地球割れろ!
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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
「俺のパシリになれ」
目の前の赤毛の男が言った。
いやです。僕は思う。いやです。でも、もし僕が「いやです」などと言うと、彼は怒るだろうか。僕を殴るだろうか。それもいやだな、と思う。殴られるのはいやだ。誰に殴られるのも。
この赤毛の男の名前は、黒羽集という。高校に入学して、ふた月ほど経ったいまは六月。黒羽が、突然僕のクラスへやって来た。朝のショートホームルームの前だった。いつもは口もきかないようなクラスメイトが、慌てたように僕の席まで来て、ひそひそと僕に耳打ちをした。
「崎本、おまえ何やらかしたんだよ」
「へ」
突然のことに、僕は気の抜けたような声を出してしまう。
「黒羽様がお呼びだぞ。佐竹よりもヤバイやつに目ぇ付けられて、おまえ今後の高校生活どうすんだ」
「へ」
佐竹よりもヤバイ、という言葉に思わず身体がびくりと跳ねる。肩が当たって謝らなかったとかなんとか、そういう理由で、僕は四月の早い内から佐竹に目の敵にされており、時折、佐竹のストレスの捌け口、要するにサンドバッグなっていた。そんな佐竹よりヤバイやつ、黒羽様。
何かの間違いではないだろうか。黒羽に目を付けられるようなことをした覚えは、全くなかった。
クラスメイトが示す教室の扉におそるおそる視線を投げると、もう衣替えが終わっているにも関わらず短ランを着た、赤毛の美丈夫が僕の視線を真っ直ぐに捕らえた。確かに、あの黒羽集だった。僕は席を立ち、仕方なく足を踏み出した。
黒羽の赤毛は、入学式当日から、全校生徒の目を引いていた。この高校には、そんな髪の色の生徒は、黒羽を除いてひとりもいないのだ。目を引いたのは赤い髪の毛だけではない。整った黒羽の顔は、その髪の色が無難なものでも、きっと人目を引いていたに違いない。しかし、せっかくかっこいい顔をしているにも関わらず、黒羽の評判は良くない。入学早々三年生を病院送りにしただとか、職員室の先生のデスクを漁っていただとか、不穏な噂しか聞かない。黒羽は、いわゆる不良様なのだ。不良様、黒羽様、と影で揶揄されている。進学校として名が知られているこの高校に、なぜ黒羽のような生徒がいるのかが、まず不思議だ。
黒羽の髪の毛の赤をぼんやりと眺めながら、現実逃避半分にごちゃごちゃと考えていると、
「おい、黙ってねーで返事しろよ。パシリになんのか、なんねーのか」
黒羽が答えを急かしてくる。
「あの」
僕はおそるおそる口を開く。
「いやだって言ったら……」
しかし、黒羽のひと睨みで僕は竦み上がってしまい、その先が続けられない。
「パシリはいやか。何ならいいんだ」
ガチガチに固まっている僕に、黒羽は言う。
「何ならって……?」
「舎弟とか、下僕とか、奴隷とか」
黒羽は指を折りながら、淡々とそんなことを言う。どれもいやだ。
舎弟、下僕、奴隷、パシリ。この中だと、舎弟がいちばんマシなような気もする。
「あの……」
僕は再び口を開く。
「絶対、その中のどれかにならなきゃいけませんか?」
「ああ?」
黒羽は面倒くさそうに右眉を上げる。
「断ったら、僕を殴ったりしますか?」
黒羽は、今度は両眉を下げた。
「殴んねーよ」
黒羽は言った。そして、少し背伸びをして僕の肩に片手を置き、耳に口を寄せる。僕のほうが、黒羽よりも背が高いのだ。身を屈めた僕の耳に、黒羽は囁く。
「これを断っても、おまえはどうせ日常的に誰かに殴られてんだろ? だったら、俺のパシリになったほうが得だ。俺は絶対おまえを殴らない」
僕は、黒羽の顔を初めてまともに見た。黒羽は笑う。しかし、その目だけは笑っていない。
「地球割れろおぉぉ!」
体育館裏の旧部室棟、外付け階段の踊り場で僕は叫ぶ。佐竹にサンドバッグにされ始めてから、これが昼休憩の日課になっている。ここなら、誰にも聞こえない。
