超絶地雷男女
朝七時。芹澤喜美子はベッドにてゆっくりと目を覚ました。窓から射し込む美しい朝日、外から聞こえる可愛らしい小鳥の囀り、まさに気持ちの良い朝である。隣を見ると、夫の正久の姿は既になかった。
「そういえば、海外出張で六時には出るって言っていたわね」
喜美子は呆れたように呟いた。結婚して三十年。あのときは小さな工場だった正久の会社も、今では国内にいくつもの支部を持つ大企業に育っている。世間では敏腕社長だともてはやされ、会社は右肩上がりで成長し続けているが、家庭内の方は随分前から停滞してしまっていた。
理由ははっきりしている。二十年前、九歳だった最愛の息子を病で亡くしたからだ。あのときから喜美子の時間は停止し、正久は会社を育て上げることに心血を注ぐようになった。息子を失った孤独を埋めてほしかった喜美子からしたらそれは寂しい時間だったが、正久も正久で悲しみを少しでも忘れるためだったのを彼女は理解している。
息子を亡くして以来、ずっと心が晴れなかった。正久と話していてもどこか気まずさを感じる日々だった。向こうは気遣って色々と手を回してくれているが、こちらが歩み寄ることができない。停滞の理由が自分にあったことは明白だった。……しかし、今は違う。あの子と出会っておかげで、世界が再びカラフルに彩られたのだ。
喜美子はパジャマから着替えると、軽く化粧をして部屋を出た。階段を下りてリビングに入ると、家政婦の松野みどりがキッチンにて鼻歌を奏でながら朝食を作っていた。
「おはよう、みどりちゃん」
「あ、おはようございます喜美子さん。もう少しでできますので、少々お待ちください」
みどりはポニーテールを揺らしながら笑みを返してきた。顔立ちも整っており、笑顔も可愛らしい。まだ二十歳という若さでありながら、非常にしっかりしているできた女の子だ。彼女は学費の都合で専門学校を諦めて弟に大学入学を譲り、芹澤家にて家政婦として働いている。学生ならば眩しい青春を過ごせていたはずなのに、こんな何の出会いもない家で働いてもらっていることに申しわけなさを感じてしまう。正久には何度か学費を工面してやれないか相談しており、彼もみどりの働きは知っているので存外乗り気であった。
少し前の喜美子ならば、赤の他人に対してここまで肩入れすることもなかったが、今は違うのだ。そう……あの子に会ったから。
喜美子は顔をほころばせながらリビングを見回す。が、すぐに首を捻った。いつも、この時間には柔らかなソファの上で寛いでいるはずの彼の姿が見当たらないのだ。
「ねぇ、みどりちゃん。バジリスクは知らない?」
味噌汁の味見をしていたみどりはキッチンから背伸びをしてリビングを覗く。
「あれ? そういえばバジ様いませんね。そういえば今日はお邪魔してから見てないかも……」
「変ねぇ。どこいったのかしら……あら?」
喜美子はあることに気づく。庭へ繋がるガラスドアが三十センチほど開いていたのだ。
「みどりちゃん、ここ開けた?」
「いいえ。私は触ってないです。……すみません。開いていたの気づきませんでした」
角度的に、扉からキッチンへ直行したならば見にくい位置だ。仕方ないことだろう。
喜美子は庭へ出るとバジリスクの名を何度か呼んだ。しかし、姿は見えない。嫌な予感がした。
彼女の大きな声を聞きつけてか、リビングにメイド服を着た若くクールな雰囲気の女性と執事服を着た初老の男性が現れる。みどりと違って、住み込みで働いてくれている二人だ。
「どうかされましたか?」
初老の男性、桜木春夫が声をかけた。彼は様々な名家で活躍してきたらしい伝説の家政夫である。
「バジリスクがいないの。起きたら、このドアが開いていて……。何か知らない?」
「申しわけございません。私は何も……。上杉さんは?」
榎本が隣のメイド服の女性、上杉恋に尋ねた。
上杉は無表情のまま小首を傾げる。
「さあ。私も何も見ていませんから」
彼女は住み込みの家政婦であるが、正久の姪にあたる人物だ。大学卒業後、働きもせず家でダラダラしていたところ、父親――正久の弟――に激怒され、この家の家事手伝いとして放り込まれてきた。コスプレが趣味なようで、頼んでもないのにいつもメイド服を着ている。
喜美子は不安げな表情で再び庭を見渡す。愛しいあの子の姿はどこにもなかった。
