幼年期 空白の五年間
「ごめんな」
馬車の小窓を開き外を眺めていた少年が、唐突に呟いた。彼の前に座っていたもう一人の少年が顔を上げる。
外を見つめる金髪の少年に対し、前に座る少年は青みがかった銀髪。見た目も雰囲気も、全く正反対の印象を受ける二人が、同じ馬車の中で向かい合わせに座っている。
青銀色の髪を持つ少年は不思議そうに目の前の彼を見たが、外に目を向けたままこちらを見ようともしない。仕方なく口を開く。
「殿下?」
「いきなり付き合わせて。ごめん」
窓枠に頬杖をついた状態で、些か決まりの悪そうな表情を浮かべている。
何だ、そんな事か…青銀髪の少年は首を左右に振った。
確かに、いきなり「視察に出ることになった。一緒に来い」と強引に連れ出された時は驚いた。あれよあれよという間に馬車に押し込まれ、今現在に至る。
けれど、そんな事は今更である。ただ、どこに行くか知らされないままの事に不都合はあった。
「今回はどちらに?」
「ウェタル河が先日の長雨で氾濫したのは知っているだろう?」
「はい。ではウェターグラムへ?」
「ああ。あそこは街道の宿場町で、流通の要所でもあるからな」
街道沿いの都市であるウェターグラム。東に行けばガルヴァレス帝国。南に抜ければ景勝地の多いアルヴィド公国。西に行けばリスヴィア王都へと繋がる、いわば分岐点だ。
ちなみに北にも行けるが、厳しい荒野と流刑地があるだけで、わざわざ向かう者は少ない。
今回の視察は復旧の状況を確認するためだろう。そしてこれからの支援方針を決める為。
金髪の少年、王太子ヴェルディは、父王の命でウェターグラムに赴くことになった。街のあるウェター地方が国の直轄地でもある為だ。
そして同行するのは、筆頭貴族公爵グランフェルノ家嫡男シェリオン。
二人ともあと数か月もすればリスヴィア成人年齢の十五になるが、今はまだ未成年である。
けれどヴェルディは最近、こうして父王の仕事が回ってくるようになった。どれも他愛のないものであるが。それにシェリオンを付き合わせている。
しかしこうして、視察に連れだすのは初めてだった。何となく、一度謝っておいた方がいいように思えたのである。
「シェルはさ……」
座席に座り直したヴェルディは、ようやくシェリオンを見た。感情を置き去りにした無気力な瞳を直視する勇気は相変わらずなく、若干下あたりになるが。
「シェルは、将来どうするつもりだ?」
「…藪から棒に、何?」
幼馴染の特権で、愛称を呼ばれたシェリオンは敬語を取り払った。
ヴェルディは肩を竦める。
「そうでもないだろ。俺もお前も、成人まであと二か月もない」
二人の誕生日は一月も違わない。社交シーズンに入ればすぐ誕生日が来る。
シェリオンは溜息を吐く。
「父のもとで経験を積もうと思っている」
「政務省に?」
「秋の官吏試験を受けるつもりだ」
父公爵の跡を継ぐ以上、家に引き籠ることは出来ない。要職につけるかどうかは別として、次期筆頭公爵として政治の中枢に関わる仕事をするつもりだ。
ヴェルディは軽く拳を握った。
「それならシェル、お前、俺の近衛侍従にならないか?」
「…身分が高すぎるだろう。成人したら俺、伯爵だぞ。父や侍従長が許すとは思えない」
「それは俺とお前次第だろ。ならないか?」
軽く前のめりになる。
シェリオンは首を傾げた。僅かに視線を伏せる。
「熱心だな。どうした?」
「……別に」
ヴェルディは急に熱を失くしたように、背もたれに体を預けた。浅く腰掛けることになったため些か態度が悪くなる。
シェリオンはその様子に目を眇めたが、何も言わずに溜息を吐く。
ヴェルディが口を尖らせる。
「いいじゃんか。俺の傍でも、政治に関わることは出来る」