僕は結局、黒羽のパシリになることを承諾した。黒羽がどういうつもりなのかわからないが、佐竹に無意味に殴られるよりはマシな気がした。実際、今朝、黒羽が僕に接触してきた直後から、佐竹は僕と目を合わせなくなった。いつもは僕の方が佐竹と目を合わせないよう努力をしているのだけど、その必要がなくなったのだ。黒羽様が恐ろしいらしい。しかし、それは僕も同じだ。僕だって、黒羽が恐ろしい。なので結局、いつものようにストレスを発散しに、ここへ来てしまった。
「地球っ……」
「おーい。それ、やめろって」
二度目を叫ぼうとした時、頭の上から声が降ってきた。
「もう地球割んなくても大丈夫なようにしてやっただろうが」
聞き覚えのある声に、僕は頭上を仰ぎ見る。屋根の上に、黒羽がいた。不機嫌そうな顔で、僕のことを見下ろしている。
「く、黒羽、様……」
「なんだ、その『様』って」
黒羽は右眉を上げる。僕が何も言えず黙っていると、
「まあいいや」
黒羽は言った。
「上がって来いよ。そっち梯子あるから」
見ると、屋根の上からは鉄の梯子が下りている。僕は足元に置いていたお弁当を抱えて、梯子を上る。そこは、屋根というよりも屋上というほうがしっくりくるような場所だった。
「おまえの叫ぶ声がうるさくて、眠れねーんだよな」
黒羽が言う。
「すみません」
謝ると、
「でも、もう大丈夫だろ。俺のパシリを殴るような物好きも滅多にいねーだろ」
黒羽は、きれいな顔をくしゃっとさせて笑う。ちゃんと目も笑っている。
「だからもう、叫ぶのやめろよな。安眠妨害だ」
そう言われ、
「あの」
僕は口を開く。
「黒羽様は、僕のことを知っていたんですか?」
「知ってたよ」
黒羽は、あっさりと言った。
「毎日毎日、ここの下で叫んでんだもん。だから、なんかやなことでもあんのかと思って調べたんだよ。そのやなことがなくなったら、もう叫ばなくなるかと思ったんだがな。なんで今日も叫んでんだよ」
あなたが恐ろしいからです、とはとても言えない。
「まだやなことあんの?」
そう尋ねられ、僕は慌てて首を横に振る。
「ふうん」
納得したのか、黒羽は軽くうなずき、
「まあ、いいや。弁当食うんだろ。食えよ」
と言う。仕方なく座ってお弁当を開くと、黒羽は僕の隣に座り、僕の肩に頭を乗せてきた。
「な、な、な、なんですか」
緊張でお弁当どころではない。
「俺、寝るから予鈴がなったら起こせ」
「え、授業出るんですか?」
いつもサボっている印象しかないので、意外に思って思わず尋ねてしまう。
「いや、俺は出ねーけど、おまえが出るだろ」
なるほど、と思う。予鈴が鳴ったら、僕を動けるようにしてくれるということなのだろう。黒羽は、もしかするとそんなに悪いやつではないのかもしれない。
僕は、少しだけ緊張を解き、お弁当を食べる。
「おーい、市雄」
移動教室で、廊下を歩いていると、黒羽に呼び止められた。下の名前で呼ばれたことに驚く。黒羽は意外とフレンドリーなのかもしれない。先日から、意外な面ばかりを見ている気がする。
「なんで昼休憩来ねーんだよ」
黒羽は言う。僕たちふたりの周りを生徒たちが避けて通るので、ちょっとした十戒みたいになっている。
僕はあれ以来、旧部室棟へは行っていなかった。僕が行くと、黒羽の昼寝の邪魔になると思ったからだ。そう伝えると、黒羽は、
「枕がねーんだよな」
ぼそりと言った。
「まくら?」
訊き返すと、黒羽は、
「ああ、枕」
とうなずいた。
「今日は来いよ」
言い捨てて、赤い後ろ頭が遠ざかる。
昼休憩、僕は旧部室棟へ向かった。外階段の踊り場から屋根に上ると、黒羽が待っていた。
「来たな、市雄」
と黒羽は微笑む。きれいな顔でそんなふうに穏やかに微笑まれると、男の僕でさえ少しドキッとしてしまう。
「座れ。弁当食え」
いちいち命令口調だけど、黒羽の言うことは、なんとなく親切だ。僕は素直にその言葉に従う。すると、黒羽はまた僕の肩に頭を乗せてきた。また寝るのかなと思い、僕はお弁当箱を持ったまま身体を固くする。
「ちょっと枕が高いんだよな」
黒羽は呟いて、何を思ったのか今度は僕の太ももに頭を置いて寝転がった。持ち上げたお弁当箱の下に黒羽の顔がある。お弁当箱越しに目が合ってしまい、僕はどうしたらいいのかわからない。食べにくい。
