046 第五部・変異体〈老人〉
■変異体
◆調査報告書
対象:〈廃墟の街〉に生息する異形の変異体
〝脳喰らい〟あるいは〝老人〟
本報告書に記載される情報は、〈廃墟の街〉にて回収された〈データパッド〉に残された未完の調査記録より抜粋したものである。記録は断片的であり、一部のデータは破損、または欠落しているが、対象に関する重要な知見を含んでいる可能性が高い。
これらの記録がどのような経緯で残されたのか、調査者の身元、そして彼らが最後に目撃したものについては不明のままである。しかし、記録の内容から判断するに、調査は完遂される前に何らかの異常事態により中断されたと考えられる。
以下、その記録より判明した情報を列挙する。
◆概要
対象は文明崩壊後の荒廃した都市に出没する異形の変異体であり、その存在は目撃者に強烈な恐怖と異質な違和感を植え付ける。現在の調査による限り、単独で行動する傾向が強く、社会性や群れを形成する兆候は確認されていない。行動の目的は不明瞭だが、一貫して人間の〝脳〟を捕食する習性を持つ。
この捕食行動が生存のための栄養摂取なのか、あるいは別の目的を――例えば〝人間性〟の獲得を目的とした手段なのかは判然としていない。
外見的特徴として、対象の皮膚は深紫色の異常な光沢を帯び、極度に薄く、干からびているかのような異様な質感を持つ。筋肉組織は余分な脂肪が一切なく、それでいて優れた機能性に有しており、通常の生物の進化過程とは明らかに異なる構造を示している。
また、対象は〈超感覚的知覚〉の一種と考えられる異常な能力を持ち、視認した次の瞬間には攻撃範囲内に迫っているケースが多く、気がつけば部隊が全滅しているということも珍しくない。この能力の発動時には紫煙が発生すると言われているが、軌跡を追うことは困難であり、実質的には〈瞬間移動〉と同等の挙動を示す。
この性質から、遭遇時の回避や戦闘は極めて難しく、生存率を大きく低下させる要因となっている。その異形の姿と不可解な行動原理は、まさに〈廃墟の街〉に潜む〝悪夢〟と呼ぶにふさわしい存在だろう。
◆身体的特徴
・体躯
対象の身長は軽く三メートルを優に超え、異様に長い四肢を持つ。その腕は通常の人間の比率を逸脱しており、不気味なまでにしなやかに動く。動作の軌跡は予測が難しく、静止状態から滑らかに体勢を変える様子は、まるで生命体の能力を超越した存在のようにさえ思える。
骨ばった指先は異常に細長く、鋭利な爪を備えている。その爪は硬質なケラチンとは異なる未知の素材で構成されており、実際に捕えられた標的の骨を瞬時に砕くほどの力を発揮することが確認されている。握力は並の生物とは比較にならないほど強靭で、一度捕えた獲物が逃れることはほぼ不可能と思われる。
・皮膚と体組織
皮膚は深紫色の異様な光沢を持ち、乾燥した老人のような肌――あるいはミイラのような質感を帯びている。薄く、ゴムを思わせる異様な弾力があることから、単なる体表ではなく、外部からの衝撃を吸収する機能を持つ可能性がある。
皮膚組織の詳細な解析は未完了であるが、肉眼で確認した限り、傷口の再生速度が異常に早い兆候が見られた。調査時に確認された小規模な損傷、熱傷や裂傷は、数分以内に修復されており、通常の生物の回復能力を大きく超越している。
筋組織は極端な機能性に特化しており、無駄な脂肪が一切見られない。可動域と収縮速度が通常の生物とは一線を画し、瞬間的な動作に適した構造を持つ。単純な〝力の強さ〟ではなく、〝正確な動作制御〟が特徴といえる。
・頭部の構造
皮膚が極限まで薄いため、頭蓋はむき出しのように浮き上がっており、内部構造が透けるほどの異様な印象を与える。顔面部の筋肉はほぼ存在せず、表情を形成する要素が欠落しているため、通常の生物が持つ〝感情表現〟は一切確認されていない。
時折、眼窩の奥で微光が揺らめくのが確認されているが、この発光現象が視覚機能の一環なのか、それとも単なる副次的な生理現象なのかは未解明である。発光パターンには一定の法則がある可能性があり、今後の調査で解析が必要と考えられる。
◆行動特性
・移動能力
