セレブ来たあああ!
月代探偵事務所に現れたのは白い高そうなワンピースを身にまとった上品なマダムと、おどおどと額の汗を何度もハンカチで拭く小柄で眼鏡をかけたスーツの男だった。二人は客用のソファに腰掛け、事務所の内装を居心地悪そうにじろじろと眺めている。
剣也がこんなときにと事務所の冷蔵庫に突っ込んでおいた市販の麦茶をコップに注いで差し出した。彼が座るのを待って、蘭丸が口を開く。
「私は当事務所の所長を務める月代蘭丸です。以後お見知りおきを」
事前に用意していた名刺を二人に差し出した。マダムは興味深そうに受け取った名刺をじっと見つめる。
「変わったお名前ですね」
「よく言われます。両親が織田信長の側近、森蘭丸好きだったことから名付けられました」
スーツの男も眼鏡をつまみながら名刺に反応する。
「あの、これはどうして手書きなのでしょうか?」
蘭丸の名刺は彼女が手書きで名前と電話番号、事務所名を書いて厚紙にコピーした簡素なものなのだ。
「それは……そっちの方が印象に残るかと思いまして」
「はあ」
本当は名刺をどこでどうやって作るのか知らなかったため自作しただけである。
訝られているのを無視して、蘭丸は隣の剣也を手のひらで示す。
「彼は暇なとき遊びにくる近所の大学生、浅倉剣也さん」
「どうもです。個人情報は漏らしたりしないのでご安心ください」
その紹介には何かしらつっこみたそうだったが、蘭丸が目で自己紹介を促したので、依頼人の二人は身を正した。先にマダムが名乗る。
「私は芹澤喜美子。この市に会社を構える株式会社SERIZAWA COMPUTERの社長、芹澤正久の妻です」
蘭丸の鋭い目が歓喜によって大きく見開かれた。彼女が心の中で「セレブ来たあああああ!」と叫んだことを剣也は見抜いている。
SERIZAWA COMPUTERとは、今や日本では知らぬものはいない世界的な電子機器メーカーだ。パソコンや携帯電話を日本へ普及させた立役者として知られている。国内でも早い段階からパソコンや携帯電話を製造に取りかかっており、技術力の高さや熱心など普及活動により、たった三十年であれよあれよという間に大企業に上り詰めた恐るべき会社である。
続いて、スーツの男が口を開いた。
「えっと、自分は正久社長の秘書を務める真田吉郎と申します」
真田は名刺を二枚取り出すと蘭丸と剣也へ丁寧に手渡す。その態度に二人は思わず恐縮した。
「して、今日はいかなる事情で当事務所に?」
蘭丸は心持ち身を乗り出して尋ねた。剣也は冷めた目で隣の探偵を一瞥する。
(あんた当事務所なんて普段言わねえだろ)
彼女が無駄に格好つけているのは明白である。
蘭丸の問いで、途端に涙目になった喜美子がハンカチを取り出して目に押し当てた。しゃがれたような小声で答える。
「バジリスクが……いなくなってしまったのです」
「バジ……?」
「リスク……?」
蘭丸と剣也の表情が何のこっちゃと言いたげになる。二人が言う前に、
「ペットのことです」
真田が捕捉してくれた。喜美子は小さなハンドバッグから一枚の写真を取り出すとテーブルに乗せ、二人の方へ寄せる。
「バジリスクです。男の子で、これは一年前……一才のときの写真ですが、姿はあまり変わってないかと」
蘭丸が写真を手に取ると、剣也も剣也も覗き見た。写っていたのは黒い物体……ではなく、可愛らしい黒猫だった。脚を畳んでソファに寝転がり、顔をこちらへ向けている。両耳が折れており、一般的な猫と比べて顔が丸いのが特徴的だ。
「猫、すか……バジリスクなんて名前だから、ニシキヘビか何かかと思いました」
剣也がほっとしたように呟いた。バジリスクとは、蛇の王とされる伝説上の生き物のことなのだ。
