103 第八部・侵食帯〈性産業〉
■地域:侵食帯
集落:灰の裂け目
◆緋華〈ひばな〉
赤い花の咲く場所。
〈灰の裂け目〉の路地や、傭兵たちが集まる貨物用コンテナが並ぶ宿泊施設の一角に、赤い布が張られた簡素な建物がある。風に揺れるその布は、血の色にも似た緋色で、死地の緊張から解放される者たちを静かに誘う。
特徴的な建物の中では、娼婦や男娼が客を迎えていた。探索者は〈大樹の森〉での死と隣り合わせの任務から戻り、傭兵たちは契約に追われ心をすり減らしていた。彼らにとって、ここは一時の安息であり、欲望と人間性を取り戻す場所だった。
この性産業を束ねるのが、〈緋華〉と呼ばれる組織だ。名の由来は緋色の花――美しくも、危うい存在を象徴し、血と欲望、そして生存の儚さを表している。〈緋華〉は、娼婦たちの安全と報酬を保証するだけでなく、〈傭兵組合〉や探索者との交渉を行う仲介者でもあった。
娼婦たちは、電子貨幣で報酬を受け取る。クレジットは旧文明のシステムによって構築されたデジタル通貨であり、傭兵組合の契約報酬や探索者の取引にも使用されている。〈緋華〉は、各施設に設置された端末を一括管理する独自のシステムを用いて、報酬の分配だけでなく医療費の補助などを行っていた。
医療支援も〈緋華〉の重要な方針になっていた。娼婦たちは感染症や外傷のリスクに晒されているため、〈緋華〉は〈医療組合〉と提携し、抗生物質、避妊具、消毒液や簡易医療キットなどを定期的に支給していた。また、主要な施設には旧文明の診療ユニットが設置されていて、簡易的な診察が可能となっていた。
◆緋衛〈護衛〉
娼婦たちの安全を守るため、〈緋華〉の施設には護衛の傭兵が常駐している。専属契約を交わした傭兵たちは〈緋衛〉と呼ばれ、施設の警備、客の身元確認、トラブル時の排除を担当していた。
緋衛は、過酷な探索から生還する客に対しても冷静に対応できるよう訓練されていて、任務は客の暴力性を制御し、必要に応じて排除することである。
この傭兵の雇用は、探索や戦闘任務とは異なる安定した収入源として機能していた。〈侵食帯〉で命を賭けることなく生活できる手段として、多くの元探索者や元傭兵が〈緋衛〉として再就職していて、彼らは戦場や探索で培った技術と経験を、秩序の維持という新たな任務に転用していた。
◆物資
さらに娼婦たちが使用する衣服、薬品、避妊具、簡易医療キットなどの物資は、〈医療組合〉や〈商人組合〉から定期的に仕入れられ、物資の流通を生み出していた。
衣服は耐久性と洗浄性を重視した合成繊維製であり、薬品には抗生物質、鎮痛剤、化粧水や乳液などが含まれている。避妊具は旧文明の技術を応用したもので、簡易医療キットとともに衛生管理の要となっていた。
施設の建築や改修には、各組合の資材業者が関与していて、〈侵食帯〉の経済圏に新たな雇用を生み出していた。断熱材の補修、電力供給ラインの再構築、浄水装置の設置――それらすべてが、〈緋華〉の活動を支えるインフラとして機能していた。
娼婦たちの中には、情報収集を生業とする者もいた。酔った傭兵や探索者の口から漏れる言葉には、時に貴重な情報や敵勢力の動向が含まれていた。
〈緋華〉はそれらを整理、分析し、観測所に売却することで、さらなる利益を得ていた。情報は貨幣以上の価値を持ち、欲望の場は同時に諜報の場でもあった。
こうして、〈緋華〉は単なる性産業の組織ではなく、〈侵食帯〉における経済と情報のハブとして機能していた。彼女たちの存在は、戦場の裏側にあるもうひとつの秩序――欲望と生存が交差する場所であり、鉄と血の世界に咲く緋色の花だった。
◆セキュリティ
〈緋華〉の施設は、単なる娯楽空間ではなかった。欲望と諜報が交差する場所であり、同時に、冷徹な防衛機構が張り巡らされた要塞でもあった。
