108 第八部・スイジン〈報告書〉
■鳥籠
◆調査報告書・〈スイジン〉
報告者:ラグバ・ガンパ〈ポエムクソ野郎〉
所属:傭兵組合〈ジャンクタウン〉
階級:傭兵〈マーセナリー〉
◆鳥籠周辺
恐るべき変異体や略奪者たちが生存競争を繰り広げる〈廃虚の街〉の一角――川沿いに聳える高層建築群を見上げるように、低層の建物が密集する地区に、旧文明期以前の大規模な浄水施設を備えた集落が形成されていた。
『朽ちかけたコンクリートの壁は、時の重みを静かに語り、錆びついた鉄骨は、かつての誇りを空に向かって突き出す。
風にたなびく青いビニールシートは空の涙を受け止め、トタン屋根は雨音を子守唄に変えていた。
そのすべてが、忘れられた風景のようでいて、ふとした瞬間、そこに確かに息づく暮らしの気配があった。
それは静かなる詩となって、廃れた美の中に宿っていた。
崩れゆくものの中にこそ、人は生き、灯をともす』
集落へと続く幹線道路は、廃車と瓦礫に埋もれていた。かつて物流の大動脈だったその道には、今では武装した警備員と各地から集まった商人の姿が見られ、買い物客が行き交う光景も珍しくなかった。
人々は廃墟で回収された部品や電子機器、〈販売所〉で手に入る生活用品を求め、この地で物々交換や電子貨幣による取引を行っていた。荒廃の中にも、確かに経済が息づいていたのだ。
◆旧文明の構造物
集落のそばを流れる川――そこには、正多面体の巨大な構造物が浮かんでいた。未知の金属パネルに覆われたその奇妙な浮遊構造物は、時折、重低音を響かせながら、川の水を勢いよく吸い込んでいた。
旧文明の除染施設で知られた構造物に取り込まれた汚染水は、構造物内部で除染、不純物の除去、殺菌処理を施されたのち、上空へと放出されているのだという。
『空を覆うは、幾重にも重なる鉛色の雲。
構造物の上に、静かに、しかし確かに、雨は降り続ける。
絶え間なく、音もなく、世界を濡らすその滴は、まるで忘れられた都市の記憶をなぞるように、地を打つ。
この地区では、太陽の光はほとんど見られない。
灰色の帳が空を支配し、湿度は肌にまとわりつき、風さえ沈黙する。
地面は常に濡れ、足音は水音に溶けていく。
それでも、そこには確かに時が流れていた。
濡れた世界の中心で、人々の生の鼓動が微かに響いていた』
◆水神祠
大昔、この場所には水神を祀る祠があったという。古い神の名は忘れられてしまったが、祠の存在は人々の記憶に残り続けていた。やがて旧文明の浄水施設が稼働を始めると、人々はその構造物を〝水の恩恵をもたらす守護神〟として再び信仰するようになった。
祠は再建され、集落の地下――旧浄水施設の入り口に祭壇が設けられ、集落を管理する古い一族によって祀られることとなった。
こうして、大規模集落は〈スイジン〉――水神の名を冠する場所として知られるようになった。〈スイジン〉は、廃墟の中にあってなお、技術と信仰が共存する鳥籠だった。人々は雨の下で暮らし、川の流れに耳を傾けながら、忘れられた神と共に生きていた。
◆〈スイジン〉
灰色の雲が空を覆い、絶え間なく降り続ける雨の中でも、〈スイジン〉の入場ゲートには人の列が途切れることはなかった。雨具を身にまとった人々は、濡れた舗装の上に静かに並び、検問の順番を待っていた。この地では、雨に混じる汚染物質の影響を最小限にするため、フード付きの雨具とフィルター付きマスクが標準装備となっていた。
〈スイジン〉へと続く幹線道路では、商人たちが操る輸送用の多脚車両が多く見られた。鋼鉄製の脚部がゆっくりと地面を踏みしめ、車体後部には巨大な液体タンクが搭載されていた。車体外装に施された耐腐食性のコーティングによって、雨粒は滑るように流れ落ちていた。
それらの多脚車両は、集落の地下にある浄水施設から供給される清潔な水を買い付けるためにやってきた商人たちの足であり、彼らの命綱でもあった。
