月代探偵事務所
東京は音白市、南見良町は建物の大半が住宅であり、商業施設が少ないのが特徴的の町だ。無論、まったくないわけではなく、スーパーやコンビニも数は多くないが一応存在している。町から駅までも決して近いわけではなく、東京の中では住みにくい町であることは確かだろう。何故そんな町に住宅が密集しているのかは、音白七不思議の一つとして市内では有名だった。
そんな町の一角。大型のスーパーが近くにない関係上、未だ一定の活気を保っている商店街のすぐ近くに寂れたビル街がある。ビルの大半は老巧化し取り壊しを待つばかりだが、その中の一棟……古いビルの中でも特に朽ちかけた五階建ての雑居ビルである村根ビルの三階に月代探偵事務所はあった。
赤い半袖の上着にジーンズを着用し、青いキャップを目深に被った一人の男が事務所を見上げていた。年齢は三十代か、そうでなくとも二十代は後半だろうか。無精髭を生やした、力強い……否、力強すぎる瞳を持っている。彼は右手から提げている小さなジュラルミンケースを強く握り締め、村根ビルの錆び付いた白い階段を上っていく。
一歩一歩上の段に足を乗せる度に不快かつ不安な金属音が響き、男はいずれ底が抜けて負傷者が出る事故が起こるだろうなと確信する。だが、それが自分でなければどうでもいいことだった。
二階の物草発明局という胡散臭さ漂うテナントを無視して、三階の扉の前に立つ。下手くそな字で『月代探偵事務所』と書かれた貼り紙がされている。男は拳を眼前に持ってくると、それを叩きつけるようにしてノックをした。
◇◆◇
「あー……暇だぁぁぁー……」
月代蘭丸は事務机に突っ伏しながら気の抜けた声を上げた。艶のある長い髪が本人のようにだらりと垂れ下がる。本来ならばキリッとしていて鋭い双眸も、今はとろけたように脱力していた。
「もう三時だよー。なんか美味しいものたーべたーいなー」
蘭丸は気の抜けた声を発しながらエアコンの温度を二度ほど下げる。設定温度が二十二度となった。ちなみに、エアコンは付けたばかりではなく、彼女が起床した朝の十時からフル稼動している。
「なーんか楽しいことないっかなー」
月代蘭丸は月代探偵事務所の所長を務める探偵だ。男のような名前をしているが、れっきとした女性。仕事用のものではなく紛れもない本名だ。見た目はクールな雰囲気の美人だが、中身は今のようにクールとは程遠いトンチキである。
「蘭丸さん。あんた一応探偵なんすから、楽しいことじゃなくて仕事を求めてくださいよ」
事務所中央、依頼人用のソファに腰を落とし、テーブルに広げたノートパソコンを操作する大学生と思しき青年が呆れたように呟いた。
蘭丸はあくびを噛み殺しながら悪びれずに言う。
「来るわけないもの求めてどうするんですか。私は無意味なことはしない主義なのです」
人捜しや浮気調査などの探偵業におけるメジャーな仕事は、従業員が多い大手がかっさらっていく。寂れたビル街で最も錆びついた雑居ビルの一室に収まっている探偵事務所に依頼が来ることなど、滅多にないのだ。
「あんたほんと何でこの仕事やってんすか……?」
青年は唖然としながらさっぱりとした短髪の頭を掻いた。
「大学時代の私のモットーが適材適所だったんです。私の場合、そこらの会社に就職するより、探偵業の方が輝けると思ったのですよ。……自分の能力に見合った仕事をする。自分の能力を最大限生かせる仕事をする。それが一番。大学二年生の浅倉さんにはまだ少し早いでしょうが、人生の先輩としての役に立つアドバイスですよ」
「確かに、これ以上ない反面教師ですわ」
青年改め浅倉剣也はだらけきった人生の先輩を一瞥しながら呟いた。
流石の蘭丸も不服そうに上体を起こす。前に垂れた髪を後ろへ払い、
「君が事務所へ顔を出すようになって一年と三ヶ月。随分と口が悪くなりましたね。初めのうちはとても従順だったのに」
「蘭丸さんの扱い方に慣れたと言ってほしいすね」
「それが私の大学時代を否定していい理由にはなりませんよ?」
「別にそんなつもりはないですけど……。今、後悔とかしてないんすか?」
「すこぶるしてます。私の成績ならそこそこ大手の企業にも就職できたろうに。私の馬鹿」
軽く事務所を拳で叩きながら蘭丸は吐き捨てた。声音から悔恨の念が聞いて取れる。
