第12話 魔王、日常に介入する
(――その環境、放置する理由がない)
朝の台所には、炊きたての米の匂いが満ちていた。
炊飯器の蓋の隙間から立ちのぼる白い湯気が、冬の朝の冷えた空気に溶けていく。
しゃもじでひと混ぜするたび、白い粒が重なり合って、ほのかに光った。
「……よし」
結衣は一度、深呼吸してから炊飯器の蓋を閉める。今日は、昨日の晩御飯の残りを温めて……
「もう一混ぜした方が、下の層まで均一になる」
すぐ横から、落ち着いた声がした。
「――っ!」
反射的に肩が跳ねる。
「……ノクス! だから急にその姿になるのやめてってば!」
そこに立っていたのは、ついさっきまでテーブルの縁に座っていたはずの、小さな魔王ではなかった。
人型の、背の高い青年の姿。
――すぐそこに、立っている。
黒髪は少し無造作で、赤い瞳は眠たげなのに妙に鋭い。
エプロンも何もつけていないのに、朝の台所に違和感なく立っているのが、余計に腹立たしい。
「合理的な助言だ」
「そういう問題じゃないの! 朝から心臓に悪いの!」
結衣は胸に手を当て、もう一度大きく息を吐いた。
――最近、魔王のことを「魔王」と呼ばなくなった。
名前を知ってしまったからだ。
ノクス。
口にすると、相手が急に“個人”になる気がして、少しだけ距離感を測り直さなければならなくなる。
「味噌汁は、火を弱めた方がいい」
「はいはい……」
結衣は文句を言いながらも、火加減を調整する。
魔族領を統治していたという魔王は、ずいぶん日本の食文化が気に入ったらしい。
最近では情報を調べるかたわら、料理のレシピを見ているのを結衣は知っている。
小さな魔王が台所をちょろちょろしていた頃は落ち着かなかった。
けれど今は、ノクスがいることで、朝の段取りが一人分増えたような、不思議な安定感がある。
「じゃあ、行ってくるね」
バイト用のバッグを肩にかける。
中身は最低限。財布、スマホ、メモ帳。
「今日の予定は?」
「朝から夕方まで。多分、残業は……ないと思う」
「“思う”か」
ノクスは小さく頷き、PCに視線を落としていた。
今日も情報収集と、米屋の今後についての戦略整理だ。
結衣はその横顔を一瞬だけ見て、靴を履こうとして、ふと手を止めた。
右手の甲。
そこには、淡い光を帯びた紋様が浮かんでいる。
細い線が絡み合った、不思議な形。
まるで焼き付いたように肌に馴染んでいるのに、痛みはない。
ノクスと契約を交わした時、現れた印だ。
「……今日もある」
小さく呟いて、指先でそっとなぞる。
触れると、ほんのり温かい。
生きているみたいに、かすかに脈打っている。
だが、この印は結衣にしか見えない。
魔力を持たない人間には、何もない手の甲にしか映らないらしい。
――契約の証。
――位置の把握。
――緊急時の干渉。
合理的な理由を、ノクスは淡々と並べていた。
ただ一つ。
本来なら、心臓に近い場所に刻む方が望ましいとも言っていた。
けれど最終的に手の甲を選んだ理由については、「効率の問題だ」としか語らなかった。
(……本当かな)
何となく。
それだけではない気がする。
ぎゅ、と拳を握る。
すると、少しだけ安心した。
理由は分からない。
けれど――
ここに触れると、ノクスが近くにいるような気がする。
結衣は手を離し、玄関の扉を開けた。
***
夕方。
鍵の回る音に、ノクスは顔を上げた。
結衣の足音は、いつもより遅く、重かった。
「……おかえり」
「ただいま……」
結衣は靴を脱ぐのに少し手間取り、壁に手をついて体を支える。
肩が落ち、目の下に薄く影ができている。
「何かあったか」
「うん……ちょっと、色々」
それ以上は言わない。
言葉を探す気力がないのが、はっきりと分かる。
ノクスは、それ以上踏み込まなかった。
(今は、聞く時ではない)
***
翌日。
本来なら休みのはずの朝。
スマホの振動音に、結衣が眉をひそめる。
「……え?」
画面を見つめたまま、しばらく動かない。
「今から……?」
通話を切り、短く溜息を吐いた。
「ごめん、ノクス。呼び出し」
「休みでは?」
「人が足りないって」
それだけで済ませ、結衣は着替え始める。
***
数日後。
今度は夜。
「またか」
バッグを持つ結衣の動きは、どこか機械的だった。
「この前も急だったな」
「うん。ついこの前、急に辞めちゃった人がいて……」
「辞めた?」
「ロッカーの横にメモが貼ってあったの。
『次の職場に〇日に行く事になりましたので、今月末で退職させていただきます。よろしくお願いします』って」
淡々とした口調。
だが、その裏に、疲労と諦めが滲んでいる。
「……『よろしく』? 誰が誰に何を頼んでいるのだ、これは。言葉の定義が崩壊しているぞ」
ノクスの思考が、静かに回り始める。
人員不足。
突発的なシフト変更。
補充も引き継ぎもない離脱。
(……戦場だな)
だが、統率も補給も破綻している。
「結衣」
「なに?」
「次の休みは?」
「明後日」
ノクスは頷いた。
「視察が必要だ」
「……は?」
「お前の職場だ」
結衣は一瞬、言葉を失った。
「な、なんでそうなるの」
「合理性を欠いた環境は、いずれ崩れる」
赤い瞳が、静かに細められる。
「放置する理由がない」
――ノクスは、すでに次の一手を考えていた。
その環境が、結衣を削るものであるならば。
王として、看過する理由はない。




