死のない世界
無数の人間の肉が溶けて海のようになっていた。しかし、彼らはそれでも意識を失っていなかった。いや、もはやかつての分断された個から卒業し、意識を統合していた。
私も、彼らと溶け込みたいと思った。だからこうしてその中に入り、一体化したのだ。
怖くはなかった。ただただ、こんな異常な世界を静かに受け入れている自分自身を不思議に思った。受け入れる、か。どんな目に会っても、人間はそれを事実として受け入れざるを得ない物だ。とはいえ、やはりこうなる運命を宇宙が定めていたとはとても信じられない気がする。しかしいつから、人間はこの運命を事実として認識していただろうか。ふと、自問する。
いつからだろうか、人間が飢えなくなったのは。
いつからだろうか、人間が病まなくなったのは。
それが起きてどれくらい経つかも、今ではもう誰も覚えていない。
もうほとんど過去を思い返すこともなく、未来を憂える必要もなくなってしまっ たので、誰も彼も記憶力が低下してしまった。
私はいくつか人間がうずくまっている橋を渡って街の中心部へと入った。
誰一人、明るい表情をしている人間はいない。
生気のない顔が道を埋め尽くしている。もはや見慣れた光景。
突然誰かが急に私の方に向かって襲いかかって来たが、私はとくに驚くこともなく、その腕が迫って来るのをぼんやりと眺めていた。
そして体が激しく打ちすえられ、地面に叩きつけられても、痛みどころかむずがゆさすら感じなかった。いや、衝撃すら感じたかどうか疑わしい。
さすがに、これを気持ち良いとは感じないし、できることならそうしないでくれると嬉しいとは思ったが、だが怒りもあきれも湧いてこなかった。
気づくと暴漢はいなくなっていた。恐らく後ろの方に走り去って行ったのだろうが、もうそれらしい人影はどこにもなかった。ただ、人のうずくまり、人以外が昔どおりの風景が異様に鮮明に見えた。紫外線も見えたし、赤外線も見えた。私の目はもはや三色ではなく五色で色彩を認識していた。無数の宝石がぎらぎらと散らばり、絶えず光を反射し続けるその極彩色に、以前なら気が変になったはずだが、今ではそれにも何とも思わなくなった。
友人の家を訪ねた。彼は、背後に人がいるとは気づかなかったらしく、驚いて私の顔を見た。机の上には、一体何に使うのか分からないコンピュータの基盤や難解なメモが無造作に散らばっていた。
「また、あの研究ってのをやっているのか」
彼はいつも通りに答えた。
「人間をもう一度死ねるようにしなくちゃいけないんだ。これがやめずにいられるか」
そして、最近町中で撮影した写真を見せた。彼は、ここ最近世界で起きている変化を観察し続けているのだ。
「見ろよ、こいつらの顔を。どれもこれも似たような表情ばかりだ」
それは、私が先ほど目にした光景と変わらない、うずくまる人々の写真だった。誰も、別に好きでそんな姿勢をしているわけではない。それが正解だからだ。目的のない生をひたすらしのぐための。
「最初に飢えから解放された時には、みんなあんなに喜んでいたのにな……」
飢餓――人間の間に争いが起きる根本的な原因だ。飢餓がないだけでも、人間界のあらゆる問題が解決されると目されていただけに、これは神の恩寵ではないかと口にする者もいるほどだった。
だが、異変は次々と起こった。
年老いることもなくなった。
人間が、病気では死ななくなった。次々と人間が増えて行った。
あまりに人間が増え過ぎた場所では、とうてい住めた所ではない狭い空間に押し込めるようになった。子供を産むことすらやめてしまった。
そうなると人間はどうなるか。考えるのをやめてしまうのだ。
(お前は、何でそうやって平然としていられるんだ?)