「姪が名付けたんです。小さな王という意味もあるらしくて……」
「スコティッシュフォールドですか?」
蘭丸が尋ねると、喜美子は泣き顔のままこくりと頷いた。剣也が感心する。
「蘭丸さんって猫に詳しいんすね」
「探偵業を初めてから犬種や猫種についてはそこそこ勉強しましたからね。まあスコティッシュフォールドくらい、有名なので勉強せずとも知ってましたけど。逆に浅倉さんは知らないんですか?」
「名前は聞いたことありますけど、俺はどっちかというと犬派なんで……」
蘭丸は写真のバジリスクの顔を指差す。
「耳が折れて顔が丸になっている猫と憶えておいてください。たまに折れていない個体もいますけどね。人気の猫種ランキングでは不動の一位。お値段も庶民にはあまり手が出ません」
「へぇ」
「それで、このバジリスクが迷子になってしまったということで、いいんですね」
喜美子は力なく頷いた。
「外に出していたんですか?」
「いいえ。あまり外へ出たがらない子だったので、普段は庭にも出しません」
「それなのに、どうしてバジリスクは迷子に?」
喜美子が曖昧な表情を浮かべる。
「わからないんです。朝起きたら庭と繋がっているリビングのガラスドアが少し開いていて、バジリスクの姿が見えなくなっていました。家政婦さんたちと家や庭をくまなく探しても見つからなくて……。庭から外へ出てしまったのかもしれないんです」
「なるほど。それで当事務所を頼ったというわけですか」
蘭丸はめったに見せないにっこり笑顔を浮かべた。しかし、
「いいえ。いくつか大手の探偵事務所に連絡をしたのですが、今時どこも迷子のペット探しは請け負っていなくて。姪に、仕事を選ぶ余裕もなさそうな零細探偵事務所を勧められました。それが、何とかサーチというサイトで明らかにサクラと身内にしか評価されていないこの事務所だったのです」
剣也は吹き出すのをどうにか堪えた。一方の蘭丸はどうにかにっこり顔を保ったまま引きつった笑みを浮かべ、眉をピクピクと動かしている。真田は申しわけなさそうにハラハラしていた。
蘭丸は憤慨するのをどうにか我慢し、
「えーと……最後にバジリスクを見たのは何時だったのですか?」
「昨夜の寝る前だから、午後の十時だわ。バジリスクはいつもリビングで寝ているの」
「そのとき開いていたガラスドアは?」
「閉まっていたはずです。ただ、鍵の方はどうだったかしら……」
「不用心すね」
剣也が心配そうに口を挟んだ。喜美子は目を伏せる。
「外のセキュリティが万全だから、少し気を抜いてしまっているの。それに、そういうのは夫がやっていたから……」
蘭丸は顎に手を添える。
「猫は賢いですからね。人の真似をして扉を開けることも珍しくありません。鍵が開いていたため外へ出れてしまったのか……。わかりました。その依頼、この月代蘭丸が請け負いましょう!」
「まあ! 本当ですか?」
「ええ。必ずやバジリスクを見つけてみせましょう。……それはそれとして、前金を頂きたいのですが」
「お何円かしら?」
喜美子はきょとんと返した。
「現金で、そうですね……」
蘭丸の頭が高速で回転する。一体どこまでなら気持ちよく支払ってくれるか。そのギリギリのラインを見定めているのだ。彼女の脳裏にスコティッシュフォールドの価格相場が羅列されていく。
(安くても十万、高くて五十万、とびきり高くて百万以上。お金持ちなら十万はない。彼ら彼女らは品物でもペットでも、値段の高いものこそが至高だと考えているから。かといって、この猫が五十万、百万もするだろうか。黒猫は珍しい印象はあるけど、逆に言えば変わった模様も何もない。……ここは!)
