第14話 その現場、すでに崩れている
(――これは経営ではない)
結衣の足音が遠ざかり、バックヤードの雑音が戻ってくるのを待ってから、ノクスはロッカーをそっと押し開けた。
床に降り立つと同時に、魔力を骨の奥まで押し込める。
この場所で力を使うのは愚策だ。
目立てば、結衣に皺寄せがいく。
天井近く、黒い球体が等間隔に並んでいる。
赤い光が、規則正しく瞬いていた。
(監視装置。視界は固定。死角は棚の裏と搬入口付近)
影から影へ、音もなく移動する。
冷たいコンクリートの感触が足裏に伝わるたび、戦場を渡り歩いた頃の感覚が、勝手に蘇る。
段ボールの隙間から、声が漏れてくる。
「また今日も人足りないってさ」
「そりゃ辞めるわよ。急に呼び出されて、文句言ったら空気悪くなるんだもの」
「店長、調整するって言うだけで」
声のトーン。間の取り方。ため息の回数。
ノクスは無意識にそれらを拾い上げながら、壁際のシフト表へ視線を移した。
赤ペンの修正が、執念深く走っている。
二重線で消された名前の上に、乱雑な代役の文字。
それはもはや計画表ではなく、
誰かの消耗を記録した台帳に見えた。
(計画がないのではない。守る気がないのだ)
隅に置かれた休憩椅子の背もたれが、歪んでいる。
長い時間、誰かの重さを受け止め続けた歪みだ。
ノクスは一度だけ目を閉じた。
「ちょっと色々あってね」と笑っていた、結衣の曖昧な顔が浮かぶ。
(……ここに、あいつを置くべきではない)
バックヤードの奥、事務所脇の操作盤。
小さな画面がいくつも並び、売り場とレジ、出入口を映し出している。
ノクスは空箱の影から、画面を見上げた。
レジに、列ができている。
客数は多くない。
だが、進みが異様に遅い。
一人が黙々と会計をこなす傍ら、もう一人は客の質問に捕まり、袋詰めの手すら止まっていた。
誰も助けに入らない。
その間にも、列は重く伸びていく。
(慣れで回しているのではない。
個人の忍耐で、その場を凌いでいるだけだ)
品出しの画面に切り替える。
午前中は補充の時間帯のはずだ。
だが売り場に立つのは一人だけで、バックヤードと行き来を繰り返しながら、途中で呼び止められるたびに手が止まる。
その時、背後でガシャンと音がした。
空のカゴが床に投げ出された音だ。
ノクスは反射的に影へ沈みながら、その従業員の背中を見た。
何も言わない。
ただ、刺々しい沈黙だけが空気に滲んでいる。
視線の先では、状況に気づかない別の従業員たちが談笑を続けていた。
(……指揮がないだけではない。
統制そのものが、存在しない)
画面の端の時計を一瞥する。
まだ午前中だ。本格的な混雑は、これからだ。
⸻
「ちょっと、稲宮さん! 何回言えばわかるの?」
甲高い声が、バックヤードの空気を断ち切った。
年嵩の女が、腰に手を当てて結衣を見ている。
命令口調というより、もっと単純なものだ。
感情を、ただ投げつけている。
「そこは先に確認しなさいって、前にも言ったでしょ。
周りを見て判断しなさいよ、見て!」
結衣は一瞬だけ肩をすくめ、視線を落とした。
「……すみません」
それだけだった。
言い返さない。
説明もしない。
周囲の従業員たちは気まずそうに視線を逸らし、数歩離れた店長は書類から目を上げなかった。
聞こえていないのではない、とノクスは思った。
ただ、聞かないことにしているのだ。
「忙しいんだからさ、いちいち聞かなくても分かるでしょ」
その一言で、バックヤードの空気が完全に死んだ。
――一瞬だけ。
ノクスの視線が、結衣に向く。
ノクスは影の中で、静かに状況を整理する。
怒りは湧かない。
湧く前に、思考が先に動く。
言い返さない者。
空気を壊さない者。
それだけで、矛先に選ばれる十分な理由になる。
教える仕組みはない。
基準も、共有もない。
あるのは、怒鳴ることで自分の優位を確かめる者と、
それを黙認することで現場の平和を保とうとする者だけだ。
(経営ではない。これは、ただの自壊だ)
結衣は何事もなかったかのように、次の作業へ戻っていった。
背中は小さい。
だが、折れてはいない。
それが――なおさら、悪い。
(よく覚えておけ)
この場で声は上げない。
力も使わない。
力で黙らせれば、あいつの居場所が消える。
だから、この世界のやり方で。
ノクスは影の奥へ、静かに身を引いた。
今日の観察は、十分すぎるほどだった。