「こぼすなよ」
黒羽は言った。僕はこくこくとうなずいて、用心深くお弁当を食べる。黒羽は目を閉じて、寝息をたて始める。
食べ終わったお弁当を脇に置き、僕は黒羽の顔を観察する。赤い髪の毛の根元が伸びて、一センチほど黒くなっていた。整った造作の顔は、見ていると胸の奥がくすぐったくなってくる。
僕はずっと黒羽の顔を見ていた。予鈴が鳴っても、眠る黒羽をじっと見続けた。起こしてしまうのが、もったいないような気がしたのだ。黒羽は、すよすよとやわらかい寝息をたてながら、気持ちよさそうに眠っている。眠っている黒羽は、なんだか少し幼く見えた。
黒羽が目を開ける。途端に僕と視線がかち合った。
「あ、おい。おまえ、授業は?」
黒羽は、まだ目覚めきっていないもにゃもにゃした口調で尋ねる。僕は黙って首を振った。
「起こせよ、予鈴鳴ったら」
「でも、黒羽さん、気持ちよさそうに寝ていたので」
僕は言う。いつの間にか、『黒羽様』ではなく『黒羽さん』になっていた。僕の中で、黒羽集という人物が、ようやく現実味を帯びてきたのだ。
「気持ちはよかったよ。確かに」
黒羽さんは、きゅっと目を細めた。そして、まだ僕の膝に頭を乗せたまま言う。
「市雄。おまえ明日も来いよ」
「どうしてですか」
僕は尋ねる。僕を枕にするためだろうか。だけど、枕なら何か他のものを代わりにしてもいいのだし、黒羽さんも、ひとりのほうが気楽でいいのではないか。そう思っていると、
「ひとりでごはん食うのは、寂しいだろ」
黒羽さんは言った。その瞬間、僕の目から涙がこぼれた。理屈じゃなくて、ただ、その言葉に反応したみたいに、ぼろりとこぼれた。
「ぶふっ」
僕の涙をまともに顔面で受けた黒羽さんは目をぎゅっと閉じて、息を吐き出した。しまった、怒られる。
「す、すみません」
僕は慌てて、黒羽さんの顔に落ちてしまった自分の涙を指で拭う。ほっぺたに触れてみて驚いた。黒羽さんのほっぺたは、大福みたいにやわらかかった。少し引っ張るだけでちぎれてしまいそうなやわらかさだ。僕は、黒羽さんのほっぺたをつまみたいという衝動を必死で抑える。
黒羽さんは困ったような顔で僕を見上げている。相変わらず僕の太ももに頭を置いたままではあるので、怒っているわけではないのかもしれない。黒羽さんがこちらに手を伸ばしてきたので、僕は思わず身を竦ませた。一瞬、殴られる! と思ってしまったのだが、しかし、黒羽さんは僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でただけだった。撫でながら、
「泣くなよー」
困ったような声で黒羽さんは言った。
「すみません」
僕はまた謝ってしまう。黒羽さんは、下から僕の顔を見上げて、
「おまえ、俺よりでかいのになあ」
と微笑んだ。身長は関係ない気がする、と僕は少し笑う。
黒羽さんは自らの身体を起こし、そして僕の太ももをぽすぽすと叩いて、
「枕、さんきゅー」
と呟いた。律儀だ。
このひとは、どうして不良なんかやってるんだろう。僕は不思議に思う。
それからずっと、昼休憩は旧部室棟の屋根の上で黒羽さんと過ごしている。
「黒羽さんは、なんで不良なんかやってるんですか」
「あ?」
黒羽さんは僕の太ももに頭を乗せたまま、僕の顔をきょとんとした表情で見上げる。眠っていると思い、完全にひとりごとのつもりだったのだけれど、反応があって驚いてしまった。
「へ」
思わず間抜けな声で訊きかえしてしまう。そして、次に続けられた、
「俺、別にそんなに不良じゃねーよ」
という黒羽さんの言葉に、
「えっ」
さらに間抜けな声で答えてしまった。
「じゃ、じゃあなんで髪の毛を赤くしたり……」
「これは、なんとなく。かっこいいかと思って」
「えっ」
あまりに単純な理由に、僕はまた間抜けな声を上げる。いや、確かにかっこいいけれど。
「三年生を病院送りにしたっていうのは」
「家帰る途中で腹痛いってしゃがみ込んでるから、おんぶして近くの病院連れて行った。盲腸だったって」
盲腸? 病院送りって、そっち?