「……俺に押し付ける気か」
「違う!」
噛みつくように言って、ヴェルディはふいっと横を向いた。
「………ちょっと、不安なだけだ」
「子供か」
「お前と違って、将来の選択肢がない立場だからな」
ヴェルディはいずれ国王になる。名君と呼ばれるか暗君と呼ばれるか、或いは汎君で終わるかは分からないが、とにかく国王になる。それしかない。
シェリオンのように、不自由ながらも選べるものはない。
だから、せめて傍に付き従う者くらい自分で選びたい。
シェリオンは無感情な目がヴェルディを映している。それは解っているが、やはり見ることは出来なかった。
気まずい沈黙が下りる。
ガタンと馬車が揺れ、浅く腰掛けていたヴェルディは危うく落ちそうになる。仕方なく座り直す。再び窓に頬杖をついて、外に目を向けた。
「……いいよ」
沈黙を破ったのはシェリオンだった。
ヴェルディがちらりと横目でシェリオンを見る。
「父上にお伝えしておく。説得できるかどうかは解らないけれど」
「そうか。じゃあ俺も侍従長の説得、頑張る」
口元を歪めれば、無感情な瞳が僅かに和んだように見えた。
馬車の速度が緩んだ。護衛のため、外を馬で並走していた近衛の一人が近づいてくる。
「もうすぐ到着します」
「わかった」
ヴェルディは僅かに身を乗り出して前方に視線を向ければ、街の外壁が見えた。ここからではまだ水害の実態は分からない。
もっとよく見ようとして、後ろから上着を引っ張られた。
「危ないですよ。小さい子供じゃないのですから、お控えください」
「おう、すまん」
家臣としての立場に戻ったシェリオンに、ヴェルティは素直に従って座席に戻る。
これからの予定について話しながら、ヴェルディは先日の事を思い返していた。
シェリオンの弟ハーヴェイが王子宮を訪れたのは三日前の事だ。
母が王宮のサロンに来るのについてきたという。だがすぐに飽きてしまい、こちらに来たらしい。
ヴェルディはハーヴェイの額を指で弾いた。
「仕方のない奴」
「へへっ」
額を抑えながらも屈託なく笑う。
どうせ何も言わずにこちらに来たのだろう。侍従を呼び、サロンにいるだろう公爵夫人に言伝を頼む。
既に一人、行方知れずになっているのだ。余計な心配をかけさせてはいけない。
ハーヴェイは椅子に腰かけると、最近の様子をとめどなく話し出した。特にこれといった落ちもない話ばかりで、こんな事をしに来たのではないという事がすぐに分かる。
人一倍家族に気を遣っている公爵家の次男も、相当参ってきているのだろう。
ヴェルディは時折相槌を打ちながら、ただ話を聞いてやった。話のネタが尽きるまで。
やがて話すことがなくなってきたのか、言葉に詰まり出す。それでも尚、何か話さねばと話題を探すハーヴェイを、ヴェルディはようやく止めた。
「無理して話すことは無い」
「え?」
「逃げたくなったら、いつでも来ればいい」
ハーヴェイはぱちくりと目を見開いた。それから眉を下げる。
そんな泣きそうな顔をしてまで笑わなくてもいいのに。ヴェルディは思うが、言葉にはしない。
「ヴェル兄には敵わないなぁ」
そう呟いて、視線を落とした。
基本的に、この兄弟は父親似である。ただ、瓜二つと言われる兄に比べれば、ハーヴェイはやや母親寄りの所もある。髪と瞳の色もそうだが、目元が少しだけ公爵夫人のシェーナに似ている。
こうやって悲しみを堪えている姿は、末息子の行方を案じながらも気丈にふるまっていた母親を思い出させる。
お茶でも用意させるかと、呼鈴に手をかけたところで、ハーヴェイが顔を上げた。
「最近さ、家にいても息が詰まりそうになるんだ」
「……」
「おかしいよね。一番安心できる場所のはずなのに」
