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「あ〜……まだまだ寒いな」
吐いた息が白くにじんで、すぐに夜気に溶けた。
結衣は配達で冷え切った手に、何度も息を吹きかける。指先の感覚は鈍く、ハンドルを握っていた名残の冷たさが、まだ皮膚に貼りついているようだった。
もうすぐ春だというのに、体感温度は一向に冬のまま。
容赦なく吹きつける風が、配達帰りの体温を少しずつ奪っていく。
(……早く、帰ろ)
そう思って歩きながら、結衣はふと、この一ヶ月を振り返っていた。
魔王と毎日、帳簿を挟んで向き合うようになってから、もう一ヶ月。
最初は得体の知れない生き物――それ以上でも以下でもなかった存在が、今ではすっかり、結衣の日常の中に溶け込んでいる。
朝早くバイトに出る結衣に、眠たげに目をしぱしぱさせながら、
「気をつけて行ってくるのだぞ」
と、毎回律儀に声をかけてくるのだから、どうにも調子が狂う。
しかも、その直後には「働かざる者食うべからず」だの「体調管理も職務のうちだ」だの、妙にもっともらしいことまで言ってくるのだから始末が悪い。
魔王はことあるごとに、結衣のスマホやテレビ、大学時代に使っていたノートパソコンまで覗き込み、分からないことがあれば遠慮なく聞いてくる。兄の配達にも、結衣の配達にも、時間さえあればついてきた。
(……まさか、ここまで本気で考えてくれるとは)
米屋のこと。
店のこと。
結衣自身の立場のこと。
その誠実さに、知らず知らずのうちに心が絆されていくのを、結衣は否定できなかった。
最近では、兄と魔王が何やら“秘密の作戦”を実行していたらしく、妙に意気投合している。二人でこそこそ話している姿を見るたびに、ちょっとした疎外感すら覚える始末だった。
「ただいま〜」
シャッターをくぐって声をかけると、
「おかえり」
と、精米袋を縛りながら兄の豊が返してくる。
居間に上がると、魔王は相変わらずテレビに釘付けだった。
画面では、米の価格が下がらないというニュースが流れている。
「……何故だ。収穫量は安定していると言っていたではないか」
ぶつぶつと独り言のように呟きながら、画面に向かって難しい顔をしている。結衣が帰ってきたことにも、まだ気づいていないらしい。
――その瞬間だった。
胸の奥に、ほんの少しの悪戯心が芽生えたのは。
「……っ」
そっと背後に忍び寄り、ふわふわとした体を抱え上げる。
「っうお!?」
「……あったかい……!」
両手に伝わる熱が、凍えていた指先にじわりと染み込んでくる。
思わずそのまま、ぎゅうっと抱きしめてしまった。
毛並みは柔らかく、体温は心地よくて。
冷えた身体が、ゆっくりと解けていくのが分かる。
「ゆ、結衣! 妙齢の女性が無闇に抱きつくのは良くないのではないか!?」
慌てて手足をばたつかせる魔王に、結衣は小さく笑った。
「こんなに可愛らしい見た目なのに、何言ってるの。ちょっとくらい、配達帰りの私を癒してくれてもいいでしょ」
「……む」
外が寒かったことは、魔王も知っているのだろう。
しばらくして、抵抗はぴたりと止まった。それでも納得がいかないらしく、小さく唸っている。
「しかし……これは通常の業務内容とは異なる気が……」
「業務内容って何よ」
結衣は気にせず、もう一度だけ腕に力を込めた。
やがて、魔王は観念したようにため息をつき、結衣の方を見上げる。
「……結衣。少し、話したいことがあるのだが」
「え? 急にどうしたの」
その声色に、いつもと違う真剣さを感じて、結衣は魔王をそっと下ろした。
魔王はテーブルの上に正座し、几帳面な動きで資料の束を引き寄せる。
その中から、一通の紙を取り出して、結衣の前に差し出した。
「……これを、見てほしい」
「……?」
受け取った瞬間、結衣は吹き出した。
「ぷっ……なにこれ!? 履歴書?」
「左様だ」
「……は?」
「私を、面接してほしいのだ」
「……面接??」
混乱する結衣を前に、魔王はいたって真面目な顔で続ける。
「口約束のまま、このような関係になったが、本来は双方が条件を明示し、合意の上で事業を進めるべきだろう」
「???」
「我が国では、契約は魂を賭して結ぶものだ。しかし、この世界ではそれは適さぬ。ならば――この世界のやり方に倣うべきだと考えた」
履歴書に目を落とす。
多少歪ではあるが、丁寧な字で書かれた職務経歴。
趣味、特技、自己PR。
そして、「なぜ御社を志望したのか」。
(……完全に、就活のそれだ)
極めつけに、証明写真まで貼られている。
どう見ても、箱型の証明写真機で撮ったものだった。
(……絶対、お兄ちゃんの仕業だ)
あの二人がこそこそしていた理由が、今になって腑に落ちる。何より、魔王が写っている下の方に、肌色の人の手のようなものが映り込んでいるのだ。一体、あの狭い空間でどうやって二人で撮ったというのか。
「結衣」
魔王が、少しだけ背筋を伸ばした。小さな体が、わずかに拳を握る。
「私は、この店で働きたい。曖昧な立場のまま、恩恵を受け続けるのは――王の振る舞いではない」
その言葉に、結衣は一瞬、何も言えなくなった。
ふざけているようで、
どこまでも真剣で、
そして、誠実だった。
「……分かった」
結衣は、ゆっくりと息を吐く。
「じゃあ……ちゃんと、面接しよっか」