「職員室の先生のデスクを漁ってたっていうのは」
「同じクラスの女子が担任に携帯没収されて、返してもらえないって泣いてたから、取り返しただけだ」
僕は口をぽかんと開けたまま、言葉もない。ただのいいひとエピソードじゃないか。ひとの噂って、こわい。そして、それに振り回されている自分たちも。
「でも、こういう髪の毛してると因縁つけてくるやつもいるからさ、そいつらの相手してたら、いつの間にか不良って呼ばれてた」
「その短ランは」
「せっかく不良って呼ばれてるし、不良らしくしてみようと思って着てみた。一度着てみたかったし、俺、この夏は短ランで過ごすんだ」
黒羽さんは、のんきな声でそんなことを言う。
「そんで、いまは授業をサボってみてる最中。飽きたら授業出るよ、ちゃんと」
黒羽さんは笑う。
「そろそろ梅雨入りだし、ここも過ごしにくくなるだろ」
「黒羽さんは」
僕は口を開く。
「黒羽さんは、不良のふりをしているんですか」
少し考えるような表情で、黒羽さんは右眉を上げた。そして、
「そういうことだな」
と、ひとこと言って、目を閉じる。
変なひと、と思った。そういえば、黒羽さんは煙草も吸わない。そうか、不良じゃないのか。
「盲腸の三年生も、携帯没収された女の子も、きっと黒羽さんに感謝してますね」
僕は言う。黒羽さんは目を開き僕を見て、
「まあ、ありがとうとは言われた」
と、くすぐったそうに目をそらした。
「僕も」
僕は、精一杯言う。
「僕も言います」
「あ?」
「ありがとう」
黒羽さんは困ったように右眉を上げ、手を伸ばして僕の頭をぐしゃぐしゃと撫で、
「うん」
と小さく言った。
梅雨に入り、毎日のように雨が降っている。
僕たちは旧部室棟へは行かなくなった。そうなると、お昼をひとりでどう過ごしたらいいのかわからなくなった。黒羽さんのパシリになるまでは、ずっとひとりで過ごしていたはずなのに。不思議だ。
教室の自分の席で、ひとりでお弁当を食べる日が続く。
「崎本、おまえ、黒羽様のパシリやめられたの?」
クラスメイトのひとりが僕の席まできて、ひそひそと尋ねた。あの日、黒羽さんに言われて僕を呼びにきたひとだ。
やめてないよ、と言おうとして、はたと口を噤む。パシリと言っても、僕は黒羽さんにパシられたような覚えもない。というか、黒羽さんの役に立った覚えがない。せいぜい、枕になるくらいのことしかしていない。黒羽さんは僕を助けてくれたけど、ただそれだけで、黒羽さんには僕は必要ないような気がする。そう思ってしまうと、「やめてない」のひとことが言えなくなった。もともと、パシリでもなんでもなかったのだ。
クラスメイトは、
「無事でよかったな」
と言い、自分の席へと戻って行った。
くらりと目が泳ぎ、その瞬間に佐竹と目が合った。あ、と思う。佐竹は目をそらさなかった。元に戻ってしまった。
昼休憩を僕と過ごすことで、黒羽さんは僕を守ってくれていたのだ。
「崎本、久しぶりに遊ぼうぜ」
放課後、帰り支度をしている僕の席にきて、佐竹が言った。僕は声が出ない。
「来いよ」
佐竹が僕の腕を乱暴に引っ張る。元に戻ってしまった。
教室を振り返ると、あのクラスメイトが心配そうな顔で見ていた。きみが心配するようなことじゃないよ、と目で訴えかけたけれど、伝わったかどうかはわからない。
