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21/26

2-5

 翌日、薄曇りの午前中。

 風はまだ冷たいが、日の当たる場所はそれなりに過ごしやすい。


 結衣はいつもより少しだけ明るい色のコートを羽織り、玄関で靴紐を結び直した。


「じゃ、行こっか。……今日は”視察”禁止だからね」


 念を押すように言われ、ノクスはバッグの中で小さく頷く。


「……了解した」


 特にどこかへ行くとは決まっていなかったが、結衣の足は自然と公園へ向かっていた。


 通勤時間の過ぎたこの時間帯に外を歩いているのは、幼い子供を連れた母親や年配の人ばかりで、慌ただしさから切り離されたような清々しさがある。


 こんなのんびりした午前中は、久しぶりだ。


 車の音も、子どもの声も、どこか遠い。


 公園に着くと、遊具から離れた人気のないベンチに座る。

 結衣は深く息を吐いた。


「……なんかさ。昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが残ってる感じ」


 独り言のような呟き。


 ノクスはバッグの縁から小さく顔を出す。


 疲労の回復が想定より遅い、とノクスは静かに記録する。


「でも、外出たらちょっとマシかも。家にいると、考えちゃうし」


 結衣は笑ってそう言った。

 気にしてないよ、という顔で。


「……仕方あるまい。これも業務内容の一部だ」


「え、ちょっ、ノクス⁉︎」


 あたりを一瞥したノクスはバッグから飛び出し、結衣の膝の上に着地した。


 結衣が慌てて周囲を確認するが、人の気配はない。


「もう、急に出てきたらダメじゃない」


「周りの気配は把握している。……今日は特別に、撫でても抱きついても良しとしよう」


 その方が、癒されるのだろう?


