095 第八部・沼地の集落
◆沼地の集落
かつて〈沼地の集落〉には、〝ヌタ〟の名で知られる部族が暮らしていた。彼らは湿地に根ざした生活を営み、深い霧の中で獲物を追い、薬草を見つけ出す術に長けていた。過酷な環境で獲物を仕留める女狩人たちは、〈大樹の森〉で暮らす他部族の間でも語り草になるほどの腕前を誇っていた。
しかし〈混沌の領域〉が静かに、そして確実に森を蝕み始めると、ヌタ族の生活圏は徐々に奪われていった。空気は重く濁り、大地は命を拒むように腐敗し、かつて豊かだった沼地は毒を孕んだ水脈へと変貌していった。わずかに芽吹いた作物もすぐに萎れ、果実は黒く変色し、触れるだけで皮膚がかぶれるような毒を含むようになった。
狩りの獲物も徐々に姿を消していった。森に棲む獣たちは〈混沌〉の気配を察して逃げ去るか、あるいは異形のものへと変貌し、もはや食料とは呼べない存在となっていた。ヌタ族は、かつての知恵と技術を駆使して生き延びようとしたが、森そのものが彼らを拒むようになっていた。
もともと、ヌタの一族は〈廃虚の街〉で果てしなく続く争いと、略奪者たちによる容赦のない襲撃から逃れるため、命を賭して〈大樹の森〉に移住を決意した共同体だった。他部族からの支援も得られず、彼らは慣れない森の奥で孤立した生活を始めることになった。
〈大樹の森〉は、ヌタ族に確かな安らぎを与えると同時に、容赦ない試練も課した。霧の奥からあらわれる昆虫の変異体――犬ほどの体長を持つ黒光りする甲虫や、触手を伸ばして人を捕らえる食虫植物、体内に毒を宿した異形の虫たち――は、夜ごとに集落に侵入し人々を脅かした。
それでもヌタ族は、旧文明期の技術、世代を超えて受け継がれた知恵、そして何よりも粘り強さを武器に、少しずつ〈大樹の森〉に馴染んでいった。彼らは薬となる植物の扱い方を学び、変異体の習性を記録し、胞子を含む霧の流れを読むことで安全な狩りを行う術を身につけた。
やがて、森を渡り歩く行商人たちとの交流が始まると、鳥籠〈スィダチ〉で暮らす人々との間にも友好関係が築かれていった。交易品は乏しくとも、ヌタ族の編み物や薬草の知識は重宝され、彼らの名は少しずつ森の部族の間でも知られるようになり、受け入れられていった。
こうしてヌタ族は、まるで黄昏時の空のような、儚くも温かな繁栄を享受することができた。けれど、その繁栄は長くは続かなかった。
◆テア
テアは、ヌタの一族に生まれた最後の世代のひとりであり、戦士長として部族を率いた族長でもあった。彼女が若くしてその役目を担うことになったのは、血筋や年齢によるものではなく――森が彼女を選んだからだった。
もともとテアは、感情の希薄な子どもだった。笑うことも泣くことも少なく、言葉よりも沈黙を好んだ。部族の中には彼女を気味悪がる者もいたが、霧の流れを読む力と、獲物の気配を察知する狩人としての鋭敏な感覚だけは、誰よりも優れていた。そして森で生きる者にとって、それは何よりも尊ばれる資質だった。
やがて彼女は〈スィダチ〉との協定により、〈蟲使い〉の儀式を受けることになった。〈蟲使い〉とは、森に棲む異形の昆虫たちと精神を交わし、旧文明の装置を用いて昆虫を制御する者たちの俗称であり、古くから〈大樹の森〉の部族にのみ伝わる儀式によって得られる力でもあった。
その儀式の詳細は、今もなお部族の間で秘匿され、外部の者には語られることがない。ただし〈蟲使い〉になるためには、森で生き抜くための知識を身につけるだけでなく、戦闘訓練によって身体を鍛え、霧の中での感覚を研ぎ澄ませる必要があることは知られていた。それは過酷な訓練であり、特別な訓練を受けてきた大人でさえ困難とされていた。