◇◆◇
「イン・ス、ピ、レ、エ、ショ、ン♪ インスピレイショーン♪ インスピレーション、ションションション♪ イン、イーン、スピ、スピー、レーーーー、ショーーーン♪」
「何すかその歌」
事務机で謎の歌を歌っていた蘭丸に、レポートを作成していた剣也が鬱陶しげにつっこんだ。
村根ビルは三階。月代探偵事務所には、今日も依頼人の姿は見られない。時刻は午前十時。いつもならこの時間には寝起き状態の蘭丸が、珍しくしゃきっとしていたことに感動した剣也を待っていたのは、謎の呪文を唱える女探偵の姿だったのだ。
蘭丸は悪びれた様子も見せず、手にする黒いペンをくるくると弄ぶ。
「良いインスピレーションを降ろすための歌ですよ。締め切りまであと一週間しかないんですが、なかなか構図が思い浮かばなくて」
見れば彼女はペンタブと向き合っていた。剣也が思い出したかのように呟く。
「あー、有名作家の新作小説の表紙イラストでしたっけ? 凄いっすよね」
月代蘭丸は個人の探偵事務所を構える立派――かどうかは諸説あるが――な探偵である。しかし、探偵業だけではこの事務所の安い家賃を支払うので精一杯であり、生活費や趣味などに使える費用は少ない。故に彼女は事務所立ち上げ当初から、イラストレーターとして活動をしていた。こちらはそれなりに評判で、探偵業よりかはずっと儲かっている。ちなみにペンネームはLANMARUだ。
「もうイラストレーター専業になった方がいいんじゃないすか?」
「イラストレーターだってそこまで儲かるものでもないんですよ。そりゃ私の探偵稼業よりかは上ですが。どっちか一つに絞ったら、ここの家賃を払うので手一杯になってしまいます」
彼女はこの事務所を自宅としても使っているのである。
「事務所引き払って実家に帰ればいいじゃないすか」
蘭丸は露骨に顔をしかめた。
「嫌ですよ。帰ったら両親に『結婚しろ』と連呼されるのが目に見えてます。ただでさえ弟の結婚式で言われたばかりなのに……。しかも地元には二児の母と化した高校時代の同級生が二人も待ち構えているんです。死にたくなりますよ。あー嫌だ嫌だ」
その愚痴を受けた剣也もゆっくりと腕を組んだ。高校の同級生が二児の母……。確かにインパクトのある響きである。二十歳の彼がそれなのだから、年上の独身女性にあたる蘭丸の精神的ダメージは計り知れないだろう。
(そういや、この人何歳だっけ?)
初めて蘭丸が出会ったのは、四年前、彼が高校一年生のときだった。そのとき身分証として見せられた免許証に書かれた生年月日は確か――
「今、私の年齢を思い出してますよね?」
蘭丸が恨めしげに睨みながらつっこんだ。ぎくり、という擬音が剣也の全身から発せられる。
「どうせ私は結婚して二児の母になっていてもおかしくない年齢ですよ。悪かったですね」
拗ねたように吐き捨てる蘭丸に剣也は笑顔でフォローする。
「い、いや、まだ二十代じゃないすか。ふてくされることないでしょう」
「アラサーに両足突っ込んでますけどね。仕方ないじゃないですか。親の勧めで何度かお見合いとかもしましたけど、最初は皆さん鼻の下を伸ばすくせに、話しているうちにどんどんしかめっ面になっていき、最終的には面倒事から逃げるように去っていくのですから」
「いや、気持ちはわからなくはないっすけどね。蘭丸さんの性格を考えれば……」
「何なんですか。男性って、顔さえよければ誰でもいいんじゃないんですか?」
「まあ、そういう奴もいるでしょうけど、そういう奴らも度を超して面倒くさい女性は嫌だと思いますよ」
「人を超絶地雷女みたく言わないでください」
「そこまでは言ってないす。ただ、どんな話したのかは気になりますね」
「別に普通の話ですよ。付き合うにあたっての条件や約束事を補足つきで、一から五十まで逐一説明しただけです。いわば家庭内条約ですね」
「うわ面倒くせえ。んでもってその内容も面倒くせえのが想像できる。普段テキトーなのにどうしてそんな……」
蘭丸はややムキになる。
「何でですか。冷静に考えてみれば当然のことでしょう。赤の他人と一緒に暮らすことになるんですよ? 関わっていいこと、いけないこと、お互いの不可侵領域を明確化させておかないと、後々喧嘩や諍いの元になりますから」
