幼年期 空白の五年間2
――……読めているのか?――
グランフェルノ公爵は、もうじき一歳になる末息子の後姿を眺めていた。
息子はラグとクッションを敷いた床に一人で座り、絵本を広げている。それを食い入るように見つめていた。
末息子は絵本が大好きなようで、暇があれば子守に絵本を読むようにせがむ仕草を見せるという。目の前に広げておけば、ほぼご機嫌で何時間も大人しくしているという。
正直、最初はその様子に心配になった。何しろ、上の子供たちはじっとしていなくて、とにかく大変だったから。寝返りを打てるようになるころから、コロコロとあちこちを転がりまわり、自力で這うようになってからはとにかく隙間へ入りたがった。
歩き出したころの苦労は言うまでもない。
この末息子に関しては、そんな苦労は一切ない。
寝返りにしても、ハイハイにしても、比較的早くできるようになったが、恐ろしく行動範囲が狭い。今では伝い歩きはするし、一人立ちも出来るようになったが、勝手にどこかに消えるようなことはしない。部屋の中の極狭い範囲をクルクル回っているようだった。
ようやく飽きたのか、幼子は本のページを捲ろうとする。だが上手くいかず、本を閉じてしまった。
「あう?」
子供としては、次のページが出てこなかったことが不思議なのだろう。閉じた本を前に、きょとんとしている。
暫くして、とにかくページを戻そうとしたのか、再び本を開いた。だが、そこも目的のページではなかったらしい。更にページを捲ろうとして、今度は表紙まで戻った。
それを何度か繰り返す。そして……
「あ~…めえめえ~……」
ぐずり出した。
たどたどしい様子で和んでいた公爵は、我に返った。大人の気を引くための泣き方をしない分、本当に泣き始めたら面倒なのが末息子である。
「レグルス、どうした?悲しい話でも読んだのか?」
「めえめえしゃあ~」
抱き上げようとすれば、嫌がるように体を捩じる。大きな目に涙を溜めて、絵本を叩く。
公爵は幼子を膝に乗せ、絵本を広げる。
「めえめえさんか?レグルスは羊が好きか?」
「めえめえ…っぱぁ」
レグルスは広げたページを捲る仕草をする。父公爵は要求に応え、ページを捲る。
三枚ほど捲ったところで、レグルスの要求が止まった。目当てのページにようやく辿り着いたようだ。涙が引っ込み、笑顔が戻る。
「なるほど。羊がいっぱいだな」
開いたページには、たくさんの羊が描かれていた。
レグルスの小さな手が、添えられた文章に延ばされる。「ひつじさん、いっぱい!」そう書かれている。
「いぅいしゃあ…っぱあ!」
「レグルスは賢いな。もう字が読めるのか」
公爵が表情を緩めて、息子の頭を撫でる。実際に読めているのではなく、読み聞かせで聞いた言葉を覚えているだけと思われる。
それでも褒められたのがわかったのか、幼子が得意げな顔で父を見上げた。父に向かって手を伸ばす。
「おー…おーしゃ……」
公爵は顔を近づけ、頬に小さな手を付けさせた。
「おーしゃあ。お…とーしゃ?」
「ん?どうした?」
「とーしゃ」
ふにゃりと笑う。そして抱き付いてくる。
公爵は絵本を置いた。改めて抱き上げれば、子供が歓声を上げる。
そこへ席を外していた子守が戻って来た。
「わあ…レグルス坊ちゃま、良かったですねぇ」
「あ~う!」
ご機嫌なレグルスは、父の肩に頭をのせて頬擦りをする。
子守がくすくすと笑う。
それはただの日常。
永遠に続くと、疑ってすらいなかった頃の幸福。
何かが落ちる音がした。
それと共に意識が上昇する。どうやら転寝をしていたらしい。
座り直そうと腰を浮かせて、音の原因が目に入った。
床に無造作に広げられた絵本。落ちた衝撃で綴りが取れたのか、ページが不自然に広がっている。
「…しまった」
拾い集めて元に戻すが、元から剥がれた部分は戻らない。
与えたのはいつだったか。お気に入りだった絵本は、当時から大分弱くはなっていたのだが。
表紙も大分汚れて、全体的にボロボロになっている。本来なら、捨てても問題ない頃だろう。
「無くなっていたら、泣くだろうか……」
公爵は表紙を撫でながら呟く。
小さな息子の一番のお気に入りの絵本。久しぶりに訪れた子供部屋で、ふと目について持ち出してきた。
このまま戻してもいいが、破損していることがわかったら、使用人たちが大騒ぎしそうだ。犯人探しまでされたら、言い訳しようがない。
公爵は溜息を吐く。
王立図書館の職員に修復を頼みに行こう。本の修繕を行う部署では、もっと厄介な古書なども復元するという。綴りのとれた絵本くらいなら簡単に直せる。
絵本を膝に置いて眺めていると、扉が叩かれた。返事をすれば、執事が姿を現す。
「旦那様。先日連れてこられた、レグルス坊ちゃまの偽物の件ですが……」
「問題が?」
「子供は隣国から浚われた、官吏の子供でした」
公爵の眉間に深いしわが刻まれる。こめかみを指で叩く。
どうせ浚うなら国内にしてくれればいいものを、何故わざわざ隣の国へ行く。しかも公務員の子供。
「国際問題になるじゃないか」
「はい。わたくし共だけではどうしようもなくなりましたので、ご報告に参りました」
公爵は深い溜息を吐いた。ゆっくりと立ち上がる。
一度王宮に出向き、外務省に話を通す必要がある。犯人の引き渡し要求があれば、そちらにも考慮しなければならない。
頭の痛い問題に、公爵はこめかみを親指でぐりぐりと押した。
「出仕する」
「畏まりました。旦那様、それは?」
目ざとい執事が、公爵の手にしていた絵本に首を傾げる。
「ああ。あの子がよく読んでいたのを思い出して持ち出したんだが…すまん。落として、ばらけてしまった」
「…左様でございますか。さて、どういたしましょう?」
「図書館の修理部門に持っていく。直せるはずだ」
「外部の持ち込みをやってくださるでしょうか?ただの絵本でございますし」
「あまり知られていないが、一般からの修繕も受け付けているぞ。古書修復の訓練として新米たちがやるらしいのだが」
新米というが、ちゃんと指導は付く。雑な修繕は上が許さない。
それを伝えれば、執事は安堵の表情を浮かべた。
「お気に入りがなくなっていたとなれば、坊ちゃまも悲しまれるでしょうから」
「…そうだな……」
公爵は曖昧な表情で応え、改めて本を見た。
青空の草原に、顔の黒い羊が一匹。大分デフォルメされた羊は、もこもこさだけがやけに強調されている。
廊下に出れば、窓の外が目についた。
もうすぐ夏も終わる。空が大分高くなった。薄く雲のかかった空は、青の深さがなりを潜めて、柔らかな水色になっている。
公爵はすぐに視線を落とし、これからの対応に思考を戻した。
黄昏の塔の最上階には、小さな窓…というか穴がある。大人が立って飛び上がっても届かないほど、高い位置にある小さな穴だ。
穴から見えるのは、小さな空。
「きょう、も、いい天気、です、よ」
掠れた声が告げれば、暗闇で眠る幼子が目を覚ます。そして切り取られた小さな空へと手を伸ばした。
(……とーさま?)
「父様・の・おめめ・は、もっと、薄い・色・ですよ」
幼子は虚ろな目を閉じた。そしてまた、深い闇へと沈んでいった。