枷
靑井は、息を殺してリビングのソファに座っていた。父が帰ってくる時間はもう過ぎている。
玄関の扉が開く音が、鼓膜に響く。次の瞬間、父の視線が部屋を一瞬で包む。何か気に障るものはないか、何かが乱れていないか。靑井は条件反射のように背筋を伸ばし、手元のスマホを伏せる。余計な動作は禁物だった。
「靑井、ちゃんと勉強してるのか?」
言葉の刃は、いつもと変わらぬ調子で投げかけられる。靑井は、頷くことしかできなかった。嘘ではない。宿題はすでに終えているし、テスト勉強もしている。
でも、そんなことは関係ない。父にとって「勉強しているか」の問いは、「お前に問題はないか」の確認なのだ。言葉を交わすたびに、針の上を歩くような感覚が靑井の中に広がる。
父はスーツを脱ぎながら、テーブルの上の新聞を手に取る。その指の動きすら、靑井の心を揺さぶる。紙をめくる音が、やけに大きく響く。父の機嫌がどこに向かっているのか、靑井には分からない。
靑井は、視線を落としたまま、ゆっくりと息を吐いた。父の機嫌を損ねないように、決して大きな音を立ててはいけない。机の端に置かれたコップの位置をそっと直し、椅子の脚を床から浮かせるように慎重に動かす。すべての行動が、「怒り」を誘発しないための計算だった。
「そうだ。明日の弁当、ちゃんと作れるんだろうな?」
父の声が再び飛んできた。靑井は頷く。
父は「しっかりした娘になれ」と言い続ける。
自立し、何もかも完璧にこなせるようになれ。
それが、靑井に課せられた義務だった。けれど、どれほど努力しても父の眉間の皺は消えない。足りない。いつだって、何かが足りない。欠如している。
「もういい、寝ろ」
父の言葉に、靑井は小さく頷いて立ち上がる。寝室に向かう廊下は、まるで見えない茨が這っているようだ。父に何かを言い返すことも、反論することも許されない。
寝室のドアを静かに閉めると、靑井はベッドに腰を下ろした。時計の針が午後十一時を指している。部屋の中は静寂に包まれていたが、廊下の向こうにはまだ父の気配が残っている。新聞をめくる音、グラスを置く音——それらすべてが、靑井の神経を研ぎ澄ませる。
枕に顔を埋め、ゆっくりと目を閉じた。眠ろうとしても、心の奥に刻まれた緊張が消えることはない。父の言葉が頭の中で響く。
「もっとしっかりしろ」
「努力が足りない」
「お前のために言っているんだ」
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翌朝、目覚めたときには、すでに父の姿はなかった。食卓には昨日と同じメニューが並べられている。まるで時計が巻き戻されているかのように、同じ日が繰り返されていく。
家を出る前、靑井はふと鏡を見た。そこに映るのは、ただ父の期待に沿うために形作られた「靑井」という存在。その目には、すでに何の感情も宿っていなかった。
その日、ただ学校へ向かった靑井は、じっと椅子に座ったまま動かなかった。授業の声は聞こえるが、頭には何も入ってこない。ただ、時間が流れるのをじっと待っているだけだった。
昼休みになり、クラスメイトが楽しそうに話す声が教室に響く。話題は、週末の遊びの計画や新作の映画のこと。靑井は、それらの会話には入らず、ただ手元のノートに視線を落とした。自分には関係のない世界——そう思うと、より一層、自分の存在が薄れていく気がする。
「ねえ、靑井。今日、放課後空いてる?」
隣の席の友人が話しかけてきた。靑井は一瞬驚いたが、すぐに首を横に振る。
「ごめん、お父さんが帰ってくる前に家にいなきゃいけないの」
友人は少し寂しそうに微笑んで、「そっか、また今度ね」と言って去っていった。その後ろ姿を見ながら、靑井は胸の奥にある何かをそっと押し込めた。
期待を抱くのは無駄だ。家に帰れば、■■が待っている。
そして、また夜——。
玄関のドアが開き、父の重い足音が響く。その音を聞いた瞬間、靑井の背筋は自然と伸びた。呼吸を浅くし、できるだけ気配を消すようにする。だが、父の視線はすぐに靑井を捉えた。
「学校はどうだった?」
その質問には、決して正解がない。靑井は言葉を選びながら、「普通」と答えた。父の眉が少しだけ動いた。
「何かあったんじゃないのか?」
さらに問い詰められる。靑井はかすかに唇を噛みしめた。結局、何を言っても父には届かない。だから、靑井はただ首を横に振った。
「何もないよ」と。
その返答に、父は一瞬黙った。そして、深くため息をつく。
「しっかりしろよ、お前はまだまだだ」