目を潤ませながら、口角を吊り上げる。その姿はあまりにも不憫だった。
「父上も兄上も笑わない。母上やティアは、放っておけば泣き出すし。時々凄く、苦しくなる……」
重苦しい空気の中、軽快な雰囲気を纏うのはどれだけの苦労がいるのだろう。
ヴェルディは呼び鈴を鳴らした。現れた侍女に、お茶の支度を頼む。
その間、ハーヴェイは無言だった。俯き、涙を堪えるように唇を噛んでいた。
やがて侍女が戻り、素早く支度を整えて、二人の前にカップが置かれる。お茶菓子も添えられていた。侍女も微妙な空気を感じ取ったのか、すぐに部屋を下がった。
ヴェルディがカップを取る。
「温かいうちに飲め」
「うん。ありがと」
ハーヴェイは小さく笑って、カップを取った。行儀悪く両手でカップを挟んでいる。
ヴェルディが苦笑いでそれを咎めれば、ハーヴェイも悪戯っ子のような笑みで返す。
「ここに来ると、少しだけ息をするのが楽になる気がするんだ」
そう言って、お茶を飲む。カップを置けば、遠慮なく菓子に手を伸ばした。甘いもの好きなハーヴェイは、菓子を美味しそうに頬張る。
「兄上も、そうなのかな?」
「ん?」
「シェル兄上」
ハーヴェイは口の中のお菓子をお茶で流し込んだ。
「普段は部屋に閉じこもってばっかりなのにさ。ヴェル兄の呼び出しだけはちゃんと応えるじゃん。兄上も、ここでは息が出来るのかな?」
「さあ…文句ばっか言ってる気がするが」
「家じゃほとんど喋らないよ」
ハーヴェイはくすくすと笑う。
何がおかしいのか。今は笑うところではないように思うのだが。ヴェルディは眉を吊り上げる。
ふと、ハーヴェイの目に再び涙が溜まっているのに気づいた。
ヴェルディはカップを置く。
「解った。もっと家族と会話するように、今度叱っておく」
「あははっ、ヴェル兄に叱れるの?」
「俺だってやるときはやるんだぞ」
叱られてばかりのヴェルディを知っているハーヴェイには、叱る彼を想像できなかったのだろう。無理無理と首を振る。
ヴェルディは口をへの字に曲げた。
一頻り笑うと、ハーヴェイは目に浮かんだ涙を拭う。
「ヴェル兄」
「何だ?」
「へそ曲げないでよ」
すっかり拗ねた様子のヴェルディに、ハーヴェイはまた笑い出す。だがそれはすぐに引っ込めた。
「ヴェル兄、兄上を頼むね」
「…弟に心配されるようじゃ、あいつも終わりだな」
「仕方ないじゃない。シェル兄上は、悪いのは全部自分だって思い込んでいるんだもん」
誰が何を言っても、シェリオンは聞き入れない。
悪いのは自分。あの小さな手を最後まで導かなかった自分が悪い。
本当に悪いのはあの子を連れ去った犯人であって、ここにいる誰でもないのに。
ヴェルディは視線を下げた。
「俺を責めていいぞ」
「やだよ。ヴェル兄が悪いんじゃないもん」
「…お前らが誰も責めないから、俺の罪が無くなるだろ?」
「無いじゃん。ヴェル兄の逃げ癖はいつもの事じゃん。別に、あの日だけの事じゃなかったじゃん。これとは関係ないよ」
あまりフォローにはなってない。ヴェルディは肩を竦める。
この家族がこの調子だから、ヴェルディは彼らに謝ることさえ出来ない。誰かが彼を断罪しなくては、謝罪も贖罪もしようがないというのに。
ハーヴェイが笑う。
「だからさ、シェル兄上をお願い。兄上、ここにいる間だけは、自分の罪を責めずに済むんだと思うから」
「…今日は、それを言いに来たのか?」
長い前置きだったなと呟けば、ハーヴェイはバツの悪そうな顔をした。
「ごめんなさい」
「謝られたら、俺に立つ瀬がないだろ」
「そっか」
「納得するなよ」
「…ヴェル兄、めんどくさい」
「複雑な男心だ。理解しろ」
「やっぱりめんどくさい!」