彼の意識から、思念が漏れ出る。
(現実味がないからさ)
私はそう思った。
彼に、私の考えが伝わったらしく、
(違う。これは現実だ)
私は、声に出して反論した。声を出してしゃべっている時だけは、まだ元の人間らしさに返っている感じがしたから。
「現実なら、なおさら受け入れなくちゃいけないだろう。ここは、もう俺たちの知っている世界じゃないんだよ」
彼は頑として意見を曲げない。
「だめだ。俺は何としてでもこの世界を元に戻してやらなくちゃいけないんだ」
しかし、言うほど世界は変わったのだろうか。鳥はいつもどおり鳴いているし、虫はその辺をうろつきながら犬や花にたかっている。ずっと前からこの世界が自明のものとして存在していたかのように、自分の本分を果たしている。
変わったのは人間だけだ。人間だけが、自分自身の変化に適応できずに苦しんでいるだけなのだ。
苦しむのが人間の特権なのか。まあそれも一興だが。
橋に寄り添うようにして人々が座っている。もはやいつからそこにいたのか、全く分からないくらい長く。もはや数人の脚や腕が苔むしていた。
顔もだ。年齢すら分からなかった。麻薬で人生を破壊してしまった人間を見るようだ。
そして時たま、彼らを冷たい一瞥を向けて通りすがる人影がある。彼らは他の人間と違い、決してこの現状に恐怖や絶望など感じていない。むしろ、あらゆる死の恐怖におびやかされていた頃より、一層楽しげですらある。
彼らの生活は、むしろ充実している感があった。音楽を聴いたり、ごく身近な話題で盛り上がったりする。
だが、そうできない人間はあまりにも悲惨だ。
死に関しては驚くほど無関心だった。もう死というものに対して考える必要がないのだから。死を奪われた人間は生さえ奪われてしまう。その二つとも奪われた人間に何が残されているのか、私には想像することすらできない。
今、ああやってうずくまっている人間が何を感じているのか、知るすべはそこにもない。
しかし、うずくまってしまった人間はあとどのくらいそこにいるのだろう。
ティトノスのように、老いさらばえた後に蝉へ変わることすらできない。
今はまだ、ある程度成長したらそのまま止まる段階ではあるようだ。だがその内、赤子から成長できなくなるのも時間の問題なのではないか。
もうずっと前から何日、何年経ったかもまともに記憶していない。
睡眠をとらなくてもよくなったからだ。
そして最近は、また一つ変化があった。
痛みすら、なくなってきた。
血を流しても、生の実感を感じることができない。
感覚がなくなったと思ったら、今度は何だ?
耳を澄ませると、いつも誰かのうめき声が聞こえる。
適応できない人間は、みなそうなる。
ここ数か月、頭の中でずっと誰かの声がこだましている。
誰かの記憶が、頭の中に流れ込んでいる。私はもうこの一週間で百人以上の思考の濁流を浴びたような気がする。そしてそのどれもが絶望と憎悪だった。
この生き地獄から逃れるためには当然自ら命を絶つほかはないわけだが、そうしようとして刃を我が身に突き立てても、死ぬどころか、痛みすら感じない。
ではどうやって現実から逃げるのか。他人を襲うことだ。
そういうのが嫌になり、私はもう何年もの間人目を避けてさまよっているのである。彼と会ったのはほんの偶然でしかない。そして彼だけが、今ではまっとうに話し合える唯一の人間となっていた。
だが、この不本意な進化がある程度進んだ結果、適応できないゆえの拒絶行動も減った。
適応できない人間は皆、もはや変化にただ流されるだけの塵と化したからだ。そういう人間が、外にも中にも無数に存在している。
目が虚ろで、無駄に太り、不格好な肉塊と化した人間がその辺にたたずんでいる。そして、彼らを横目で厭うように、これまた焦点の合わない目でがりがりにやせた人間が走り去って行く。
「これが人生なんだよ」
もう何度も見た光景だが、それに対して不快感をもよおすこともなく悠悠と見物する者がいた。以前、わずかな間だけ知り合いになっていた者だ。
彼はひょっとしたら私以上にこの世界に適応できた人間だったかもしれない。
だがそれゆえに、私のように元々の価値観を残してしまった人間とは違う道を進んだ。だんだん、彼の言動はおかしくなっていった。簡単な計算でも間違えるようになり、言い間違いも増えて行き、外見においても目や口の位置がずれていった。しかし、彼はその姿を恥じるどころか、どんどん楽しんでいっているようにすら見えた。