剣也はため息混じりにパソコンのディスプレイに視線を戻した。自分の能力を最大限生かせる仕事……その言葉に則り蘭丸が探偵業を始めたのだとしたら、それは正しいと言える。極稀に舞い込む依頼を、例えそれが一風変わったものでも彼女は完璧にこなすことを剣也は知っている。蘭丸の探偵としての能力が高いことは疑いようのない事実だ。それ故に今の月代探偵事務所の実情はもったいないと言える。
「どうしてわざわざ事務所を立ち上げたんですか? 大手の事務所に就職すりゃよかったのに」
「人の下に就くのが性に合わないんです」
駄目だこの人、と剣也の心の中で呆れ果てる。そんなのでは、そこそこ大手の企業にも就職できなかったのではなかろうか。
蘭丸は立ち上がると、壁際に設置された古い冷蔵庫からコーラを取り出す。
「今更ですけど、浅倉さんは何をしてるんですか?」
「レポートを書いてるんです」
「レポート……懐かしい響きですね」
懐かしむように目を細めてコーラを煽ると、
「自分の家でやればいいのに」
「エアコンの電気代がもったいないじゃないすか」
「事務所を図書館代わりに使わないでくださいよ。図書館いってください」
「ってか寒いんでもうちょい温度上げてもらっていいすか?」
「図書館いってください。私は暑がりなんです」
蘭丸は白いノースリーブスに黒いミニのタイトスカートを着用している。剣也からしたら肌寒くないのかと心配になる格好だが、平然としているので本当に暑がりなのだろう。
剣也はキーボードから手を離して伸びをした。
「でも、いい加減何か手を打った方がいいと思いますよ」
「何がですか?」
蘭丸はコーラを冷蔵庫に戻しつつきょとんと首を傾げる。
「仕事のことっすよ。客を寄せる努力をしませんかって話です」
「広告打つのにどれだけお金かかるか知ってます?」
「どれだけかかるんですか?」
「検討したこともないので知りません」
「何なんすか。……じゃあ、チラシを貼るとか配るとかは?」
「ちょっと前まではやってたんですけどね。最近できた市の条例で、そういうのに厳しくなっているんです。住みにくい町ですよ」
「じゃあ事務所を変えましょう。思うに、このボロボロな事務所にも問題がある気がします」
村根ビルは外観はもちろん、内装も古びている。壁紙は所々剥がれており、床にも謎の黒ずみが発生している。水道はハンドルが錆びかけ、コンセントの一部は剥がれており危機感を煽ってくる。
家具は蘭丸の座る事務机。客用のテーブルとそれを挟むように備えられた二台のソファ。キッチンの代わりとなる長テーブルとカセットコンロ。黒を基調とした無駄にオシャレな食器棚。探偵事務所っぽい雰囲気作りのために蘭丸が置いた掲示板には、行方不明者や指名手配犯、迷子の犬や猫の写真などが貼られている。
「引っ越すにもお金がかかります。そもそも、ここより高い家賃になると払えません。ここなら、一つの依頼で二ヶ月保ちますからね」
「売れてないの丸分かりなのがあかんのですよ。多少の見栄は張らないと」
蘭丸は面倒くさそうなため息を吐くと、スカートのポケットからスマートフォンを取り出した。
「一応、私だって宣伝の努力はしてるんですよ。先日、『グッドジョブサーチ』というサイトに登録しました」
「転職するんですか?」
「違います」
「じゃあ従業員を集める? 雇うお金ないでしょう。そもそも仕事がないのに」
「『グッドジョブサーチ』はそういうサイトではありません。様々な業種を星五段階で評価するサイトです。このサイトの探偵業ランキングに乗ればそこそこお客さんも来るでしょう。ほら、さっそく評価してくれた人がいますよ」
蘭丸はスマホの画面を見せつけた。剣也はマジマジと表示されているページを見つめる。月代探偵事務所は五段階中、星五つの評価を賜っていた。レビューを読む。
『ボロっちい雑居ビルに入っていたので最初は不安だったのですが、現れたのはとても美人な名探偵さんでした! クールなのに茶目っ気もあって、親しみやすくて頭脳明晰。私の依頼もばっちり解決してくれました。初めての探偵さんがあの人で本当によかったです! 文句なしの星5!』
剣也は眉をひそめる。
「これ書いたの絶対あんただろ……」
蘭丸は素知らぬ顔で口笛を拭く。図星なのだろう。彼女は開き直った。