『〈スイジン〉の水――それは、ただの水ではなかった。
かつて栄え、今は朽ちた文明が遺した奇跡のしずく。
汚れなき純度、重金属すら影を潜める透明な命の源。
その一滴は、廃墟では決して触れることのない、神秘の恩寵。
灰に覆われた世界の果て、その水を求めて、商人たちは命を賭けていた。
風に晒され、足元を濡らしながら、彼らは静かにこの地へと足を踏み入れる。
それは富のためか、名誉のためか。
いや、乾いた魂が、潤いを求めて彷徨う旅路。
〈スイジン〉の水は、過去の叡智が紡いだ祈り。
そして今も、静かに、誰かの渇きを癒している』
◆警備隊
多数の警備員によって守られた集落の周囲には、都市の残骸が広がっていた。すぐ近くには水没した区画があり、建物の上層だけが水面から顔を出していた。陥没した道路は地盤の崩壊によって深い裂け目を生み、その底に濁った水が溜まっていた。最近では、そこから出現する水棲生物の変異体に関する目撃情報が相次いでいた。
それらの生物は、旧文明の排水施設に棲みついていた生物が、放棄された何らかのバイオテクノロジーと融合した結果だと噂されていた。触手を持つ魚類、甲殻を纏った両生類、そして人間の声を模倣する軟体動物――それらは都市の闇に潜み、時折、地上に姿をあらわす。
そのため、〈スイジン〉の周囲には多くの武装警備員が配置されていた。彼らは〈傭兵組合〉とは無関係の、〈スイジン〉独自の組織によって構成されていて、集落の自治を担う防衛部隊でもあった。
警備員たちは、ゲートの上に設置された監視ドローンと連携しながら、周囲の異常を常に監視していた。彼らの任務は、外敵の排除だけではない。水という資源を守ること――それこそが、〈スイジン〉の秩序を維持するための最重要任務だった。
◆施設
『〈スイジン〉の通りは、まるで時の記憶に寄り添うように、古びた建物が肩を並べて佇んでいた。
雨水は屋根を伝い、壁を滑り、静かに歩道を濡らした。
その流れは、まるで街の鼓動のように絶え間なく続いていた。
コンクリートの裂け目からは、緑の苔がそっと顔を覗かせ、排水溝は、水の詩を奏でながら、静寂を揺らす。
人々は雨具を纏い、建物と建物の狭間に張られた防水の帳の下を、まるで織り手のように、雨を縫いながら歩いていく。
この通りには、濡れた静けさの中に生きる者たちの気配が息づいていた。
雨に濡れながらも、誰もがこの場所を知っている。
それは、忘れられた都市の片隅に灯る、小さな希望の通り』
群衆の中には、ホログラムを投影する傘をさして歩く者や、防護服で全身を隠す者、派手な刺青を発光させながら歩く若者など、多種多様な人々の姿を目にすることができた。
店先に設置されたホログラム投影機からは、色鮮やかな映像が浮かび上がり、雨粒を透かしてアニメーションが踊る。足元は泥と水で濡れ、通りはひどく雑然としていた。
買い物客でごった返す通りでは、人々の頭上を広告ドローンが飛び交っていた。小型のドローンは、低空で滑るように移動しながら、商品の映像と価格情報をホログラムで投影する。映像は空中に浮かび、雨粒に反射して揺らめきながら、通りの空気を彩っていた。
建物の壁面には、派手なネオンサインが点滅していた。色とりどりの光が雨に濡れた路面に映り込み、灰色の空の下に仄かな華やかさをもたらす。
ホログラム広告は通行人の視線を感知して内容を切り替え、容姿や年齢に基づいた商品を表示する。ある者には小銃やナイフを、ある者には充電ユニット、ある者には合成食品――それぞれの生活が、光の中に映し出されていた。
だが、その華やかさの裏には、常に湿気と腐臭が漂っていた。雨は止むことなく降り続ける。〈スイジン〉の通りは、技術と混沌が交差する場所だった。人々はその雨の下で生き、商人は水を求め、警備員は銃を構え、〈スイジン〉は静かに呼吸を続けていた。