最も過酷な試練とされたのは、昆虫が蠢く暗闇の中で意識を沈める儀式だった。そこは森の意志が濃縮された場所とも言われ、無数の羽音と囁きが精神を侵す領域でもあった。一説には〈電脳空間〉内に存在する〈仮想空間〉で行われる訓練とも噂されているが、限られた人間だけが真実を知る。
多くの志願者がその場で心を壊され、あるいは巣の奥へと引き込まれ、二度と戻ることはなかった。テアは最年少でこの試練に臨み、すべての課題を乗り越えた。
彼女の精神は、虫たちの囁きに染まることなく、逆に彼らを静かに従わせた。それ以来、テアは〈蟲使い〉としてだけでなく、ヌタの族長として民を導く存在となり、部族の守護者としての役割を果たすことになった。
◆侵食
〈混沌の領域〉の浸食は、テアがまだ幼かったころには、もはや手の施しようがないほどに進行していて、ヌタ族の生活圏を容赦なく蝕んでいた。水源は濁り、空気は重く、大地は命を拒むように変質していた。植物は芽吹いてもすぐに枯れ、沼地に棲んでいた動物たちも、瘴気を嫌って次々と姿を消していった。
やがて作物は完全に死に絶え、果実は実らず、森の樹木の多くが内側から腐り始めた。集落では原因不明の病が流行し、とくに幼い子どもたちが次々と命を落としていった。死者の数が増えるにつれ、集落の空気には重い死臭が漂い始め、それに呼応するかのように、異形の生物が〈混沌の領域〉から姿をあらわすようになった。
それは深い霧の中から這い寄り、部族の墓を荒らし、埋葬された遺体を引きずり出しては食らった。骨を砕く音と、腐肉を引き裂く咀嚼音が、集落の外縁から聞こえてくるようになった。誰もその正体を知らず、ただ森に巣食う屍食鬼として恐れた。
そうして部族の間では、その異形を〈死を貪るもの〉と呼ぶようになった。名を与えることは、形なき災厄に対して呪術師たちが抵抗する唯一の手段でもあった。〝真の名〟を持つ命あるものならば、それは殺すことができる――そう信じられていた。
しかし真の名を与えられたことで、その存在はより確かなものとなり、森の闇に棲みつく災厄として知られるようになった。
それは、死を食らう者であり、腐敗を呼び寄せる者であり、部族の記憶に刻まれた災厄そのものだった。その姿を正確に語ることはできない。ただ夜の霧が濃くなるとき、遠くから聞こえる骨を砕く音が、屍食鬼の名を思い出させた。
異形の存在――〈死を貪るもの〉に対抗しようと立ち上がったのは、他でもないテアだった。彼女は残された戦士たちを鍛え、集落の周囲に罠を張り、部族の墓を巡回し襲撃の兆しを探った。しかし実体を持たない災厄は姿を見せず、呪術師たちの祈りも意味を成さなかった。
〈死を貪るもの〉は、名を与えられたことで森の闇に根を張り、夜ごとに死者の臭いを嗅ぎつけてはあらわれた。森の奥から冷たい風が吹き始める季節になると、戦士たちの多くは流行病に倒れ、命を落としていった。体力のない者たちも瘴気に蝕まれるように徐々に衰弱し、集落は静寂に包まれていった。
テアは抗い続けたが、森はすでに彼女たちを守る意志を失っていた。〈混沌の領域〉の浸食は止まらず、ヌタの一族は最期の時を迎えようとしていた。
〈スィダチ〉から聖域で行われる族長会議への参加を求められたのは、もはや打つ手が尽きた時だった。それは、最悪の状況の中で差し伸べられた救いの手だったのかもしれない。テアは集落に残された者たちの想いを背負い、聖地へと向かうことを決意した。