「まあいいじゃないですか。嘘は書いていませんし」
「蘭丸さんを限りなく綺麗に表現してるだけですけど……それはもう嘘じゃないすか?」
「浅倉さんも書いておいてくださいね。評価が十件つかないとランキングに乗らないようなので」
大企業なら一部の社員に頼むだけで雑にランキング上位に食い込めそうな雑なサイトである。意味があるのだろうかと剣也は思ったが、面倒だったので何も言わなかった。もちろん評価もつけなかった。
蘭丸は事務机に戻ろうと、剣也がレポート作成の続きに取りかかろうとしたとき、事務所の扉が勢いよくノックされた。二人は顔を見合わせる。
「依頼人の予定とかあったんですか?」
「いいえ、ありません。別に予約なしでも構わないので、支障はありませんが。……どうせ新聞社だと思いますけどね」
蘭丸が事務机へ向かってしまったので、剣也は仕方なしに立ち上がると扉を開けた。
扉の前に立っていたのは青いキャップを被り、怪しげなジュラルミンケースを手に下げた男だった。帽子から覗く瞳は、奥に激しい炎が見て取れるほど力強い。剣也は営業スマイルを浮かべた。
「お待たせしました。今日は何のご用でしょうか?」
男は低く、どこかドスの利いた声で答える。
「依頼があってきた」
「え?」
事務所の奥で蘭丸が意外そうな声を発した。心の底から依頼人がやってきたと思っていなったらしい。探偵がそんな意識では客など来るはずがない、と剣也は呆れる。
剣也は男を事務所へ通すと、テーブルにあったノートパソコンを閉じてバッグへ閉まった。蘭丸も事務机から立ち上がると、すまし顔で最大限クールな雰囲気を作る。
男は手前のソファに腰を下ろし、蘭丸はテーブルを挟んでソファに座った。剣也は飲み物を用意するべくコップを取り出す。
男が帽子と小ぶりのジュラルミンケースをテーブルに置いた。その素顔を、蘭丸はじっと見つめる。
「何か?」
男は特に動じる様子も見せずに尋ねた。蘭丸は小さく咳払いをする。
「失礼しました。どこかで見たことあるような気がしまして……」
その言葉を聞いた剣也が振り返る。確かに男の素顔に見覚えがあった。
「あー……テレビとかで見たことがあるような」
「え、もしかして芸能人!? サイン。サイン色紙とかあったかしら」
蘭丸が慌ただしく立ち上がると事務机を漁り始めた。そんな彼女を男は若干引きながらも黙って観察している。
剣也は男に笑いかけた。
「この人究極のミーハーなので、気にしないでください」
そして再び男を見据える。
(テレビでも見たことある気がするけど、俺の印象に残ってるのはそうじゃないんだよな。つい最近……いや、結構な頻度で見ているような)
男の視線が蘭丸から逸れ、掲示板に注がれていることに剣也は気づいた。そちらに目を向け、思い出す。
「あ! この人ですよ!」
剣也は掲示板に近寄り、デカデカとした男の顔写真を指し示した。事務所にやってきた男と瓜二つなのだ。そこに記されている名前を読み上げる。
「えっと、金村総司さん、ですか?」
「ああ」
金村というらしい男は無愛想に頷いた。サイン色紙になりそうなものを探していた蘭丸が顔を上げる。
「ああ、知ってます。確か、一月くらい前に幹部や構成員が一斉摘発された爆破テロ組織、『赤色の夜明け』の幹部ですよね。爆弾調達が担当で、一人だけ警察の手を逃れて逃亡中の。前にニュースで見ました。芸能人じゃないならサインはいいや」
蘭丸はつまらなさそうに肩をすくめてから、自分が発した言葉を振り返る。
「……え?」
蘭丸と剣也は掲示板に貼られた金村の顔写真を見やる。上部にデカデカと『全国指名手配』の文字が印刷されていた。二人はソファの男と写真の男へ何度も視線を通わせる。
金村はジッパーを下ろして両手で上着を広げた。蘭丸と剣也は目を見開く。金村の胴に導線を纏った筒状の物体が六つほど巻き付いていたからだ。二人とも実物を見たことはなかったが、それが何なのかは理解できた。
金村が唖然とする二人をよそにポケットから黒い物体を取り出す。形状はスキーに使うストックの持ち手部分に似ており、てっぺんに赤いボタンがついていた。
「依頼の内容を伝えよう。一ヶ月前に俺の妹がストーカーに殺された。今から話す三人の容疑者の中から、犯人を特定してほしい。断ったり警察に連絡するようなら……ドカンだ。いいな?」