連れて行かれたのは、人気のない渡り廊下だ。いつも、焼却炉のところだったけれど、雨が降っているからだろう。
「おまえと遊べないから、ストレス溜まっちゃってさ」
佐竹は言う。
「黒羽の陰に隠れるとかさ、卑怯なことしてんじゃねーよ」
卑怯なこと、と僕は佐竹の言葉を頭の中で繰り返す。
確かに、そうなのかもしれない。自分では何もしようとしないくせに、僕は黒羽さんにただ守ってもらっていた。
「でも、おまえ、もう黒羽に捨てられたんだろ」
その言葉が、殴られるよりも蹴られるよりも、なにをされるよりも痛かった。
「役に立ちそうもないもんな」
佐竹の、にやにやと笑う顔が、だんだんとぼやけていく。
雨の中、体育館裏の旧部室棟、外付け階段の踊り場に僕はいた。
地球割れろ!
そう叫ぼうとしたけれど、声が出ない。ひく、と喉が引きつり、嗚咽が漏れた。
脚が重い。お腹や背中に鈍くて重い痛みを感じる。だけど、そういうことじゃない。
そういう物理的な痛みじゃなくて、もっと、違うところが痛い。
思い切り息を吸い込むと、ますます痛みがひどくなった。
「地球っ、割れろおぉぉ!」
なんとか叫んで、僕はその場にへたり込む。
「割れねーよ」
下のほうから、やわらかい声がした。黒羽さんの声だ。
手すり越しに覗き込むと、黒羽さんが立っていた。いつもはきれいにセットされている赤毛が、雨に濡れてへたっている。
「市雄」
黒羽さんが僕を呼ぶ。
「わるい。間に合わなかった」
「なんで」
知ってるんですか、と続けようとして、黒羽さんの声に遮られる。
「おまえのクラスのやつが知らせにきた」
あのひとだ、と思った。佐竹に連れて行かれる時、心配そうにしていたあのひとだ。
「おまえが連れて行かれたって。助けてやってくれって。短い間でもパシリだったんだから、助けてやってもいいだろうって」
黒羽さんのところへ行くこと自体、きっとすごくこわかったはずだ。僕だって、最初はすごくこわかった。それなのに、知らせに行ってくれたのか。僕を助けてくれと、頼みに行ってくれたのか。
黒羽さんは、笑う。少し寂しそうに見えたのは、気のせいかもしれない。
「市雄、おまえ、俺のパシリやめたの?」
僕は、ぶるぶると首を振る。
「やめてないけど」
そこで言葉に詰まってしまう。
「けど?」
黒羽さんに促され、僕は続ける。
「僕は、全然役に立たないから」
「いいじゃん、別に」
黒羽さんは言う。
「役に立つとか、立たないとかじゃないだろ」
「だって」
黒羽さんは、僕を助けてくれたのに、僕は黒羽さんに何もしてあげられない。
「役に立つとか立たないとかじゃないんだって」
黒羽さんはもう一度言った。
「市雄が困ってたら助けたいと思うのは俺の勝手だ。そういうもんだろ。そういうのでいいじゃん」
黒羽さんは笑う。
「く、黒羽さん!」
僕は黒羽さんに向かって叫ぶ。
「いま、困ったことはありませんか!」
「自分のことでは、別に困ってねーよ」
黒羽さんは僕を見て苦笑する。
「困ったことがあったら、言ってください!」
僕は、必死に叫んだ。
「僕は役に立たないかもしれないけど、でも、困ったことがあったら、言ってください!」
「うん」
小さくうなずて、黒羽さんは言う。
「帰ろうぜー、市雄」
雨で不明瞭な視界を手の甲で拭い、僕は忙しなくうなずく。
地球は、割れない。割れなくていい。そう思った。
了
ありがとうございました。