帰ってきたバジリスク【解決編1】
喜美子が事務所を訪ねてから八日が経った。暦も七月から八月へ移行し、ただでさえ暑かった日々がより過酷なものになっていくのを、蘭丸はここ数日の気温上昇から肌で感じ取っていた。尤も、月代探偵事務所では夏場中クーラーをフル稼働させるためあまり関係ないが。
「終わったあ……!」
集中した面持ちでペンタブと向き合っていた蘭丸が達成感を露わに伸びをした。滞っていた小説の表紙イラストが完成したのである。作家側も相当苦心しているようで、タイトルとあらすじ以外を何も知らないふわっとした状態で表紙イラストを描くことになり、締め切りいっぱいまで使った挙げ句、絵からもふわっと感が出てしまっている。
(発売まであと二月くらいだけど……絶対延期されるな)
よく表紙イラストを担当した作品が発売延期になる蘭丸には、既に未来が見えていた。ネット上では「このイラストレーターが遅筆なんじゃないか」と言われているが、いつも締め切りギリギリではあるが破ったことなど一度もないと、蘭丸は声を大にして言いたかった。
蘭丸は立ち上がって冷蔵庫からコーラを取り出すと、一仕事終えた自分を労って二リットルサイズをラッパ飲みする。一仕事終えずとも、いつもやっていることだが。
「お仕事終わりましたよね、蘭丸さん。バジリスクの件、どういうことか説明してくださいよ」
夏休みに入って余裕綽々の剣也がスマートフォンから顔を上げて言った。
蘭丸はペットボトルのキャップを閉めつつ、
「昨日、喜美子さんから十時過ぎに事務所にくると連絡がありました。そろそろきますので、そのときまとめてお話ししますよ」
事務所の扉がノックされた。
「あ、噂をすればですね。どうぞ、お入りください」
「失礼します」
喜美子が一週間前と同じ格好で現れた。しかし、表情だけは異なり、非常に晴れやかなものになっている。
「おかけください喜美子さん。バジリスク、戻ってきたようで何よりです」
「え!?」
初耳の情報に剣也が大きな声を発した。
「本当に戻ってきたんすか!?」
「ええ。昨日の夕方、庭にいたのを恋が見つけました」
「蘭丸さんの言った通りじゃないすか……」
「そりゃあ、わかった上でそう助言しましたから」
蘭丸がソファに座る剣也の隣に腰掛けた。
喜美子は深々と頭を下げる。
「ありがとうございました。お世話になりました」
「いえいえ。とんでもありません。私にかかればちょちょいのちょいです」
「どうしてバジリスクが帰ってくるとわかったのですか?」
「全ての謎が解ったからです。その答えが教えてくれました」
「やっぱり犯人がわかってたんすね。誰なんすか?」
剣也がやや食い気味に尋ねた。蘭丸は鬱陶しげ彼から顔を遠ざけ、
「私にはいくつか考えていることがありました。そのうちの大部分が、家政婦の中に犯人がいるというものです。可能性一つ目でも言及しましたが、外部犯と考えるには無理がありますからね。この場合、最も怪しいのは桜木さんだと睨んでいました」
「まあ、動機が薄い女性陣と違って謎めく人物像してましたからね」
剣也が納得したように頷いた。
「しかし、二回目にかかってきた脅迫電話にて、彼の疑惑も薄れてしまったのです。だってそうですよね。いくらガラスドアを開けて外部犯の可能性を増やしても、家政婦は容疑者筆頭です。桜木さんが犯人ならば、そんな状態で金の受け渡し場所にスポーツジムの男子更衣室を指定するのはリスクが大きすぎます」
剣也がはっと顔を上げた。
「家政婦の中に男は桜木さん一人しかいないから、それじゃあ自分を疑えと言っているようなものか。わざわざそんなところを指定しなくても、駅のコインロッカーとか、誰でも使える場所を指定すればいい」
「そういうことですね。それがわかったことで、ようやくもう一つの推理に確信が持てました。犯人がバジリスクを攫い、脅迫電話をかけたと考えるから不自然な点が生まれるのです。犯人がバジリスクがいなくなったことにあやかって脅迫電話をかけたと考えれば、見えてくるものがあります」
剣也と喜美子は目を見開いた。
「つまり、誘拐犯と脅迫犯は別々ってことっすか?」
「はい」
「誘拐犯が金銭を要求したのではないとすれば、動機のなかった女性陣たちも怪しくなってくるのか……」
「あー……まあ、そんな感じです」
蘭丸はここへきて説明が面倒くさくなってきたのか、奇妙な唸り声を発する。ここまできたら剣也にも時間をかければ事件の全容を推測できそうではあるが、期待の眼差しを向ける喜美子がいるためそうはいかない。
「誘拐犯の方を見ていても事件は何もわかりません。考えるべきは脅迫犯の方です」
「脅迫犯は金銭目当てかつ、バジリスクがいなくなったことや、社長さんの出張を知っていた人物。あれ? それって結局は家政婦さんたちが容疑者ってことじゃ……。でも、女性陣は動機がないし、桜木さんは不合理だって。もちろん社長さんにも金銭的な動機はない。他には誰も……」
「いますよ。いいですか? 犯人はバジリスクを攫う必要は一切ないんです。つまり内部の人間でなくても構いません。バジリスクがいなくなったことと、社長さんが出張中であることを知っていて、金銭を要求する動機がないわけではない人……一人いますよね?」
「あ、それって……!」
剣也は察したようだが、喜美子はまだピンときていないようだ。蘭丸は話を変える。
「犯人はどうやって五十万円を回収するつもりだったんでしょうか?」
「それは……自分で取りにいくか、誰かに取りにいかせるか、かしら?」