対象は、一種の徘徊行動を示すものの、その移動様式は常識的な範囲を逸脱している。観察時、対象は一瞬のうちに消失し、次の瞬間には数十メートル離れた地点に再出現していた。この移動は通常の走行や跳躍によるものではなく、明らかに〝空間をねじ曲げる〟かのような性質を伴っている。
〈瞬間移動〉の際には、前述の通り、微かな紫煙が発生することが確認されているが、その痕跡は極めて短時間で消失するため、視認による追跡は困難である。追尾の試みは複数回行われたが、煙の拡散速度と対象の再出現位置の不規則性により、従来の戦術では対応が難しい。
また、移動時の挙動として、瞬間移動の前後に対象の姿がわずかに歪むような現象が確認されている。この視覚的異常が能力発動の兆候である可能性があり、交戦時の回避策として注視する価値がある。
・捕食行動
対象の捕食行動は、単なる生存のための食事とは考えにくい。確認されたケースでは、一貫して人間の〝脳〟を標的にしており、捕食の目的は不明のままである。栄養摂取のためではなく、対象の脳内に蓄積された情報や記憶を何らかの形で解析、吸収している可能性があるが、未だ本当の目的は判明していない。
興味深い点として、捕食後に対象が一定時間〝うめき〟声を発する現象が確認された。この音は低く唸るような響きを持ち、まるで〝後悔している〟かのようなニュアンスを伴っている。この行動が単なる生理的反応なのか、捕食による情報処理過程の副次的な結果なのかは、さらなる調査が必要である。
また、捕食後の挙動変化がいくつかのケースで観測されており、摂食直後に動作が一時的に鈍る場面が確認されている。これは消化にかかる負担ではなく、何らかの認識、解析を行っている兆候ではないかと推測される。
・休息と集団行動
対象は立ったまま眠ることが確認されており、完全な休息状態に移行することはないと考えられる。これは警戒を続けながら休息を取る習性なのか、あるいは〝眠る〟という行為が人間の定義とは異なるものなのかは不明である。
また、複数個体が一箇所に集まり、沈黙したまま佇んでいる場面が観察されている。この現象が社会的な交流や集団行動の兆候なのか、それとも単なる習性なのかは未解明だ。集団内での相互作用は確認されていないが、この挙動が何らかの目的を持つ可能性があるため、さらなる監視が必要となるだろう。
◆知性の片鱗
対象の行動に明確な規則性は確認されていないが、本能に基づく行動ではなく、ある程度の狡猾な戦略性を持つ可能性がある。獲物を追う際、視認距離を一定に保ちつつ接近する傾向があり、これは学習能力を伴う知性の兆候とも考えられる。
また獲物を狙う際、直接的な接近ではなく、移動経路を先読みするかのような迎撃型の行動を見せるケースがある。これは単なる反射的な動作ではなく、環境認識と戦略的な行動制御の片鱗を示している可能性が高い。
◆推察と警告
対象に遭遇した場合、即時撤退を推奨する。本個体の瞬間移動能力は既存の戦術では対応が難しく、これまでの標準的な攻撃手段では有効打を与えられる可能性が低い。近接戦闘を試みた過去の報告では、対象の異常な移動速度と圧倒的な膂力、そして異能力により、攻撃側が一方的に不利な状況に陥ったケースが複数確認されている。
とくに〝脳〟を捕食する行動の目的が未解明であり、この行為が本能的な衝動によるものなのか、それとも高度な目的を持った行動なのかは、未だ明らかになっていない。そのため、対象に捕食されることは何としても避けなければならない。いずれにせよ、交戦は極めて危険であり、事前の警戒なしに接触することは推奨できない。
◆結論
〈老人〉は極めて危険な変異体であり、その目的と存在理由はいまだに謎に包まれている。現時点では、対象が集団を形成する兆候は確認されていないが、個体数は不明であるため、今後の調査で追加報告が求められる。捕食行動の理由が未解明である以上、対象との接触を避けることが最も賢明な選択となる。
次回調査では、対象の移動経路、捕食後の行動変化、および集団行動の有無についてさらなる詳細な観察を実施し、より多くのデータを収集する必要がある。




