表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/32

第15話 魔王、静かに戦を始める

 (その職場は、壊れているのではない。壊れるように、できている。)


 スーパーの自動ドアが開いた瞬間、冬の日差しが白く弾けて、結衣の疲れた視界を塗り潰した。


 目を細めながら息を吐く。

 頭の奥にまだ残っているあの声を、外の空気ごと吐き出すように。


 お昼過ぎの住宅街。

 買い物袋を提げた主婦たちとすれ違いながら、結衣は人気のない公園のベンチへと滑り込んだ。


「……もう、出てきていいよ」


 周囲を確認してから囁くと、バッグの口がもぞりと動いた。


 ひょこっと顔を出した小さな黒い生き物は、太陽の光に目を細めてから、結衣に向かってキュルンと首を傾げてみせる。


「……その顔、確信犯でしょ」


 結衣は苦笑して、それから少しだけ表情を曇らせた。


「……はぁ。でも、ずっと暗いロッカーに閉じ込めてごめんね。怖くなかった?」


 申し訳なさそうに、指先でノクスの頭を撫でる。


 その温もりが触れた瞬間、思考の底に沈めていたものが鋭く跳ね返ってきた。


 あの金切り声。

 書類から目を上げなかった店長の横顔。

 凍りついたバックヤードの沈黙。


(……今ここで思い出すな)


 ノクスは喉を一度だけ鳴らして、意識を切り替えた。


 結衣の指先の温度が、掌に戻ってくる。

 この温もりを、あのような場所で二度と削らせてはならない。


 目を閉じ、甘えるふりをして結衣の手に擦り寄った。

 可愛らしい動作の裏で、思考は静かに回り続けている。


(怖かった、だと。愚問だな。魔族領の地下牢獄に比べれば天国も同然だ。……それより撫でる位置が三ミリほど左だ。そこだ。動くな)


「……お前が戻ってくるまでは、時間が長く感じた」


 言葉を濁して、少しだけ寂しそうに装う。

 嘘ではない。


 ただ、その「長い時間」の半分は、スーパーの構造を解体するために使っていた。


「そっか。……ほら、これ。お疲れ様のどら焼き。半分こしよ」


 バッグから取り出されたのは、割引シールの貼られたどら焼きだった。


 慣れない手つきで割られたそれを、ノクスは小さな前足で受け取る。


 甘い。


 粒あんの甘さが、口の中に広がる。

 だがこれは、結衣があの無能な店長に頭を下げ、逃げた者の穴を埋め、体を削って稼いだ金で買ったものだ。


(……許しがたい)


「ねえ、ノクス。明日、休みだったら……ちょっと散歩でもしよっか。視察じゃなくて、普通の」


「……検討しよう」


 散歩中に結衣と話せば、疲弊の深さをより正確に測れる――と思いかけて、ノクスは自分の思考に気づき、わずかに止まった。


(……合理的だな、と結論づけておこう)


「もう。何でも分析しないの。……あ、ノクス。どら焼きのカス、ついてるよ」


 結衣の指に口元を拭われ、ノクスはキュルンと目を輝かせる。


(分析などしていない。ただ、お前が明日もう少し楽に笑えるように、この世界の秩序を少しだけ直そうとしているだけだ)


 夕暮れにはまだ早い、白んだ空の下。


 一人の少女と、世界で最も危険な思想を持つぬいぐるみは、同じ家の灯りへと並んで帰っていった。


 ⸻


 夜。


 結衣が風呂に入り、湯の音が壁の向こうへ遠ざかった頃、ノクスはクッションの上で丸くなったまま、目を閉じた。


 外界を遮断するための、意図的な擬態だ。


 思考が、静かに展開される。


 最初に浮かぶのは朝の更衣室。

 狭い空間に、無防備な声が反響していた。


 人が足りない。

 また誰かが来ない。

 店長は回せると言っていた。


 次にバックヤード。

 段ボールの山、油の匂い、レジ裏の死角。


 いつものことだよね。

 若いから大丈夫でしょ。


 そして事務所前の、責任の境界線が曖昧に溶ける場所。


 言葉。

 時間帯。

 視線の向き。

 沈黙の長さ。


 ノクスはそれらを重ねながら、一つの輪郭を確かめる。


 欠勤は突発ではない。

 負荷は常に同じ方向へ流れる。


「優しい」

「断らない」

「若い」


 ――それが評価ではなく、消耗の理由になっている。


 管理者はただ、今日も回ったという結果だけを見ている。


 誰かが悪いわけではない、とノクスは思う。

 だから厄介だ。


 善意と慣習と諦めが静かに噛み合って、最も柔らかい部分だけを削り続ける。


 結衣は自覚していない。

 自分が頑張ればいいと思っている。


 周囲は、彼女がやってくれると思っている。

 管理者は、問題が起きていないと判断している。


 この構造は、均衡しているように見えて、一点だけに重さが集中している。


 力を振るう必要はない。

 声を荒げる必要も、敵を作る必要もない。


 ただ、流れを少しだけ変えればいい。


 欠勤の偏りを数値として表に出す。

 結衣が気づかないまま引き受けている「ついで仕事」を、重さとして可視化する。


 そして結衣自身に、これが美徳ではなく単なる破綻だと気づかせる。

 感情論ではなく、異常な事実として。


 命令ではない。

 誘導だ。


 結衣が選び、結衣が決めたと思える形でなければ意味がない。


 ノクスは、わずかに尻尾を動かした。


(……明日は、散歩だったな)


 湯の音が止まる。


(大丈夫だ、結衣。この世界は、少しだけ歪んでいるだけだ)


(――私が、直せる範囲だ)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