幼年期 12.家族の絆~ハーヴェイ視点
ようやく王都に辿り着いた。
赤燕騎士団の面々は、全身に疲労感を漂わせている。演習は、時として実践を超える。
慣れた古参でさえそんな状態だ。新米騎士たちは言うまでもない。
入団二年目の彼も、疲労困憊で動けなくなる手前だ。だが、新米はまだこれからやることがある。演習で使った道具の手入れに馬の世話。下っ端は仕事が多い。
新米仲間と作業に入ろうとしたところで、彼は隊長に呼ばれた。
「デミトリィ…団長がお呼びだよ……」
陰鬱な声はいつもの事だが、それに疲労感を加えてさらに不気味さを増している。
慌てて敬礼すれば、隊長は軽く手を振る。
「いいから、行きなよ。近衛が来てる」
「近衛…?あ、はい」
疑問を持っている暇はない。同僚に断りを入れ、慌てて走り出そうとすれば、隊長に濡れた手拭いを投げられた。
「せめて顔は拭いてお行き…」
親切はありがたいが、顔にぶつけるのはやめてほしかった。
埃にまみれた顔を拭って多少さっぱりすれば、使った手拭いを隊長に取られる。そしてさっさと行けと言わんばかりに手を振られる。
何かがおかしい。
気付いたが、尋ねることは出来なかった。敬礼をして走り出す。団長を待たせる方が良くない。
団長は兵舎の前に立っていた。隣に副団長の姿も見える。濃紺色の近衛師団の制服も。
近づく彼に、副団長が真っ先に気付いた。
「団長、デミトリィが来ました」
「おう」
近衛兵と話していた騎士団長は、真面目な顔で振り返った。
彼はピッと直立する。さすがの彼でも、団長の前では緊張する。
「お前の家族が王子宮で待ってるんだと。行ってこい」
「は…?家族、ですか……?」
いきなり何を言うのか。全く理解できず、間の抜けた返事をしてしまった。
団長がちょいちょいと指で招くので、顔を近づける。すると首をホールドされた。若干の苦しさを覚えて逃れようとすれば、耳に思いもよらぬ言葉が入ってきた。
「お前の弟が発見・保護された」
「…………………………………は?」
思考が停止する。何を言われたのかわからない。
弟。確かに弟はいた。
大人しくて、物静かで、賢くて。
六歳も年が離れていると兄弟喧嘩にもならず、無邪気に笑う弟は何よりも可愛かった。妹より可愛がっていた記憶がある。
けれどすべて失われた。
五年前、突如として姿を消した弟は、両親がどんなに手を尽くして捜索しても、帰ってこなかった。
そして残された家族は変わった。
父は何かから逃れるように仕事一辺倒になり、兄は笑わなくなった。母は人目につかぬようこっそり泣き、お転婆だった妹もすっかり鳴りを潜めた。
何とか父を家に引きずり戻し、兄の表情を緩め、母を泣かさぬように明るい話題を集めて、妹を外に引っ張り出した。
消えた弟の行方を問いたい我は封じて、残された家族のために心を砕いてきたつもりだ。
質の悪い冗談――そう思って団長を見れば、険しい表情がそこにあった。
「行け。真相を確かめてこい」
ホールドされた腕が外される。それから勢い良く背が叩かれた。たたらを踏んだが、何とか転ばず踏み止まる。
顔を上げると、近衛兵がそこにいた。柔らかく微笑んでいる。
「皆様、お待ちです」
「え……?」
嘘ではないのか。悪い冗談ではないのか。
生きている?
皆が揃っている?