「そんな目で見るな。人生には様々な種類があるんだから」
「甘い豆腐の救世主」
まあ私は彼の元には長くはい続けられなかったが。
だが、今では私の考えもだいぶ彼に近くなっているような気がする。
何もかもが溶けあおうとしている。
自分と他者の境界線すらもだ。
「俺たちはまだ、ましな方だ。ぎりぎりの所で人類の変化に適応できているが、これからどれまで持つか分からない」
それからは、もはや口を動かして話すのも面倒くさくなり、相手に精神を集中させて意思を伝える。
(お前もいい加減あきらめないか? 人間でいることを)
「何を言う。俺は決してあきらめないぞ。たとえどれだけ見た目が人間でなくとも、人間としての心を捨て去りはしない」
彼は、あくまでしゃべった。頭で言葉を考え、唇を動かし、声にすることに余念がなかった。
しかし、不思議なことだ。
なぜ私たちがこれまで争わずにいられるのか。自分のどす黒い一面を晒され、他者の本心を見せつけられたら、誰だって正気ではいられない。
だから全てを見透かされた状態で精神の均衡を保つには、理性を考えて完全に捨てて争い合うか、あるいは何もせず屍のように倒れ込むしか選択肢がない。
そんな世界で、こうやってさまよう私は、どれだけ社会の異物だろうか。
ただ、何とも関わらないでいたいだけなのだ。何にも酔いたくないだけなのだ。だが、この理性を越えた変化にただなすすべもなく酔っていく。
明らかに、地球の外にいる誰かが人間を進化させようとしているのではないか? そして無数の人間が淘汰されていく真っただ中。無論、これもまた単なる憶測に過ぎない。
これだけは言える。
人間が一つになろうとしている。文字通りの意味で。
浅ましいことだ。これが人間以外の動物だったら、自然に受け入れていただろうに。
人間だからこんな風に戸惑い、拒絶するのだ。
人間が万物の霊長とは嘘ではないか。知性を発展させていき、外の世界を改変して保守してけばいくほど、自滅するのだ。
私たちは、道を通り抜けて海辺へと向かった。
巨大な円錐形の何かが海から伸びていた。
無数の目や指が生えている。あらゆる器官がばらばらに配置されつつも、顔のような構造になるのをかろうじて避けているのはわかった。
初めて目撃した時よりも、高く、太く成長していた。そのうち、空を越えて宇宙にまで伸びていくだろう。
私は感慨にふけり、思わずつぶやいた。
「これが、造物主の望んでいることなのかもしれんな」
「これがか?」
怪訝な視線を向ける。
「誰もがこの状況を受け入れられずに苦しんでるわけじゃないってことだ。こんな状況になっても人間は生きていられる。新たな道を切り開くことだってある」
私は、もはや人間の枠にとどまってはいたくなかった。人間でい続けなければいけない理由がどこにあるのだ。忌まわしい人間であることから逃げられるなど、まさに福音ではないか。
「おい、どこに行くつもりだ?」
私は次第に海につかった。どんどん、人間の生暖かい汁で濡れて行った。
いや、それは人間から漏れ出た搾りかすなどではない。人間そのものだ。
「人間の先を行くとでも言いたいのか?」
彼は怯えていた。だが、私を止めなかった。
「今更こんな身の上で生きているわけにもいかないだろ。俺はそろそろ次の段階に行きたいんだ。そっちの方が面白そうだからな」
汚れた体液が、靴を通して皮膚に届いた。その瞬間、私は無数の意識を知った。
全てが輝いて見えた。神を見たかのような喜びが、勝手に胸の底から湧いていくかのような錯覚を覚えた。
まるで酔うような感覚で、さすがに危険だと思った。
だがもはや構わないのだ。
私の体はさらに沈み、今やひざまで漬かっていた。
「それがお前の望むことか」
後ろから彼の声が聞こえた。私はふと振り返った。
もう、彼の体は私よりもずっと下の方にあった。足も腕も、先ほどと大して感覚は変わらないはずなのに、もう完全に別の形になっていた。いや、『私』とはもはや『私たち』と違いのない存在となっていた。単一である多数として、私は存在していた。別の物になったのに、それでもそれまでの私はここにあり続けているのだ。アルファでありオメガだった。
私は、円錐の主になったようだ。