考えていることは剣也には筒抜けてあるため、彼の冷ややかな目線を浴びながら蘭丸はゆっくりと口を開く。
「そうですね、四十万円。依頼の期限は一週間で、それまでにバジリスクが発見されなかった場合、半額返還します。発見された場合、解決料金を別途請求しますね」
以前蘭丸が調べた際にはスコティッシュフォールドの相場価格は二十万円前後だった。そこに黒猫補正とセレブ補正を上乗せしつつ、猫の買値より低めの金額を設定を行った。あまりにも卑しすぎて剣也は顔をしかめてしまう。
(世間知らずそうなマダム相手に強気の金額突きつけてんじゃねえよ)
前金を半額返しても、普段の報酬金より多くなるのである。相手が引き受けてくれさえすれば得でしかない。
喜美子はハンカチで涙を拭き取ると、丁寧に頭を下げた。
「バジリスクを、よろしくお願いします」
そしてハンドバッグから分厚い封筒を取り出す。真田が反射的に彼女の手を押さえた。慌てた様子で訴える。
「ちょっ、駄目ですよ奥様! 明らかにぼったくられてますって! 人の身辺調査ならまだしも、迷子の猫探しでこれは怪しすぎますって!」
どうやら彼はまともな人間だったようだ。剣也はほっと息を吐き、蘭丸は聞こえないように舌打ちをする。
「こうなるから探偵に頼るのは反対したじゃありませんか。帰りましょう。ね?」
説得を試みる真田だったが、喜美子は鬼の形相で目を剥いた。
「何を言っているの! 家族の行方を知るのに! 金に糸目をつけろというの!?」
「い、いえ、そういうわけではなく……」
「だったらお黙り真田!」
「はい。すみません」
しゅんとする真田に対して剣也は同情的な視線を向けた。蘭丸は心の中で小さくガッツポーズをする。
喜美子が分厚い封筒から札束を取り出した。目を見開く蘭丸たちを無視して、そこから一万円札を四十枚、蘭丸へ手渡した。
自分で提示した大金の出現に蘭丸はバグる。
「お、おおおお、おおおおお。絶対バジリスク捕まえちゃいますぞー!」
大金片手に元気良く右手を天に突き上げるアラサー女探偵の姿に、剣也はどん引きしてしまう。歓喜に打ち振るえて使い物にならなくなった彼女に変わって尋ねる。
「えっと奥様――じゃなくて喜美子さんのお宅はどの辺りですか」
「赤野木町です。たぶん地元の方に聞けばすぐに教えてくれますよ。何ならこの後、自宅まで案内いたしますが……」
剣也は両手で四十万円を握り締めて、今にも天へ昇っていってしまいそうな蘭丸を肘で小突いた。彼女ははっと我に返り、こほんと無意味に体面を取り繕うような咳払いをした。
「失礼。少々取り乱してしまいました。この写真ではバジリスクは首輪をしていないようですが、昨夜もしていなかったのですか?」
「ええ。外へは出さないし、バジリスク自身も首輪を嫌がっていたようなので」
流石にスコティッシュフォールドならば野良猫扱いされて保健所に捕まったりはしないだろうが、何しろ高価で可愛らしい猫だ。密かに捕まえて飼い始める人間が現れないとも限らない。早急に芹澤家の近所へ聞き込みをしたいところである。
「では、自宅へ案内してもらっても――」
「あ、少し待ってください」
その提案をする前に喜美子が手で制してきた。ハンドバッグから陽気なメロディが鳴っている。彼女はその音源であるスマートフォンを取り出す。画面を見て小首を傾げた。
「あら?」
「どうかされました?」
真田がハンカチを頬に押し当てたながら尋ねた。
「誰かしら。非通知だわ」
「一応出てみては? お知り合いが外からかけているのかもしれませんし」
「言われなくても出るわ」
真田に対して妙に当たりの強い喜美子は画面をタップして耳へ当てる。
「もしもし。……え? ちょっ、どういう――!」
唐突に青ざめる喜美子に、蘭丸と剣也は不思議そうに顔を見合わせた。何か只ならぬことが起こっていると察した蘭丸が、失敬とばかりに頭を下げて喜美子からスマートフォンを取り上げてスピーカーをオンにした。端末から響くのは、ボイスチェンジャーを通したようなくぐもった声だった。
『猫を返してほしかったら、そうだな……現金で五十万用意しろ。どうせ買値とほぼ同じくらいだろう? わけなく払えるよな?』
蘭丸も剣也も、そしておそらく真田も、何となく状況を理解した。
「あなたは何者なの!? バジリスクを返――」
『旦那さんや警察にも、このまま何も言わないことだ。向こうも迷惑だろうからな』
「バジリスクの声を――」
『金の受け渡し方法は後々連絡する。猫の身を案じるなら、くれぐれも言う通りにすることだ。約束を破ったら猫は返ってないと思え。こっちもたかだか猫一匹のせいで警察の厄介になるのは御免なんでな』
会話が終わりに向かっているのを全員が察知した。まとも喋らせてもらえていない喜美子が大声を上げる。
「待ちなさい! せめてバジリスクの声を――!」
『家政婦どもにもしっかり口止めしておくことだ。猫の命が惜しければな』
通話が無慈悲に切れた。四人は呆然とスマートフォンに目を落としている。
猫の身の代金を要求してくるものが現れた。これが意味することはつまり……。
「相手の第一声は、何でしたか?」
剣也が慎重な声音で尋ねると、喜美子は呆然と答える。
「お宅の猫は預かった、って……」
蘭丸はソファの背もたれに身体を預けた。神妙な面持ちで呟く。
「……どうやら、猫のことについて、もっと詳しくお話を訊く必要が出てきたようですね」