気が付けば走り出していた。近衛兵も置き去りにして。
王宮とはいえ、勝手知ったる庭のようなもの。幼い頃は父母に連れられ、兄と共によく訪れていた。二つ上の兄と同い年の王子は、彼にとってもう一人の兄でもあった。彼の住まいもよく知っている。
王子宮を守る近衛師団の騎士たちは、突然現れた赤燕騎士団の新米騎士に最初は驚いた様子だった。だが、すぐに事情を理解し、無言で通してくれた。
彼もまた、行先は解っている。
扉の前に近衛兵が立っていることなど、いくら王子宮でも通常はあり得ないから。
筆頭貴族の子息として得た経験が、無意識のうちに家族のもとへ導いていた。
扉を乱暴に開け放つ。
一斉に視線がこちらを向いた。
父と母がいる。
兄がいる。
そして妹と……
姿を確認した途端、足から力が抜けた。その場にへたり込む。動けなかった。もちろん演習の疲労からではない。張り詰めていた緊張の糸が切れた。
「びー・にいさ・ま」
なんとたどたどしい、掠れた声か。
弟の苦労が忍ばれると同時に、自分の行動が恥ずかしくなった。傍に来ているのにもかかわらず、顔が上げられない。ぐっと拳を固く握る。
弟が顔を覗き込んでくる。
「きもち・わる・い?」
「そんな事あるわけないだろ!」
とっさに叫んで、顔を上げた。痩せこけてひどい有様の弟がそこにいる。
無事に見つかったのに。どんな状態でも、大事な弟なのに。
素直に喜んで、良かったと言ってやったらそれだけでいいはずなのに。
目を合わせていられず、顔を逸らした。
「ハーヴェイ?どうしたの?」
心配そうな母の声に、彼は目線を上げた。
母が父と並んでそこにいる。それだけで泣きそうになる。
父が溜息を吐いた。びくりと肩が跳ね上がる。怒られると思ったが、伸びた手は優しく引き寄せてくれた。
「今まですまなかった」
父の肩に頭を載せられる。そして髪をぐしゃぐしゃにしながら撫でられた。
一度こぼれた涙は、もう止まらない。
酷いことは十分承知している。
ここは真っ先に無事を喜んでやらねばならないのに。
気を張らずに済むことの安堵感と開放感が勝ってしまうなんて。
弟の無事より、自分の感情を優先させるなんて、なんて酷い兄なのだろう。
「ごめん…ごめんなさい……」
嗚咽と共に謝れば、父の手が背を叩いた。
こうやって父に触れられるのも久しぶりで、また泣けてくる。
けれどいつまでも泣いていられない。
泣いたことで幾分心が落ち着いた。父の肩から顔を上げる。鼻を啜って、目に残る涙を拭った。
父の肩がしっとりと濡れている。
「父上、ごめん…」
「何を謝ることがある」
呆れた様子なのに、表情はずっと穏やかだ。纏う雰囲気が懐かしく感じられる。
彼は振り返った。
弟はいつの間にかソファに戻り、妹と並んで座っていた。仲良く手を握る姿が何とも言えず微笑ましい。
抱きしめたい衝動に駆られたが、はっと我に返る。
演習帰り。鎖帷子に埃まみれの隊服。これで抱きしめたら、絶対傷つける。
「せめて軍装を解いてくるんだった。これじゃ、レグルスに触れない」
顔くらいしっかり見ていこうと弟の前に膝をつけば、骨と皮ばかりの手が伸びてきて、頬に触れた。
感触はともかく、仄かな温もりが伝わってくる。理解不能だった隊長の奇妙な優しさも。
このまま戯れていたいが、そうもいかない。片づけを中途半端にしてこちらに来てしまった。
「また明日来るよ。休みには屋敷に帰るからさ」
そうっと弟の手を放し、立ち上がる。
無感情に見えた弟の目が、僅かに細められた。これは笑っているのだろうか。
その後兄と一言二言、言葉を交わし、大急ぎで兵舎に戻った。
突然抜けたことで同期たちには文句を言われたが、事情を知る上司たちは何も言わなかった。
翌日、早朝の訓練終了後許可をもらい、手早く身支度を整えて会いに行った。朝食を終えたばかりの弟を抱き上げれば、ギュッと抱きつかれてまた涙してしまったのは、二人だけの秘密にしてもらっている。
そして、いそいそと出かける様子を見た同僚たちに、「デミトリィに女が出来た」とあらぬ誤解を与えることになったのは言うまでもない。