ケラケラと笑いだすハーヴェイに、ヴェルディは少しだけ安堵した。
ヴェルディに兄弟はいない。はとこである公爵家の兄妹は羨ましい存在であったし、年下の二人は自分の弟妹のように思ってきた。
弟妹は不幸になってほしくはなかった。もちろん、幼馴染にも。
「まあ、努力はしてみる」
そう答えた。
ハーヴェイは笑う。
「ありがと」
その後も取り留めのない話は、公爵夫人が迎えに来るまで続いた。
一面泥まみれの道路に降り立つ。
「これは酷いな」
「申し訳ございません」
王に代わり土地を治める官吏が、深々と頭を下げる。幾分やつれた様子だ。
ヴェルディは首を左右に振った。
「そなたのせいではない。自然に逆らえぬのは人の定めと、陛下も申していた」
死人は出ず、怪我人も最小限に抑えられたのは、彼らが迅速に避難指示を出したからだと聞いている。街の被害も冠水のみだ。
今では雨はやみ、川の水もすっかり引いている。代わりに残ったのは、乾いた泥や、流木、各建物から流れ出た家財などだ。
さっそく街の様子を見て回る。話はそれからとなった。
街のあちこちで片づけに追われる住民が見られた。中には家の前で途方に暮れる老人もいる。
「必要なのは人手のようだな。まずは片付けを終わらせねばなるまい」
「はい。年のいった者だけで暮らしていた家は、優先的に男手を回すようにはしているのですが……」
「今更かもしれんが、王都の騎士団を追加で寄越す手配をしよう。片付けは苦手かもしれんが、力仕事は任せられるだろう」
「ふっ…有難いお言葉です」
思わず笑ってしまい、慌てて取り繕う官吏に、ヴェルディも笑みを向ける。
子供たちの甲高い笑い声があたりに響いた。続いて母親たちの怒鳴り声。路地から子供が数名、飛び出してくる。
彼らは物々しい一団を目にすると、驚いて固まってしまった。続いて走り出てきた女性たちがこちらに気付き、大慌てで子供たちを抱えて道の端に寄る。
ヴェルディは苦笑いを浮かべた。
「いつでもどこでも、子供に母御は苦労されるな」
「申し訳ございませんっ」
目の前にいるのが誰か、彼女たちも理解しているわけではないだろう。ただ、剣を下げた騎士たちが守る相手だ。高貴な方だろうと推測している。
ヴェルディは母子たちに近づいた。
「こんな状況では、子が元気なのが唯一の救いだろう。そう叱らないでやってくれ」
「は、はいっ」
「そなたらも。今は大変な時だ。ご両親を困らせるものではないぞ」
「「「……」」」
緊張する母親たちに対し、子供たちはぽかんとヴェルディを見上げている。
ヴェルディは一番近くにいた子供の頭を撫でる。五つくらいだろう男の子は、はっと我に返って母親のスカートの後ろに隠れてしまった。
「振られましたね」
「むぅ…女性には結構好かれるのだが……」
「男の子ですしね」
「ああ、時々近衛に恨みがましい視線を受けるな」
「同性に嫌われるタイプでしたか?」
「えっ?お前、俺が嫌いか?」
「…………」
「何か言え。傷付くだろう」
シェリオンとどうでもいい軽口を交わしていると、母親たちからも控えめな笑い声が漏れた。
それを確認して、ヴェルディは微笑む。
「まあいい。お前に嫌われたところで、どうってことはない」
「そうですか。それは良かった」
「本当に嫌われてるのか!?」
思わず本気で振り向いてしまった。どっと笑いが起きる。
幼馴染は相変わらず無表情だが、そっと視線を逸らせることで場の空気を保った。
これでいいのだろう?
こちらがきちんと仕事をすれば、お前はそれに付き合っている間、罪から逃れられるんだろう?
その間だけ息が出来るというのなら、俺は俺の務めを果たそう。だからお前も付き合え。
たとえ、自ら背負ったその罪を、赦せる時が来たとしても。