建物の外壁には、装飾のように見える金属の縁取りが施されている。緋色の布が風に揺れ、その陰に隠れるように配置されたそれは、保安システムよって制御される攻撃タレットの収納口だった。通常は沈黙を保ち、改修された廃墟の一部として溶け込み、侵入者の武装状態、心拍数、呼吸パターンを監視し、異常を検知すると無音で展開する。
攻撃タレットは、殺傷力を抑えたゴム弾や低出力レーザーを発射するよう設計され、命を奪うことなく行動を封じることができる。発射までのプロセスは三段階――まず音声による警告、つぎにレーザー照射による標的のマーキング、そして最後に攻撃の実行。すべてが儀式のように厳格に運用され、誤作動を防ぐために数秒の猶予が与えられている。
各部屋へと続く通路に設置されているのは、格子状に編まれた〈レーザー・グリッド〉だ。赤い光が静かに揺らめき、まるで花の茎が絡み合うような優雅さを漂わせているが、その美しさは致命的だった。
このレーザーの網は、侵入者を制圧するためのものではない。危険人物だと認識されてしまえば、レーザーは即座に高出力モードへと切り替わり、驚異の物理的な切断を開始する。皮膚、衣服、金属――すべてを等しく裂く。
ここでも警告は三段階で行われる。まず音声による静かな警告、つぎにレーザーによる照射で標的をマーキングし、最後に攻撃が実行される。しかし警告は形だけのモノであり、警告が聞こえた段階で脅威が排除されることは決定している。
もちろん、〈緋華〉の防衛はそれだけではない。娼婦たちの部屋には、目に見えないナノ繊維が編み込まれている。
感圧式の床に設置されるナノ繊維は、歩行者の体重、歩幅、振動を解析し、生体情報が登録された者と、そうでない者を瞬時に識別する。収集されたデータは施設を管理する端末に送られ、リアルタイムで行動パターンと照合される。
異常な動き――たとえば走る、跳ねる、あるいは武器を構えた姿勢を感知すると、床面から微弱な電流が流れる。この電流は皮膚を焼くことなく神経系に直接作用し、侵入者の筋肉を麻痺させる。その痛みは叫びを上げさせないほど鋭く、意識の奥深くへと沈み込んでいく。裸になることが想定された対象のための設備であるため、効果は抜群だった。
このシステムは、〈緋華〉の娼婦を守るために設計されたものであり、護衛傭兵〈緋衛〉の手を借りずとも、脅威を排除することが可能だった。娼婦たちが安心して働ける環境を維持するために、〈緋華〉は技術と美学を融合させた防衛機構を築き上げていた。
施設の利用者は、生体認証ゲートを通過する必要がある。虹彩の形状、声紋分析、体温の微細な変化――すべてが記録され、システムに登録された娼婦と常連客にだけ、ゲートは静かに開かれる仕組みになっている。
拒否された者には、ゲートが開かないだけでなく、周囲のセキュリティ装置が即座に警戒モードへと移行する。攻撃タレットが収納口から顔を覗かせ、〈レーザー・グリッド〉が微弱な電流を帯びていく。
この空間には、目に見えないフェロモン・センサーが使用されていた。空気中の化学成分を解析し、侵入者の情動――怒り、興奮、恐怖――を検知する。必要に応じて、天井の微細な噴出口から鎮静ガスが放出される。それは香のように甘く、しかし意識を曖昧にし、攻撃性を静かに削ぎ落としていく。
施設での暴力は許されない。この場所は戦場の外にある〈緋華〉の聖域であり、欲望と秩序がせめぎ合う緋色の境界線だ。
赤い布が風に揺れるたび、そこに咲く花のような娼婦たちが微笑む。その笑みは柔らかく、誘うようでいて、どこか冷たい。彼女たちの背後には、鋼鉄の兵器と、血のように冷たい秩序が静かに横たわっていた。