言っていることは尤もな気はするが……、
「あの、お互いのってのは? まさか相手にも家庭内条約を尋ねたんですか?」
「当たり前じゃないですか」
「うわ面倒くせえ」
「だから何でですか! 私だけルールを押し付けるのは対等じゃありません。お互いに条約を定め、侵してはいけないラインには踏み込まないルールを設けて初めて、建設的な家庭は生まれるのです」
「結婚を別民族同士の協定か何かと勘違いしてせん?」
「良いこと言いますね浅倉さん。似たようなものだと思いますよ」
剣也は蘭丸のドライな物言い呆れたようなため息を吐いた。
「そういうルールや条約を取っ払った先に結婚があるんだと思うんすけどね」
蘭丸は未熟者を嘲笑うかのようにふっと鼻を鳴らす。
「それは君、結婚を美化しすぎですよ。私は既婚者の友人たちから散々結婚についての愚痴――という名の惚気――を聞いているのです。私の考えに間違いはありませんよ」
謎に自信満々の彼女に剣也は苦笑した。
「そうっすか……。まあ、俺が大学卒業するまで我慢してください」
「何をですか?」
「いや、結婚すよ」
「はい?」
「え、蘭丸さん、俺と結婚したいんじゃないんすか?」
今度は蘭丸が困惑する番だった。
「一体いつからそういう話になったのかわからないのですが……」
「結婚云々の話題を出したのって、俺と結婚したいアピールじゃないんですか?」
「違いますよ! 急に怖いんですけど! 深読みしすぎです!」
「俺は面倒くさい蘭丸さんでも全然オーケーなのに」
「浅倉さんは年上の女性なら誰でもいいだけでしょう」
説明しよう。浅倉剣也は妹たちが嫌いすぎて生粋の年上好きと化してしまっているのだ。
剣也は心外そうに眉をひそめる。
「確かに高校時代は誰でもよかったすけど、最近はそうでもないんすよ。今は蘭丸さんみたいなえぐみのある人物がトレンドなんす」
「人をさらっと罵倒しないでください」
蘭丸は顔をしかめた。先ほどからさらっとどころではないほど罵倒は行われていたが。
彼女は会話終了とばかりにペンタブに向き直った。剣也もそれに釣られてパソコンのキーボードに手を添える。すると、事務所内にけたたましい電子音が鳴り響いた。
蘭丸がびくりと肩を震わせ顔を上げた。
「な、何?」
「電話でしょ」
事務机に置かれた白い電話が大きな音を発していた。久しぶりに耳にした電話の呼び出し音に蘭丸はきょとんと首を傾げる。
「はて、誰からでしょうか? ここ最近は水道代も電気代もガス代もちゃんと払ってるのに。しょうもない勧誘かな」
「依頼人とは考えないんすか?」
「その発想はありませんでした」
蘭丸はこほんと喉の調子を整え、受話器を取った。
「もしもし。こちら、月代たんてん……探偵事務所です。……えっと、あ、そうだ。何かお困りごとでしょうか?」
剣也が苦笑する。蘭丸が噛んだ上に電話での決まり文句を忘れていたからだ。
『お宅の事務所に依頼があるの。よろしいかしら?』
受話器から聞こえてきたのは中年女性と思しき人物の声だ。依頼、という言葉に蘭丸は焦る。気持ちの準備ができていない。
「え、あ、依頼ですか? 滅相もございません。私なんかの事務所に……あれ? 日本語変ですかね。ありがとうございます私如きの事務所に……?」
剣也は「落ち着け」と口パクで訴えた。蘭丸はこくりと頷き、
「えっと……依頼の内容を伺いたいので、一度、事務所へお越し頂くことはできますでしょうか?」
『ええ。既に今、お宅の事務所が入っているビルにいますの』
「え、もういらっしゃってるんですか?」
剣也が立ち上がってブラインドの隙間から下を覗いた。
「本当だ。ブランド物っぽい服を着たお金持ちそうなマダムと、スーツを着た小柄の中年男性がいます」
蘭丸が受話器を口から離して「お金持ちそうなマダム……?」と小さく呟いた。次の瞬間には目の色を変える。
「どうぞお上がりください。当事務所は三階です。階段が老巧化していて危ないので、是非とも慎重にお願いします」
受話器を戻した。ふふふ、と蘭丸は怪しい笑みを浮かべている。
「金持ち相手……。くっくっく。さあて、何円ふんだくってやりましょうか」
彼女に探偵としての高い能力があることを、剣也は知っている。しかしそれはそれとして、今の蘭丸は詐欺師にしか見えなかった。