秘匿薬師の平穏なようで不穏な日常
この世界では、魔法というものが失われて久しい。
しかし人の身に残った魔力を用いて作る魔法薬や、魔力をバッテリーとする魔道具は残されている。
それらの研究は日々行われ、時たま応用に成功、あるいは発展した代物の作成に成功した、となることもないわけではない。
だがしかし、基本的には過去から連綿と受け継いできた技術の継承。
その魔法薬のひとつに、断種――強制的で、逆戻りできない避妊薬がある。
肉体を傷付けることなく、ただ服用させてしまえば子の出来ない体になるソレは、王宮勤めの薬師の中でも限られた人間にしか継承されていない。
生成に必要な材料はそれなりに貴重で、しかし王家であれば用立ては容易で。
生成手順は複雑で、腕利きでなければ失敗する。
失敗したかどうかは見ればすぐに分かる。成功していれば上等なワインのような見た目と味になるが、失敗した場合出来上がるのはドブ色のとんでもなく苦い味の液体である。
この避妊薬は、ある程度求められる。
一度飲めば一生飲む必要がない薬なのだが、王侯貴族の上層部に必要なのだ。
男爵家だの子爵家だのは平民に近しいし、別段必要ない。
しかし、侯爵家や公爵家などになってくると、家を継承するでも嫁ぐでもない子の処遇に困るのだ。
家は跡継ぎが続けていく。分家を作るとて、無限には必要ないし、その分家に下げ渡すとしても血が近すぎるのもまた問題なのである程度の間隔で分家筋と血を繋ぐ他ない。
家から出す出さないはその家の当主の判断になってくるが、いずれにしても問題となるのは子を作られては困るというもの。
とは言っても性行為をさせない、というのは現実的ではない。
寝床を見張らせたとしても、外出した隙間の時間にちょちょいと作られたら無意味だ。
そういうわけで、後継者が既に存在している家で、分家に血を分けるでもなく嫁ぐでもなく婿入りするでもない子は、避妊薬を与えられる。
大抵は後継者となるものが子を成した後になる。
子を成す能力が欠如していた場合に備えて、である。
万が一の際に、血が濃いものを後継者の予備として置いておきたいのはどこの家もそうだ。
分家筋は最終手段なのだ。
また、それとは別に。
やらかして、コイツはもう王侯貴族などではないとなった場合にも、避妊薬は与えられる。
貴族籍、あるいは王籍から排除される前に食事時のワインと偽って飲ませるのだ。
幸いにして見た目も味もワインそのものなので、疑う理由もない。
そもそも、避妊薬そのものは秘匿されている。
そういったものがあることは周知の事実だが、見た目や具体的な効能、作ることの出来る人物は王以外知ることは出来ない。
同じ薬師仲間はと言えば、国にもよるが、教会の秘匿技術である「誓約」を用いて秘匿させられる。
知ってはいるが教えられない体にさせられるのだ。
避妊薬を作る許可が出ている薬師は、他の秘匿された薬も作ることがある。
そんな重要人物を周知されてはたまらぬと、管理されているのだ。
さて、現在、王国の秘匿薬師はアイリーン・キャンベル。
御年二十三歳。生涯を薬師として終えると決めた、元侯爵令嬢である。
来歴から分かるかもしれないが、彼女は避妊薬を服用した人間だ。
双子の兄姉がポポンと二連続で生まれた事もあって、彼女は十歳になる頃に避妊薬を飲まされている。そして、そこから自立のための勉強を開始した。
彼女が選んだのは、王宮薬師の道。
貴族が服用する薬は、たいてい王宮薬師たちが作る。
アイリーンは、昔喘息が酷かった時に、王宮薬師に幾度となく助けられた。
なので、自分も救う側になろうと決めたのだ。
アイリーンは概ね今の生活に満足している。
令嬢としての生活に執着はなかったし、むしろ今のように働くのが楽しい。
そうして情熱的に働いていたところ、製薬の技術がどんどん上がっていき、二十二歳となる寸前で秘匿薬師に選ばれたのだ。
人間の寿命は大体五十歳頃、四十路になったら人生を畳む準備を始めるのが当たり前のこの世界において、この出世はそこまで早くも遅くもない。
なので、認められるだけの才覚を見せられたことを嬉しく思いながら日々の仕事に邁進している。
そんなアイリーンは、ある日とんでもない醜聞の噂を耳にした。
王太子が夜会の場で不貞を宣言し、本来の婚約者であった公爵令嬢を悪女と糾弾し処刑しようとしたのだという。
幸いにして王がその場にいて、王家の影により公爵令嬢の無実が証明されたそうだが、しかし王太子は最早王太子ではいられまいという話だ。
そして、王太子には一つ下に弟がいて、彼もまた王族としての教育を受けていた。
そしてそして。
弟は、血のスペアとなるために、避妊薬を飲んでいなかった。
ここ数代ほどは男児に恵まれず、王となる男児以外は女児しか生まれていなかったこともあって、王家も慎重だったのだ。
と、なった場合。
血のスペアになるのかしらね、でも悪い血を残してもね、と貴族的に考えていた矢先に、避妊薬の依頼が舞い込み、アイリーンは「あ~」と察してしまった。
誰が飲むかなどはアイリーンには知らされない。
しかしタイミング的に誰が飲むか察しがついてしまう。
それを見て察してしまったらしい使者も「ご内密に……」と当たり前のことを言ってくる。
頷いてアイリーンは秘匿薬師のための一室に入り、慣れた調子でササッと仕上げ、専用の瓶に詰めて使者へと渡した。
生成そのものは短時間で終わるのだ。
使者はまだ温かさを残す瓶をマントの内側に隠して去っていった。
「ねぇアイリーン聞いたかい?
