2) 婚約しました
わたしとレーヴェン様の出逢いは語るほどのものではない。ある日の朝、互いに寝起きドッキリをしただけだ。
発端は元夫がわたし達の家を宿代わりにして金を取っていたことから始まった。
お金を支払えば誰でも使えて、元夫の知り合いじゃなくても泊まれて、なんなら異性を連れ込んで一晩明かしてもいいとか騎士団に触れ回ったそうだ。
わたしには『大人の付き合いがあるんだから家に鍵をかけるな』、『貧相な子供のお前を襲う物好きなんかいねーよ。自意識過剰だ』と散々なことを言って家の鍵を奪われた。
お陰で騎士であるはずの我が家の防犯事情は最低ラインを越えていた。
その気安い宿屋と化した我が家にレーヴェン様が泊まることになったのはその日はたまたま上司にしこたま飲まされてしまい、ベロンベロンな姿で宿舎に帰るわけにもいかず酔い醒まし感覚で数人来たのだそうだ。
その中で一番爵位が高いレーヴェン様が一番綺麗に掃除してあるわたしの寝室で休むことになって、気づいたら寝ていたとのこと。
そこへ夜勤を終えたエルバが帰宅し、疲れ果てていたため電気もつけず客人が自分のベッドで寝ているとは知らずに同衾してしまったことを説明した。
その頃のわたしは家事をこなした後食事処で働き、夜は飲み屋で働いていた。正直いつ食事をとっていたのか覚えていないし、帰ると泥のように寝てしまうから着替えないまま、化粧したまま寝ていることもザラだった。
そんな疲労困憊のエルバと泥酔して寝てしまったレーヴェン様が気づかず寝こけてしまったのは仕方のない事故で、決して男女関係のような不埒な話は髪の毛一本もないです!と力強くお話した。
元夫にはこれを逆手に取られてこっち有責の離縁をさせられたけど奥様はきっと信じてくださるだろうと信じた。
わたし達の話を静かに聞いていた奥様はパチン、と扇子を閉じる。そして鋭くレーヴェン様を睨んだ。
「レーヴェン。なぜなかったことにしたのにエルバに不快な記憶を思い出させるようなことをしたのですか?」
奥様、不快って…。いやあれは事故なので。むしろ不快だったのはレーヴェン様の方で…はい。黙ってろと。わかりました。
「その、誰にも話さなければ問題ないと……そうすればエルバさんの名誉も保たれると思っていたのですが、その後エルバさんは浮気を理由に離縁させられたと聞きまして」
「もしや自分と同衾したことが原因で離縁させられたのかと思い、今更謝罪したということですか?」
「は、はい」
別に謝らなくてもいいのに。そもそも自宅を連れ込み宿みたいに触れ回っていた元夫が悪いんだし、あの日部屋に鍵をかけ忘れて出て行ったわたしも悪い。
元夫の不倫をやめさせることもできなかったし、わたしじゃ元夫を支えきれなくなっていた。
子爵令嬢に入れあげてから出費がかなり増えていたのだ。あのまま結婚生活を続けていたらわたしは体を売るか臓器を売るかしていただろう。
だからある意味丁度よかったのだ。わたしは元夫の呪縛から解放されて、あいつはお金も地位もある子爵令嬢と結婚できた。
貴族様だったらとんでもない傷になるかもしれないけど平民のわたしなら問題ない。
レーヴェン様がわたしのベッドで寝ていなくてもあの屑は何かしら非を見つけてわたしと離縁していたと思う。
だから正座のままそんな叱られた大型犬のような顔でしょんぼりしないでほしい。
「わかりました。ではレーヴェン、責任をとってエルバを娶りなさい」
「……え?…えええ?!」
驚いたエルバは思わず声をあげてしまった。
「こ、困ります!いえ、レーヴェン様が困ってしまいます!!」
「なにも困らないわ。だって離縁の切っ掛けになったのはレーヴェンなのでしょう?だったらきっちり責任を取らせるべきだわ」
いやいやいや!責任って言っても度が過ぎるでしょう!
「責任なんてとんでもない!わたしなら大丈夫です!あんな夫と離縁できて良かったと思っていますし今は奥様の下で働けているから十分です!離縁したからこそわたしは今幸せなんです!!」
というか、貴族様は名誉を大事にしてるんでしょう?伯爵家の跡継ぎがバツイチの平民を娶ったら問題になるって!せめて愛人でしょうよ!もっとまともな貴族令嬢と結婚するべきですって!!
