光について
この家に通い始めて3か月が経った。
最初は部屋から様子を窺って出てこなかった彼女も、今はリビングで一緒に映画を観るようになった。
伸びっぱなしの黒髪も、今日はかわいらしいリボンでまとめられていた。
似合うね、そのリボン
・・・
返事はないけれど、僕の言うことを気にしてないわけではないらしい。
テンションが上がったのか、ちょっと踊るような歩調で彼女は飲み物を取りに行った。
お母さんに聞いたところによると、おしゃれをし始めたのは最近らしい。
あんまり行き過ぎるのもよくないから、毎週月曜日に顔を出すことにしていた。
お昼ご飯をご馳走になってから、お礼を言って、家を出る。
振り返ると、2階のカーテンの隙間から彼女が僕をこっそり見ていた。
手を振ると、小さく手を振り返してくる。
もう一度大きく手を振り返して、家を後にした。
月曜日は僕の楽しみになっていた。
何を持って行こうか、考えるのも楽しかった。
また3か月が経った。
彼女は明らかに笑顔が増えた。
映画を観ていると、眠くなったふりをして彼女がくっついてくることがあった。
どうして僕なんかに懐くのかよくわからないから、何をするでもなくそっとしておいた。
毎週会いに行って、楽しかった時のことを話したり、映画を観たり、一緒に料理をしたり。
家の雰囲気はとても明るかった。
こういうことがずっと続いたらいいと思った。
また、3か月が経った。
ついに彼女が髪を切ると言ってくれた、本当にありがとうと何度も何度も頭を下げられた。
どうしていいかわからず、いえ僕は何もとしか言えなかった。
髪を切った彼女は、気合の入ったおしゃれをしているくせに、顔が赤くていつも以上に無口だった。
そしてまた、3か月が経とうとしていた。
彼女は、中学校から学校に通うと決心した。
その旅立ちの日に、どうか僕に玄関で手を取ってあげてほしいと彼女の両親から頭を下げて頼まれた。
制服を着た彼女が、玄関のドアの向こうに立っていた。
震える足取りで、倒れそうになりながら、泣き出しそうな目で、まっすぐに僕を見ていた。
彼女のことを知ったのは、偶然後輩から噂話を聞いたからだった。
小学校の劇でお姫様役をして、周りから妬まれ、いじめられて、ずっと伸ばしていた髪の毛を切られてしまって、不登校になった子がいるということだった。
僕は無駄に広い母の交友関係をあたって、その子に会いに行った。
僕は有名人だったから、事情を話すと会わせてもらえた。
初めて家に遊びに行ったとき、僕は部屋の暗さと彼女の髪の長さに驚いた。
劇の時に浴びたスポットライトと嫌な思い出が重なって、彼女は明るいところに出ることに恐怖を抱いていた。そして、失ったものを取り戻すように、ずっと髪を伸ばし続けていた。
彼女の目はまっすぐに僕だけを見ていた。
涙を流しながら、体中震えながら、僕の方に一歩一歩進んで来る。
僕は手を伸ばした。
僕の右手には、人差し指がない。中指も半分ない。
昔、ピアノを弾くのが好きだった。
ずっと夢中になって弾いて、それしか考えていなかった。
無限にある楽譜と、心が躍る演奏の感覚が、僕の生活のすべてだった。
母はいつも有頂天に、僕の才能を自慢して回った。
僕はそれが誇らしかった。
コンクールに出れば、僕は余裕で最優秀賞を取った。
みんなから称賛されて、これが僕の生まれてきた意味だとさえ思った。
そうやって夢中になって演奏することが、誰かの恨みを買うことになるなんて思いもしなかった。
名目上は、事故だった。
僕は指を失った。
ちぎれてしまった僕の指の前で、歪んだ笑みを浮かべていた彼らの顔を忘れられない。
母はあっという間に僕に対する興味を失った。
父は苦しんでいる僕に社会は甘くないと冷笑した。
ぐれるなという方が無理だった。
そして僕はほとんど中学には通わずに過ごした。
ボロボロになった右手を見るたびに、悔しくて、世の中を呪った。
見返してみると、世界は暗闇にあふれていた。
真面目に生きていくことなんて、もうできないと思った。
彼女に会いに行ったのは、本当はその感覚を分かち合う相手が欲しかったからだ。
一緒に世の中を呪ってやりたかったからだ。
彼女も世の中を憎んでいるに違いないと思った。
人を恨んでいると思っていた。
でも、それは違っていた。
何度も会っているうちに、僕にはわかった。
暗闇の中にいても、深い悲しみを抱えていても、彼女は人のことを信じていた。
彼女の手が、僕の手を掴む。
勢い余って、体がぶつかる。
彼女は僕に抱き着いて、声を上げて泣いた。
彼女の頭を撫でて、泣き止むのをじっと待つ。
・・ずっと・・ずっとずっと・・憧れてた・・私よりずっとずっと大変な目に遭ったのに、
いつも笑顔で、優しくて、明るくて、ずっと素敵だった・・
そんなことないよ、君が気付いていないだけで、僕は本当は最低なやつなんだ
そんなことない!ずっと・・私は・・私は一緒に歩きたかった・・
一緒に、明るいところを、並んで歩きたかった・・
歩けるよ。大丈夫だよ。大したことじゃないんだ、君にできないわけないよ
わたし・・わたしは・・
君は大変な目に遭っても、人を恨んでなんていなかった。
ただ純粋に悲しんで、苦しんで、泣いていた。
僕みたいに歪んで、知りもしないものに怒りをぶつけたりせず、その苦しみと向き合っていた。
この世界にあるのは暗闇だけじゃないと、君を見てると信じられた。
君は僕にとっての光だった。
ねぇ、もう一度ピアノを弾いてみようと思うんだ。
昔みたいにはできなくても、いまなら義指っていうのもあるから。
もう一度向き合ってみようと思うんだ。
・・いちばんまえがいい・・いちばんまえできく・・
うん、頼むよ。本当はすごく怖いからさ
・・うん・・うん・・ありがとう・・ありがとう・・・・ほんとうに、ほんとうに、ありがとう・・
うん
朝日が差し込んで、
彼女を光が包んだ。
涙を拭いながら、彼女は光の中に立った。
ずっと記憶に残ると思った。
彼女のその姿を、僕はずっと忘れないでいようと思った。