第1話 おはよう、一秋くん
「『○○電工、新入社員が過労死か』かぁ。働き方改革、何だったんだよ」
梅雨入りする前の5月中旬。だんだんと暑くなりつつあるこの頃。
――不思議な怪事件。それに巻き込まれた4月のあの日から。俺は何事もない極めて普通の日常を送っていた。
そして、今日も今日とて俺は日課の新聞を読んでいるわけだ。奇妙にも俺は早起きをしたから自宅で朝食を食べながらのんびりしている。
そして、今日のトップ記事は、誰もが知る大手企業の新入社員が自殺したというニュース。入社した月から150時間を超える残業を課せられていたようだ。
なんか救われない話だ。仮にも大企業なのに、こんなことが起きるとは――
「食べるか読むか、はっきりしなさいよ。一秋」
なんて考えていると。目の前の、新聞一色の視界が壊されてしまった。
後ろを振り向いたら、座った俺と目線がほぼ一緒のちっこい女性。ソイツはウンザリしたような態度の俺を見ると、大げさに溜め息を吐いた。
「なんだよ、なつねぇ。別に良いだろ」
「良くないわ。せめて朝ごはんを食べてからにしなさい。いつもみたいに学校で新聞読めばいいんだから」
「そうは言うけどさ。お腹、減ってないんだけども」
グチグチ言ってくるこの人の名前は……小山千夏、なつねぇ。俺の姉だ。
すごいちんちくりんだけど、小学生にしか見えないけど、夜6時以降のゲーセンとかにいたら100パー追い出されるだろうけど、俺の姉だ。
ちっこいけど大学1年生。都内の有名私立大に入学し、通っている。
だけど、この姉。やたら口うるさいし、優しさの欠片もない。
頭は良いし、頼りになるんだけどさ。グチグチ言われるのは気が滅入るぜ。
そもそも朝ごはんを食べたくない俺が、こうして朝食を取ってるのも……なつねぇがうるさく言ってくるからだし。姉というより母親みたいだ。
「兄ちゃん、お行儀わる―い!」
「そーだ、そーだー!」
「うっせぇよ、お前ら!」
そして、向こうからヤジを飛ばしてきた2人は俺の弟と妹だ。
小山十春と小山冬樹。今年で中学生の双子の兄弟。やんちゃだがかわいい。
ちなみに俺の父さんと母さんは朝、特に俺が起きる時間には既にいない。
2人とも記者の仕事で忙しいから。もう慣れっこだけど、昔は寂しかったっけ。
「あーもう、わかったよ。ちゃんと食べますよーだ」
「わかれば良いの。グダグダ変なこと言わなかったら、もっと良かったけど」
鬱陶しそうに手を振りつつ、そんなわけで俺がパンを齧った時。なつねぇが冷蔵庫から牛乳を取り出し、飲もうとしている。
大きいマグカップ1杯分。それを飲み干す。なつねぇの毎朝の習慣だった。そういえば、なつねぇが小学生の頃からやっていたな。あの時から背が低かった。
「へっ。無駄なコトを」
「――なにか、言った?」
「いいえ、なんでもないです、はい」
なんという地獄耳。身長の話になると昔からこうだ。やれやれだぜ。
「それじゃ、私は大学に行くから。私がいなくてもちゃんとしなさいよ」
「いってらっしゃい。って、なつねぇ。今日は早いな。授業あったっけ?」
「今日の講義は午後から。午前は新聞部の他のサークルがあるから、それでね」
「ああ。なんだっけ、なんとか倶楽部だっけ。オカルトサークルだな。なつねぇが意外だよな。そういうの興味ないと思ってたのに」
「半ば強引に入部させられたのよ。思い返しても嫌な記憶だわ」
その話は何度もされたな。強引な手段を取られたんだとか。
それにしてもオカルトサークル。ほんの1か月前までは笑い話に出来たけど。
“今回の件で理解したわね。この世界に怪異は存在するの”
俺は信じたくなかったけど……怪異は、オカルトは存在するんだ。