 振り返ったノクスの顔に、微かないたずらの色がある。


 前回の「私を癒してよ」を逆手に取っているのだろう。


 少し腹が立ったけれど、結衣はその小さな頭をもみくちゃにすることで良しとした。


 ⸻


 公園を出てから、結衣はいつもの商店街とは違う通りを歩いた。


 新しいテナントの入れ替わりが多い通りで、見慣れない看板が並んでいる。


 ノクスはバッグの縁から頭をこっそり出して、物珍しそうに通りを見ている。


 一人じゃないからだろうか。


 ただ歩いているだけなのに、何となく楽しい。


「あ。あそこ新しいカフェが出来てる」


「かふぇ……茶を出す場所か」


「うん。甘いものもあるよ」


 しばらく黙り込んだノクスが、結衣のコートの袖を引っ張った。


「結衣、あちらの細い道に入れるか」


「……?いいけど」


 路地に入った次の瞬間、結衣のすぐ隣に長身の男性が現れる。


「……っ⁉︎ ノクス⁉︎」


「ここなら死角だ。人目も監視もない」


 ノクスはにやりと笑って、結衣の腕を引いた。


 向かった先は、さっきのカフェの入口だ。


「入りたかったのだろう」


「で、でも……ノクス大丈夫なの? ずっとこの姿は無理なんでしょう?」


「前より力は戻ってきている。茶を飲む時間くらいは余裕だ」


 それに、と続ける。


「豊より軍資金は預かっている」


 ⸻


 カフェの中は、思っていたより静かだった。


 白を基調とした内装に、控えめな照明。

 午前中という時間帯もあって、客は数えるほどしかいない。


 結衣は窓際の席に腰を下ろし、コートを脱いだ。


 椅子に身を預けた瞬間、ふっと息が抜ける。


「疲れたか」


「ん〜……ちょっと気が抜けたのかな。仕事中の方がもっと歩いてるし」


「体の疲れというより、精神的なものだな」


「へへ、まぁ最近、色々あったしね」


 カップから立ち上る湯気が、冷えた頬に触れた。


 コーヒーの香りが胸の奥まで落ちてきて、自然と肩の力が抜ける。


 そっと口をつける。


 苦味のあとに、わずかな甘みが残った。


 ケーキをひと口頬張ると、ふわりとした生クリームが舌の上でほどける。


「美味しい……!」


「これはなかなか……」


 同時に息を吐いた二人は、顔を見合わせて小さく笑った。


 他愛のない話が、途切れることなく続く。


 ⸻


 ふと、結衣の視線がカウンターの方へ向いていることに、ノクスは気づいた。


 会計をしているのは、結衣と同じくらいの年頃の女性だった。


 客と目を合わせ、何か言葉を交わし、柔らかく笑う。


 隣のスタッフに声をかけられると「はーい」と軽やかに返事をして、厨房の奥へ消えていった。


 無理をしているようには見えなかった。


 そこにいることが自然であるかのように、動いている。


「……いいな」


 ぽつりとこぼれた言葉に、ノクスは何も言わなかった。


 ⸻


「……最近、何か悩んでいるのだろう」


「……うん」


 落ち着いた空間がそうさせるのか、結衣は少しずつ話し始めた。


「何ていうか、仕事は嫌いじゃないの、多分。体動かしてるの好きだし、帳面やってる時より充実感が違うし」


「おい」


 一緒に帳面を整理している本人を前に何を言う、と言わんばかりの声に、結衣は笑ってごめんごめん、と言った。


「帳面も、前より理解できるから嫌だってわけじゃないよ。ただ、体動かしてる方が好きなだけ」


「……まぁ、理解はできる」


 でもね、と結衣は少し遠くを見る。


「頼まれれば力になりたいって思うし、他に人がいないから仕方がないって思うんだけど……。毎回、なんで自分だけなんだろって思っちゃう時があってね。そんな時はちょっと疲れちゃうんだ」


 力なく笑う。


 ノクスは、すぐには言葉を返さなかった。


 怒りでも悲しみでもない。


 もっと曖昧で、もっと日常的な疲れ方だった。


「……“嫌だから”ではないのだな」


「うん。嫌だったら、多分もっと早く辞めてると思う。でもさ、出来ちゃうから。回っちゃうから。だから……まぁ、いっか、って」


 その「いっか」という言葉が、どれほどのものを飲み込んできたのか。


 ノクスは静かにそれを受け取った。


「そうやって我慢してるうちに、自分がどこまでなら大丈夫なのか、分からなくなってきて」


 ノクスは、結衣の手元に目を落とした。


 壊れてはいない。

 ただ、摩耗している。


 しかも本人が気づかないままに。


 ⸻


「今日は一緒に来てくれてありがとね」


 結衣は空になったカップの縁を指でなぞりながら言った。


「ノクスが一緒だと、気が抜けちゃうのかな……。これがお兄ちゃんだったら、言えなかったと思う」


 一瞬だけ、視線を伏せる。


「お兄ちゃんも、ずっと頑張ってるから、さ」


 誰かの頑張りを思い浮かべた瞬間、自分の言葉を引っ込めてしまう。


 ノクスはそれに気づきながら、何も言わなかった。


 必要なのは「もっと頑張れ」ではない。

 結衣自身の基準を、取り戻すことだ。


 ⸻


 カフェを出ると、冬の空気が頬を刺した。


 結衣の足取りは、来た時より少し軽い。


 その隣を歩きながら、ノクスは思考を切り替えた。


 問題の表層は人手不足だ。


 だがその奥に、もっと根深いものが潜んでいる。


 あのバックヤードの怒声。

「できていない」という言葉を盾に、他人を削ることでしか自分を保てない人間。


 そして、それを黙認し続ける管理者。


 採用には時間がかかる。

 教育には人手が要る。


 人を増やすだけでは、負荷は結局また結衣へ戻る。


 構造を変えなければ意味がない。


 ⸻


 その時、不意に——


 狭いバックヤード。

 逃げ場のない距離。

 あの甲高い声。


 何も言い返さずに立っていた、結衣の背中。


 胸の奥で、何かが軋んだ。


 ⸻


 ほんの一秒だけ。


 すべてを壊してしまえば楽だと思った。


 店も、役職も、あの声を上げた存在ごと、構造ごと、根こそぎ。


 だが——


 ノクスはゆっくりと息を吐いた。


 それでは、結衣は望まない。


 恐怖で従わせることは修復ではない。


 これは制圧ではなく、再設計だ。


(衝動で動くな)


 結衣が普通に働ける場所。

 それだけが、目的だ。


 思考が静かに整列する。


 その隣で、結衣は何も知らずに歩いている。


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