それに好きでもない平民と結婚したらいくら優しいレーヴェン様だって態度変えるかもしれないし。きっと仮面夫婦まっしぐらですよ。
折角幸せなんですからこのまま使用人でいさせてください。
そんな気持ちを込めて訴えれば意を決したレーヴェン様がキリリとこちらを向いた。
「わかりました。エルバさんを妻として迎えましょう」
「あんたわたしの話聞いてた?!」
無駄にいい顔で言われてもまったく嬉しくないわ!!折角教わったマナーも被ってた猫も全部取っ払って叫んでしまった。
言った後に『やべ、』と思ったがレーヴェン様は真剣な顔で近づき、これまた見惚れるような仕草で片膝をついた。
あ、これ町一番のキザな商人が恋人にやってたやつだ。
「エルバさん。どうか私と結婚してください」
貴族は貴族と結婚して!
◇◇◇
とんでもないことになってしまった。
「嘘みたいだろ?わたし伯爵家の使用人になれたと思ったらその家の跡取りと婚約したんだぜ…」
口にして、現実に耐えきれず手で顔を覆った。誰か嘘だと言って!!
理解できない。わたし平民ですよ?!伯爵夫人なんて無理ですって!お貴族様の高尚なお遊びですか?!わたしやっぱり嫌われてますか?!
「だって、エルバばかり責められて相手にはなんの罪もないだなんて不公平じゃない」
プロポーズしてきたレーヴェン様には通じないと思ったので奥様に無理です勘弁してくださいと懇願したらそんなことを返された。
レーヴェン様と結婚すれば元夫に仕返しできるわよ、て奥様……。
それわたしにとっては諸刃ですし伯爵家にとっても旨味まったくありませんよね?そんなことのために跡取りを焚き付けないでください。
「だってレーヴェンにもちゃんと反省と謝罪をする機会を与えたかったのだもの。
マジコット家の後継者として女性を軽視することも謝罪ひとつできないのも許されることではないわ!」
後味が悪かったのは同意しますけど。個人的にはそのまま忘れてくれればよかったのに……レーヴェン様は真面目な方なんだな。
謝罪は受け取りましたしもう婚約者である必要ありませんよね?と訴えてみたが、奥様としてはその過程でお互い心を惹かれたら結婚を整えてもいいと仰っていた。
いやわたしバツイチの平民ですけど。そんな顔をしたら『あら、今時は爵位って買えるのよ?』と返された。その目は本気だった。
困って使用人仲間に相談したら、なんでかみんな応援体勢になっていてわたしがドン引きした。
待ってほしい。わたしバツイチ平民!見た目も残念でちんちくりんの子供体型です!並んだら見劣りしてレーヴェン様に恥をかかせるだけですって!
なのに淑女教育の教師の伝手はバッチリだ!万全の体制で望めるぞ!問題は何一つない!素材は悪くないから化粧でどうにかなる!だから心配するな!!と元気付けられた。
問題しかない。
まだ何も始まっていないのに外堀だけがどんどん埋まっていく感覚に内心冷や汗を流した。
◇◇◇
仕事一択の内、毎日数時間は淑女教育に充てられた。
貴族のマナーは正直窮屈だ。これもっと幼い時に習うべきものじゃない?
今更習ったところで身につくものなの??と思いながらも学んでいるが奥様からは良くも悪くもない評価を受けた。
すみません。やる気はあまりないです。平民がいいのです。結婚も重すぎます。特に伯爵夫人て辺りが。
勘弁して~と心で嘆きながら、品のいいワンピースを着て覚えたての淑女の礼を取った。あー決めポーズなのにプルプルする。
「やあエルバ」
「お帰りなさいませ、レーヴェン様」
今日はレーヴェン様とのお茶会だ。ここでもマナーチェックが入るので全然休めないお茶会だが仕方ない。
婚約者になってからというものレーヴェン様は格段に家に帰るようになった。これも奥様の策略だろうか?