もちろん、ゆのねぇがこの前のアレみたいな存在に関わらないとは思いたいけど……それでも。なつねぇが怪異に出会って、危険な目にあったら。
そんなんだから、俺はなつねぇがオカルトサークルにいることがイヤだったし、すぐに辞めてくれると思っていたんだけど。
「それなら、さっさと退部しちまえば良いだろ。大学はその辺自由だろうし」
「これが意外と楽しいの。いろいろダメなところもあるけど今は続けるつもり」
「……そうかよ。まあ、気を付けてくれよ」
「気を付けるのは一秋の方でしょ。いつも危なっかしいんだから」
「へー、へー」
はいはい、大きなお世話だぜ。そんな意思を込めた返事をした。その後、なつねぇは部屋を出て――もう一度戻ってきた。
「それと、玄関先に。楓ちゃんともう1人の女の子が来てるわよ」
えっ、そうか、もう時間なのか。早く準備しないと。
パンをスープで流し込み、荷物の支度と歯磨きを一緒にして準備を終わらせる。遅刻常習犯なだけに手際はピカイチだった。
「おはよー」
「おはよっ、アキ!」
「……お、おはよう、一秋くん」
準備を万端にして、玄関を出て。2人にあいさつする。
おおう。ずいぶんと夢みたいな光景だな。美少女が2人、玄関先で。正直のところ、見慣れ過ぎてて感動はないけど。
「それにしても。なんで私がここまで来ないといけないのかしら」
「だって葵ちゃんの家、近所でしょ。なら一緒に学校に行こうよっ!」
「一緒に……ね。まあ、付き合っても良いけれど。他に行く人いないし」
「良い、悪い、じゃなくて付き合うんだよ、私とアキと! あっ、付き合うはもちろん共にするって意味だよ。付き合う、結婚するのは私だからねっ!」
いろいろと2人が話している。あと楓は婚約者宣言をやめろ。恥ずかしい。
「「わんっ、わんっ」」
寝癖を直しつつ家を出ようとした時、元気の良い犬の声が聞こえてきた。
「あら、一秋くん。犬を飼っているの?」
「そうだな、ウチのホシとクロ。紹介してなかったっけ」
「聞いてなかったわ。2匹とも大きいけど、その、かわいいわね」
「俺が小学生になる時にやって来たからな。それくらいにはなっちまうな」
俺がそんなことを言っていると、葵はまじまじと2匹を見つめていた。
「葵ちゃん。興味あるの? 試しにお手してみない?」
「……えっ。そんなことしなくても。別に興味ないし」
眼を輝かせながら、そんなこと言われても。説得力がなさすぎる。
何はともあれ。興味津々な葵にウチのホシとクロを触らせることにした。
「ほら、遠慮せずに。触るだけならタダだからさ」
「な、なら、よし。わ、わんちゃん、お、お手よ……!」
「「きゃうん、きゃうん!!」」
だけど、葵が手を出した瞬間、すごいスピードで2匹が逃げだした。
……あれ? 普段はホシもクロもそんなことしないのに。
様子を見に行くと、何故か2匹とも物陰に隠れ、隅の方で震えていた。
この反応と状況、考えられる原因は……葵を怖がった、だけど。なんで?
「うん? ホシとクロ、すっごく人懐っこいのに?」
「そうだよな。こんなこと初めてだ。不思議なことがあるもんだぜ」
「変だね……おーい、ホシ、クロ、おいでー! あっ、私のとこには来たよ!」
そして、楓が呼んだら……すんなりと来た。尻尾を振って嬉しそうだ。
「えへへぇ。かわいいなぁ。あっ、葵ちゃん。大丈夫……?」
「ベ、別にっ! 私は気にしてないわ。気にしてないんだからっ!」
そして、強がり始めた葵。めっちゃ気にしてる、気にしてるだろコレ。
「葵ちゃん、こんなこともあるよ。泣かないで、ね?」
「ぜんぜん泣いてないわよ! それくらいわかっていたんだから!」
こうして何気ない喧騒と一緒に。今日も俺たちの日常が幕を開けた。