表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/26

1-10

「あ〜……まだまだ寒いな」

 吐いた息が白くにじんで、すぐに夜気に溶けた。

 結衣は配達で冷え切った手に、何度も息を吹きかける。指先の感覚は鈍く、ハンドルを握っていた名残の冷たさが、まだ皮膚に貼りついているようだった。

 もうすぐ春だというのに、体感温度は一向に冬のまま。

 容赦なく吹きつける風が、配達帰りの体温を少しずつ奪っていく。


(……早く、帰ろ)


 そう思って歩きながら、結衣はふと、この一ヶ月を振り返っていた。

 魔王と毎日、帳簿を挟んで向き合うようになってから、もう一ヶ月。

 最初は得体の知れない生き物――それ以上でも以下でもなかった存在が、今ではすっかり、結衣の日常の中に溶け込んでいる。

 朝早くバイトに出る結衣に、眠たげに目をしぱしぱさせながら、


「気をつけて行ってくるのだぞ」


 と、毎回律儀に声をかけてくるのだから、どうにも調子が狂う。

 しかも、その直後には「働かざる者食うべからず」だの「体調管理も職務のうちだ」だの、妙にもっともらしいことまで言ってくるのだから始末が悪い。


 魔王はことあるごとに、結衣のスマホやテレビ、大学時代に使っていたノートパソコンまで覗き込み、分からないことがあれば遠慮なく聞いてくる。兄の配達にも、結衣の配達にも、時間さえあればついてきた。


(……まさか、ここまで本気で考えてくれるとは)


 米屋のこと。

 店のこと。

 結衣自身の立場のこと。

 その誠実さに、知らず知らずのうちに心が絆されていくのを、結衣は否定できなかった。

 最近では、兄と魔王が何やら“秘密の作戦”を実行していたらしく、妙に意気投合している。二人でこそこそ話している姿を見るたびに、ちょっとした疎外感すら覚える始末だった。


「ただいま〜」


 シャッターをくぐって声をかけると、


「おかえり」


 と、精米袋を縛りながら兄の豊が返してくる。

 居間に上がると、魔王は相変わらずテレビに釘付けだった。

 画面では、米の価格が下がらないというニュースが流れている。


「……何故だ。収穫量は安定していると言っていたではないか」


 ぶつぶつと独り言のように呟きながら、画面に向かって難しい顔をしている。結衣が帰ってきたことにも、まだ気づいていないらしい。


 ――その瞬間だった。

 胸の奥に、ほんの少しの悪戯心が芽生えたのは。


「……っ」


 そっと背後に忍び寄り、ふわふわとした体を抱え上げる。


「っうお!?」


「……あったかい……!」


 両手に伝わる熱が、凍えていた指先にじわりと染み込んでくる。

 思わずそのまま、ぎゅうっと抱きしめてしまった。

 毛並みは柔らかく、体温は心地よくて。

 冷えた身体が、ゆっくりと解けていくのが分かる。


「ゆ、結衣! 妙齢の女性が無闇に抱きつくのは良くないのではないか!?」


 慌てて手足をばたつかせる魔王に、結衣は小さく笑った。


「こんなに可愛らしい見た目なのに、何言ってるの。ちょっとくらい、配達帰りの私を癒してくれてもいいでしょ」


「……む」


 外が寒かったことは、魔王も知っているのだろう。

 しばらくして、抵抗はぴたりと止まった。それでも納得がいかないらしく、小さく唸っている。


「しかし……これは通常の業務内容とは異なる気が……」


「業務内容って何よ」


 結衣は気にせず、もう一度だけ腕に力を込めた。

 やがて、魔王は観念したようにため息をつき、結衣の方を見上げる。


「……結衣。少し、話したいことがあるのだが」


「え? 急にどうしたの」


 その声色に、いつもと違う真剣さを感じて、結衣は魔王をそっと下ろした。

 魔王はテーブルの上に正座し、几帳面な動きで資料の束を引き寄せる。

 その中から、一通の紙を取り出して、結衣の前に差し出した。


「……これを、見てほしい」


「……?」


 受け取った瞬間、結衣は吹き出した。


「ぷっ……なにこれ!? 履歴書?」


「左様だ」


「……は?」


「私を、面接してほしいのだ」


「……面接??」


 混乱する結衣を前に、魔王はいたって真面目な顔で続ける。


「口約束のまま、このような関係になったが、本来は双方が条件を明示し、合意の上で事業を進めるべきだろう」


「???」


「我が国では、契約は魂を賭して結ぶものだ。しかし、この世界ではそれは適さぬ。ならば――この世界のやり方に倣うべきだと考えた」


 履歴書に目を落とす。

 多少歪ではあるが、丁寧な字で書かれた職務経歴。

 趣味、特技、自己PR。

 そして、「なぜ御社を志望したのか」。


(……完全に、就活のそれだ)


 極めつけに、証明写真まで貼られている。

 どう見ても、箱型の証明写真機で撮ったものだった。


(……絶対、お兄ちゃんの仕業だ)


 あの二人がこそこそしていた理由が、今になって腑に落ちる。何より、魔王が写っている下の方に、肌色の人の手のようなものが映り込んでいるのだ。一体、あの狭い空間でどうやって二人で撮ったというのか。


「結衣」


 魔王が、少しだけ背筋を伸ばした。小さな体が、わずかに拳を握る。


「私は、この店で働きたい。曖昧な立場のまま、恩恵を受け続けるのは――王の振る舞いではない」


 その言葉に、結衣は一瞬、何も言えなくなった。

 ふざけているようで、

 どこまでも真剣で、

 そして、誠実だった。


「……分かった」


 結衣は、ゆっくりと息を吐く。


「じゃあ……ちゃんと、面接しよっか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