元王太子殿は南方の直轄領で静養だってさ」
「あらそうなの。まあ正気じゃないでしょうしね」
「辛辣だねえ!
で、そこに不貞の相手も婚姻の上押し込まれるそうだよ」
「あらあ」
求められた避妊薬は二人分だった。
そんなことだろうと思った、とアイリーンは内心でだけつぶやく。
同僚の青年は、一緒に風邪薬を煎じながら、
「次の王太子殿は素行も悪くないし、婚約者とも睦まじいそうだよ。
最初からこっちがそうだったら、なんて考えちまうね」
「まあねえ。でも、王太子って決まった後にボロが出たんでしょう?
じゃあ軽々に変えられないわよぉ」
「それもそうか。いや、えらい人ってのも大変だね」
「そうね。一番いいのは雇われて働くだけのポジションよ。
深く考えなくていいならなおさらね」
「言えてる」
からから笑う同僚。彼は伯爵家の出自だ。
王宮勤めをする薬師の殆どはそれなりの家の生まれだ。
ある程度の教養と立ち居振る舞いを求められることもあって、平民や低位貴族では務まらないのもある。
そもそも、ある程度の家でないと、それらの教育を施しつつ薬師としての教育も、なんて余裕がない。
さて、今作っている風邪薬は、そろそろ大量に必要になってくるものだ。
秋の終わりから冬に近付くにつれ、風邪が流行る。
これは平民でなく貴族でもそうだ。
なので、流行る前に作っておくのだ。
幸いにして風邪薬は一年ほどは効能が保つ。
なので、余裕がある今の内から大量に作るのだ。
他の薬師たちはと言えば、他にもさまざま必要な薬を作っている。
風邪薬のためにてんてこ舞い、というわけではない。
中には、近日婚姻を結ぶ貴族家に依頼されて、精力剤を作ったりしている薬師もいる。
初夜から一か月ほどの間に子を作ってしまおうという家は割とあるので、「元気になる薬」はそこそこの頻度で作ることになるのだ。
時には複数人でわっせわっせと精力剤を山ほど作る時もある。
貴族の婚姻は重なることもあるので。
その重なり具合がとんでもない時もあるのだ。
王宮薬師を束ねる薬師長は、納品のための木箱に種類ごとに出来上がった薬を詰め込んでいて、それはそれで忙しそうだ。
王宮薬局はいつだってそれなりに忙しい。
十日に一度決められるスケジュールには余裕を持たせているが、飛び込みの依頼が来るのは日常茶飯事。
腰を痛めただの、足を挫いただの、そういう時のための軟膏とて、どの部位をどうしたかで薬が決まるので、その時々作るしかないし。
アイリーンは通算百個目の風邪薬を作り終わり、錠剤のそれを瓶に放り込む。
満タンになったので蓋を閉め、次の瓶を引き寄せる。
「薬師長ももうずいぶんなお年だし、交代がありそうよねえ」
「じゃあホプキンズだろ。あいつ、ちょうど今年で三十歳だし」
「新婚早々重役になるなんてツいてないわね」
「まあね。でもまあ、僕らは子供できないし大丈夫だろ」
「確かにね。育児休暇も必要ないし」
断種されていても、結婚は出来る。
子供が出来ない体であっても恋は出来るし、同じように子供の出来ない体になって働きに出ている元令嬢・現女官や侍女などとくっつくことはザラにある。
この薬局にもそんな薬師は何人もいる。
同僚も、近日結婚する予定がある。
アイリーンは今のところはそういった予定もなければアテもないし、どうこうするつもりもない。
仕事の合間合間に進めている古文書の解析が忙しいのだ。
うまく解読できたら、もしかしたら歴史の帳に消えていった魔法役の復活が出来るかもしれない。
そんなロマンに夢中なのである。
昔からアイリーンは恋愛というものに興味がなかった。
初恋さえまだである。
そんな彼女は、だから「やらかして家から追い出される」人々のことをバカだなあとしか思えない。
