結衣が慌てて周囲を確認するが、人の気配はない。
「もう、急に出てきたらダメじゃない」
「周りの気配は把握している。……今日は特別に、撫でても抱きついても良しとしよう」
その方が、癒されるのだろう?
振り返ったノクスの顔に、微かないたずらの色がある。
前回の「私を癒してよ」を逆手に取っているのだろう。
少し腹が立ったけれど、結衣はその小さな頭をもみくちゃにすることで良しとした。
⸻
公園を出てから、結衣はいつもの商店街とは違う通りを歩いた。
新しいテナントの入れ替わりが多い通りで、見慣れない看板が並んでいる。
ノクスはバッグの縁から頭をこっそり出して、物珍しそうに通りを見ている。
一人じゃないからだろうか。
ただ歩いているだけなのに、何となく楽しい。
「あ。あそこ新しいカフェが出来てる」
「かふぇ……茶を出す場所か」
「うん。甘いものもあるよ」
しばらく黙り込んだノクスが、結衣のコートの袖を引っ張った。
「結衣、あちらの細い道に入れるか」
「……?いいけど」
路地に入った次の瞬間、結衣のすぐ隣に長身の男性が現れる。
「……っ⁉︎ ノクス⁉︎」
「ここなら死角だ。人目も監視もない」
ノクスはにやりと笑って、結衣の腕を引いた。
向かった先は、さっきのカフェの入口だ。
「入りたかったのだろう」
「で、でも……ノクス大丈夫なの? ずっとこの姿は無理なんでしょう?」
「前より力は戻ってきている。茶を飲む時間くらいは余裕だ」
それに、と続ける。
「豊より軍資金は預かっている」
⸻
カフェの中は、思っていたより静かだった。
白を基調とした内装に、控えめな照明。
午前中という時間帯もあって、客は数えるほどしかいない。
結衣は窓際の席に腰を下ろし、コートを脱いだ。
椅子に身を預けた瞬間、ふっと息が抜ける。
「疲れたか」
「ん〜……ちょっと気が抜けたのかな。仕事中の方がもっと歩いてるし」
「体の疲れというより、精神的なものだな」
「へへ、まぁ最近、色々あったしね」
カップから立ち上る湯気が、冷えた頬に触れた。
コーヒーの香りが胸の奥まで落ちてきて、自然と肩の力が抜ける。
そっと口をつける。
苦味のあとに、わずかな甘みが残った。
ケーキをひと口頬張ると、ふわりとした生クリームが舌の上でほどける。
「美味しい……!」
「これはなかなか……」
同時に息を吐いた二人は、顔を見合わせて小さく笑った。
他愛のない話が、途切れることなく続く。
⸻
ふと、結衣の視線がカウンターの方へ向いていることに、ノクスは気づいた。
会計をしているのは、結衣と同じくらいの年頃の女性だった。
客と目を合わせ、何か言葉を交わし、柔らかく笑う。
隣のスタッフに声をかけられると「はーい」と軽やかに返事をして、厨房の奥へ消えていった。
無理をしているようには見えなかった。
そこにいることが自然であるかのように、動いている。
「……いいな」
ぽつりとこぼれた言葉に、ノクスは何も言わなかった。
⸻
「……最近、何か悩んでいるのだろう」
「……うん」
落ち着いた空間がそうさせるのか、結衣は少しずつ話し始めた。
「何ていうか、仕事は嫌いじゃないの、多分。体動かしてるの好きだし、帳面やってる時より充実感が違うし」
「おい」
一緒に帳面を整理している本人を前に何を言う、と言わんばかりの声に、結衣は笑ってごめんごめん、と言った。
「帳面も、前より理解できるから嫌だってわけじゃないよ。ただ、体動かしてる方が好きなだけ」
「……まぁ、理解はできる」
でもね、と結衣は少し遠くを見る。
「頼まれれば力になりたいって思うし、他に人がいないから仕方がないって思うんだけど……。毎回、なんで自分だけなんだろって思っちゃう時があってね。そんな時はちょっと疲れちゃうんだ」
力なく笑う。
ノクスは、すぐには言葉を返さなかった。
怒りでも悲しみでもない。
もっと曖昧で、もっと日常的な疲れ方だった。
「……“嫌だから”ではないのだな」
「うん。嫌だったら、多分もっと早く辞めてると思う。でもさ、出来ちゃうから。回っちゃうから。だから……まぁ、いっか、って」
その「いっか」という言葉が、どれほどのものを飲み込んできたのか。
ノクスは静かにそれを受け取った。
「そうやって我慢してるうちに、自分がどこまでなら大丈夫なのか、分からなくなってきて」
ノクスは、結衣の手元に目を落とした。
壊れてはいない。
ただ、摩耗している。
しかも本人が気づかないままに。
⸻
「今日は一緒に来てくれてありがとね」
結衣は空になったカップの縁を指でなぞりながら言った。
「ノクスが一緒だと、気が抜けちゃうのかな……。これがお兄ちゃんだったら、言えなかったと思う」
一瞬だけ、視線を伏せる。
「お兄ちゃんも、ずっと頑張ってるから、さ」
誰かの頑張りを思い浮かべた瞬間、自分の言葉を引っ込めてしまう。
ノクスはそれに気づきながら、何も言わなかった。
必要なのは「もっと頑張れ」ではない。
結衣自身の基準を、取り戻すことだ。
⸻
カフェを出ると、冬の空気が頬を刺した。
結衣の足取りは、来た時より少し軽い。
その隣を歩きながら、ノクスは思考を切り替えた。
問題の表層は人手不足だ。
だがその奥に、もっと根深いものが潜んでいる。
あのバックヤードの怒声。
「できていない」という言葉を盾に、他人を削ることでしか自分を保てない人間。
そして、それを黙認し続ける管理者。
採用には時間がかかる。
教育には人手が要る。
人を増やすだけでは、負荷は結局また結衣へ戻る。
構造を変えなければ意味がない。
⸻
その時、不意に——
狭いバックヤード。
逃げ場のない距離。
あの甲高い声。
何も言い返さずに立っていた、結衣の背中。
胸の奥で、何かが軋んだ。
⸻
ほんの一秒だけ。
すべてを壊してしまえば楽だと思った。
店も、役職も、あの声を上げた存在ごと、構造ごと、根こそぎ。
だが——
ノクスはゆっくりと息を吐いた。
それでは、結衣は望まない。
恐怖で従わせることは修復ではない。
これは制圧ではなく、再設計だ。
(衝動で動くな)
結衣が普通に働ける場所。
それだけが、目的だ。
思考が静かに整列する。
その隣で、結衣は何も知らずに歩いている。