「そうですね。ぱっと思いつくのはその辺りですが、それはリスクが大きすぎます。もし誰かに見張られていたらアウト。運んだ人間が機転を利かせて何かしらのカウンターを仕掛けていてもアウト。現金の受け渡しは誘拐犯が最も知恵を絞るポイントです。犯人は知恵を絞った結果、最適だと判断したからあの受け渡し方法にしたのです。では、あの受け渡し方法で最も簡単に金を回収する方法は何か? それは、容疑者の範囲外にいながら金を運ぶ役目を仰せつかることです」
喜美子が目を見開いた。
「受け渡し場所に男子更衣室を指定し、全て一人でこなすように指示をすれば、女性に現金を運ばせることを封じれます。喜美子さんがこの事務所にこなかった場合、周囲にいる男性は二人しかいません。桜木さんと真田さんです。犯人が時間的には車でないと厳しい条件を突きつけている以上、喜美子さんは車を運転できる男性を運び人に指定するでしょう。つまり犯人は……」
喜美子は苦々しい顔つきで絞り出すように、
「さぁなあだぁ!」
と怒りの声を発した。
バジリスクがいなくなっていることを知った真田は、喜美子に脅迫電話をかけて現金を運ぶ役目が自らに回ってくる条件を提示する。そして現金を預って、ヘラクレスジムなぞには向かわずそのまま自分の口座に叩き込んでおけばいいという寸法だ。
「ん? ちょっと待って」
般若の形相になりかけていた喜美子が我に返る。
「真田には無理よ。だって電話がかかってきたとき、二回とも私たちの目の前にいたじゃない」
「言われてみれば、確かに。密かにスマホを操作していた感じもしませんでしたけど……」
喜美子と剣也は探偵に顔を向け話の続きを求める。蘭丸は右手の人差し指、中指、薬指を折り畳み、電話の形を作った。
「そんなことは問題にもなりません。オートコールを使えばいいだけです」
「オートコール?」
聞き馴染みのない言葉に剣也は首を傾げる。
「ほら、たまにかかってくるじゃないですか。機械の音声が勧誘したりアンケートを取ってくる電話。あれです。設定した番号にあらかじめ録音した音声の電話をかけることができます。それを利用して飛ばし携帯……は、流石にないと思うので、会社かホテルの電話からかけたんでしょう。あの脅迫電話、いくら主導権を握っているからと言っても、レスポンスが身勝手すぎますし、話が噛み合っていませんでしたからね。一方的にもほどがあった」
「そういや、喜美子さんの言葉も全部無視してましたもんね。事前に仕込んだ音声なら当然か。けど、真田さんにも金銭的な動機ってあるんですかね。大企業に古くから勤める社長秘書でしょ? 金には困らないんじゃ……」
「お金には困ってないでしょうね」
蘭丸はきっぱりと言った。
「しかし、それとこれとは別というものがあります。社長から留守中、社長婦人のお守りを命じられたら、誰だってキレます。それこそ、特別に報酬が欲しいと思っても無理ない話です」
剣也は一週間前の、喜美子から雑に扱われる真田の姿を思い返す。そりゃボーナスくらい寄越せと言いたくもなるだろう。
「……となると、誘拐犯の方はどうなるんですか?」
「それを紐解く鍵は、やはり真田さんにあります。彼は喜美子さんからの連絡でバジリスクの失踪を知ったことになっていますが、それはおかしい。直前に音声を録音するのは、まあ可能としても、すぐにバジリスクが見つかる可能性もあるのに誘拐犯は気取れません」
真田に連絡がいった時点では、ガラスドアにはずっと鍵がかかっていたという情報はなかった。バジリスクが家の中に隠れている可能性も、外へ自主的に出ていった可能性も十分に考えられた。そして、案外呆気なく発見される可能性も。そんな状況で脅迫電話を録音してオートコールの登録をしておくことなどしないだろう。バジリスクが発見されてからそんな電話がかかってきたら、それは酷く間抜けに聞こえたはずだ。もちろん金など手に入らず、バジリスクが喜美子の手にある以上、脅しも通用しない。迷わず警察に通報されてしまう。
「つまり、真田さんは初めから知っていたんです。あの日、バジリスクが長時間芹澤家から姿を消すことを。何故知っていたのか? あらかじめ犯人に教えてもらっていたからです。しかし現在の芹澤家をまったく訪れていない真田さんに、家政婦さんと連絡を取り合う術があったとは思えません。脅迫電話は家政婦さんたちに対してマイナスにしかなっていないので、利害関係も成立しない」
誘拐犯には真田と協力するメリットがない。女性陣は金銭的なメリットは必要としておらず、桜木は金の受け渡し場所から考えて脅迫犯のスケープゴートにされたことは明白だ。ただでさえ内部犯が怪しまれる猫攫いに、悪意を決定付ける脅迫電話などかけようものなら、誘拐犯としてはたまったものではない。
脅迫電話は誘拐犯にしてみれば、あくまでもイレギュラーな出来事だったのだ。
「暴走した喜美子さんがこの事務所にこなければ、脅迫電話は家政婦さんたちにも伝わっていたことでしょう。しかしそんなイレギュラーな事態を、仮に家政婦さんたちの中に誘拐犯がきたのなら見過ごすとも思えません。即刻咎められるに違いない。けれど犯人は実行に移した。誘拐犯にはそんな横やりを入れることなどできやしないと、確信していたからです」
「まさか……」
剣也が呆然と呟き、喜美子も言葉こそ発さないものの流石に誰が誘拐犯なのか察しがついているようだった。
蘭丸はこくりと頷いた。
「その通りです。犯人は、芹澤正久。社長さんです」