既定路線でいけば普通に結婚して子供を作って死ねたのに、安易に感情に振り回されるから飲まなくていい薬を飲まされた挙句、追い出されるハメになるのだ。
そもそも義務である子作りをしっかりした後なら、贔屓の愛人として愛した女を引き入れたりする程度は大体の家では許容するだろう。
もちろん本妻を蔑ろにしないことが前提となるが。
実際、そういう話はそこらへんによく転がっている。
避妊薬を飲まされた令嬢を囲って恋人にし、本妻との間に子が数人できたところで引き取って、みたいな話は。
さらに発展すると、同じく避妊薬を飲まされた令息を恋人にし、夫の子を数人産んだ後は夫婦ともども恋人と睦まじく過ごしている、なんて家まである。
アイリーンの実家でも、先代――祖父母はそういう、お互いに恋人を持っていた。
社交の場などではきちんとしていたし、お互いを忌み嫌っていたわけではなく、パートナーとして尊重しあっていたので、特に問題視もされていなかったそうだ。
アイリーンの覚えている祖父母はいつも柔らかな雰囲気だったので、実際そうなのだろうなと思っている。
同僚も同じような話をしていたので、上の貴族ともなれば愛人が複数いるのもおかしくはない。
中には、子作りが終わってから若い愛人となる避妊薬服用済の令嬢令息を見繕う者もいる。
まあ、愛人として生きる道を選ぶ者たちのことも責められない。
衣食住の面倒を見てくれる対価に体を許すのだと思えば。まだ安泰な暮らしが出来るのだと思えば。
アイリーンは働くのが好きなので理解は出来るが共感は出来ないが。
そうして夕方の五時には定時を知らせる魔道具がリンリンと鳴り、各々片付けをして出ていく。
交代で入ってくるのは、緊急で魔法薬が必要になった時のための夜勤者だ。
彼らは朝、日勤が出勤してくるまでずっと詰めていなければいけないが、逆に言うとそこにいることが仕事なのでちょっと人気である。
交代制なので、アイリーンも時々は夜勤をする。
その時ばかりは古文書の解析が捗るので大変ありがたい。
「お疲れさん。アイリーン、この間勧めたパブはどうだったかね」
「お疲れ様です、局長。
お酒はともあれ、食事が大変おいしかったです。
ほんのり胡椒を利かせたマッシュポテトがまた絶品で」
「だろう。メシ屋になったらどうだと何度も店主に言ってるんだが、頷いてくれなくて困るよ。
その隣の料理屋も知られざる名店だからいくといい。
東方の料理を出す店だが、こちら風に味付けを調整しているから食べにくいことは全くないぞ」
「わあ!じゃあ、今日行ってみますね!」
「ああ。夜道には気を付けるのだぞ」
「って、一人で行くなって毎回言ってるだろっ。
ノーラも上がる時間だし、三人で行くぞ」
「あら、結婚間際のお二人に挟まっていいの?」
「ノーラも僕も君と喋るの好きだって言ってるだろうに。
それに僕ら三人食いしん坊だから、ちょうどいいじゃないか」
「それもそうね」
同僚の奥さん予定のノーラとも気が合う。
パブだって三人で行って、必ず頼まなくてはいけないお酒は酒豪のノーラに飲んでもらった。
アイリーンはあいにく酒に強くない。同僚は人並み。
で、三人揃って健啖家なので、あれこれ頼んでテーブルいっぱいに並んだ料理を行儀よく、しかしモリモリと食べること食べること。
寮の食堂だって、量も味も文句なしの代物だが、外食だってたまにはしたい。
そうして、東方の料理ってどの国のかしらと楽しみに胸躍らせるアイリーンの脳からは、すっかりと「元王太子のその後」など消え去っていた。
年に一度か二度起こる醜聞の末路など、逐一覚えている価値なんてなかったから。