「言葉遣いが戻ってるよ。今は私の婚約者なんだから」
甘い。声が甘過ぎる。
ぶるりと震えたがなんでもない顔でエスコートされ東屋にあるテーブル席に着いた。着席する時もレーヴェン様か椅子を引いてくれ至れり尽くせりで困ってしまう。
わたしはそんなことをしてもらえるような人間ではないのに。
「あの、レーヴェン様。どうかもうお許しください」
ティーセットが用意され使用人達が下がるとすかさずエルバが深々と頭を下げた。切羽詰まっている顔のエルバにレーヴェン様は『どうして?』と不思議そうに首を傾げた。
「身に余ること過ぎて色々もう、どうしたらいいのかわからなくなってきました。わたしには荷が重いです。なのでどうか」
貴族の使用人になって生地の種類や刺繍やレースひとつで値段が格段に違うことを知った。
今着ているワンピースの手触りの良さや色味の美しさ、わたしの体にピッタリの服を着たら女の子っぽく見えたり、食事内容も淑女教育も平民には身に余る金額が投資されているのだろう。
いくら婚約者に見合うためとはいえ動いてる額を考えると恐ろしい気持ちになる。目の前のティーセットだってお店でいただこうと思ったらわたしの給料分くらいにはなりそうだ。
間違いなく平民が使う一生分のお金をすでに消化しているだろう。これ以上増えたら返済ができない、と泣き言を言えばレーヴェン様に断られた。
「ダメだよ。ここでやめたらあなたはもっと自分を追い詰めてしまうだろう?だったら最後までやりきって母上達を驚かせるくらい素敵な女性になってもいいんじゃないか?」
「……わ、わたしなんかが、なれるのでしょうか……?」
貴族出の使用人よりも見劣りする平民のわたしが驚かせるほど変貌できるのだろうか。
不安を露にすればレーヴェン様が形も色も綺麗な口の前で人差し指を立てた。
「これからは『わたしなんか』は禁止だよ。エルバは私の婚約者なのだから自信を持っていい」
取りようによっては『わたしなんか』を選ぶレーヴェン様は見る目がない、という意味になってしまうのかと後から気づき口を閉じた。
これでは奥様のことまで貶していることになる。使用人としてあってはならない失礼な言葉だ。
いやでも婚約者はやはり……。
「それとも私が婚約者では嫌だろうか?」
悲しげに目を伏せ哀愁漂うレーヴェン様にギュン、と胸が締め付けられた。ものすっごい罪悪感だ。
まるでわたしとの婚約を好意的に考えていて、婚約者の立場を嫌がるエルバに傷ついてるみたいにしか見えない。
もしかしたら本当にそうなのかもしれない。
いや待って待って。相手は仕えるべきお貴族様。わたし平民。騎士爵の元夫ですら『平民と結婚なんかするんじゃなかった』ってぼやいていたんだ。
伯爵位がこんなバツイチ平民なんか相手にするわけ……。
「エルバ…」
待って。そんな潤んだ瞳で見つめないで。懇願するような目で訴えてこないで!あなた貴族でしょう?!平民に何をさせたいのよ!
逆立ちでも芸でもするからマジ勘弁して!!
混乱して自分が何を言っているのかわかっていないくらいレーヴェン様に見つめられたエルバは顔が真っ赤になった。
心臓が口から出そうなくらい大騒ぎしていて泣きそうだ。なにこれ。なにこれぇ……。
見つめられるだけで緊張することはあるが、向けられる視線に熱のような何かが含んでいて、それに充てられたみたいに顔や体が熱くなった。
頭が沸騰したみたいになってどう答えたらいいのかわからない。ここはひとつ、しっかり断って婚約者の役目をおりた方がいい。きっとそれが正解だ。なのに。
「…嫌じゃ……ありません」
熱に浮かされたわたしの口から出てきたのはか細く乙女みたいな声色で、考えていたこととはまったく別な言葉を返していた。
言いながらわたしにも乙女な部分があったのかと驚いたが、いや、そうじゃないと叱咤した。このままでは一生返せないような借金を背負ってしまう!
恥ずかしさのあまり下げた視線を戻すと目の前にいるはずのレーヴェン様がいなかった。あれ?と思ったがすぐ近くに気配を感じ横を見れば間近に美しいお顔があった。
「そう言ってくれて良かった。エルバに嫌われてしまったら私は生きていけないから」
「お、大袈裟です……」
大袈裟ですよ、本当に。何言っているんですか。
正気に戻ってください、と言ってやりたかったのに自分の手よりも一回り大きな骨張った手が治ってきてはいるけど荒れたわたしの手を握り、とんでもなく良いお顔で喜ぶものだから何も言えなかった。
あまりの神々しさにわたしの胸まで撃ち抜かれてしまったのだ。
◇◇◇
読んでいただきありがとうございます。