番外編 魔王、ぬかまみれになる
(ぬかまみれになった魔王が尊厳を失った話)
発端は、ほんの些細な油断だった。
精米作業の合間、豊が米の説明をしながら作業場を歩き回るのに合わせて、魔王はその肩の上で熱心に耳を傾けていた。
「この山形産のやつはさ、粒が大きくてしっかりしてるんだよな。炊いたときの存在感がすごくて」
「ふむ……粒の大きさが食感に直結する、ということか」
「そうそう。あと——」
豊が身を乗り出した、その瞬間だった。
ずる、と。
肩から滑った体が宙を舞い、次の瞬間。
ぼすん。
作業場の隅に積まれていた、米ぬかの袋の中へ、魔王は綺麗に着地した。
しばらく、沈黙。
「……」
「……大丈夫か?」
「……」
袋の中から、ぬかにまみれた小さな黒い影がゆっくりと顔を出す。
全身は真っ白。
真紅の瞳だけが、ぬかの中できらりと光っていた。
「豊」
「う、うん」
「……見なかったことにしろ」
「……うん」
しかし、作業場に戻ってきた結衣には、一瞬でバレた。
「……動かないで」
結衣は腕まくりをして、桶に湯を張る。
「待て」
低い声が落ちる。
「淑女がみだりに異性の身体に触れるのは——」
「はいはい」
結衣は聞いていない。
ざばぁ。
容赦なく湯がかけられる。
「……っ! ゆ、結衣! 冷静に聞け! 私は魔王だ! 魔王に対してこの扱いは——」
「ぬか臭いのはちょっと嫌だから」
「そういう問題では——」
泡を立てた手が、わしゃわしゃと頭に乗っかってくる。
「ちょ、ちょっと待て! そこは! そこは特に——」
「ここ、すごいぬか入ってるね」
「だから丁寧に——って、耳! 耳は——」
「はいはい」
ごしごし。
「ゆい! 一体どこを触っている……っ!!」
「ぬかが残ってるとこ」
「そんな気軽に言うな!!」
「……え、なんでそんな顔してるの」
ノクスの耳がぴくぴくと落ち着きなく動いた。
「やめ、ちょ、待——くっ、笑うな!!」
「笑ってないよ」
「笑っている! 絶対笑っている!!」
まるで犬でも洗うかのような手つきだった。
魔王は、なんとも言えない表情で天井を見上げる。
「……屈辱だ」
「大人しくして」
「これは屈辱だぞ結衣、聞いているか」
「はい、すすぎます」
ざばぁ。
「……っ冷たい!」
「文句多い」
タオルで包んで、ごしごし。
最後にふわりと広げてみれば、黒い毛並みがやわらかく空気を含んでいた。
「よし、きれいになった」
「……」
「なんでそんな顔?」
魔王は少しの間、黙っていた。
それから、低く、ぽつりと言った。
「私は魔王だ」
「うん」
「……犬ではない」
「うん」
結衣はタオルにくるまった魔王をそのままテーブルに置いて、桶を片付け始めた。
淑女がどうとか異性がどうとか言っていたけれど、この見た目でなぜそんなに大げさなのか、この時の結衣には到底分からなかった。




