プロローグ とある闇に飲まれた人の話
――ああ、もう疲れた。ひどく疲れてしまった。
まともなモノが見えない、聞こえない、話さない、話せない、感じない。
脳の中の衝動に苛立ち、殺意が湧き、悲しみ、ひどい疲れを覚えていた。
休みたい。1時間、1分、1秒で良いから休みたい。だけど、休めなかった。
私は会社に向かわなければならないから。仕事をするために、怒られるために。
自身の課せられた仕事はシステムを作ること。それを実現するために、客先の会社に送り込まれる。客が嫌がる面倒な仕事をやらされる。
ひたすら“奴隷”として、いや“部品”として。客や元請けが定めた納期通りに作業を達成しなければならない。それが無理難題でも。
部品に余裕は与えられない。要求される通りに動かないと罵倒され、八つ当たりされ、やがて廃棄される。それが常識だからだ。
『――――、――――、――――、――――、――――』
通勤ラッシュ時の駅構内は、人が多い割にはやけに静かな空間だ。
みんな死んだ目をして電車を待ち、乗って、会社に向かう。そうだからだ。
もうイヤだ、疲れた。絶望が心に馴染んでいると、体の中に倦怠感が蔓延した。
――ぶぅぅぅぅん ぶぅぅぅぅん
だけど、電話がかかってきた。“部品”に絶望する暇は与えらないらしい。
来た時間が、乗る前で良かったという安心感と、それ以上の恐怖が込みあげた。
電話の先……客か、元請けか、上司か。誰であっても私を攻め立てる、怒鳴りつける、責任を押し付ける。散々味わってきたから、そう思えていた。
『――――、――――、――――、――――、――――』
電話に出ても何を話しているのか、何が聞こえているのかわからない。
ただ頷いて、今の私は嵐が過ぎ去ることを待つことしかできなかったから。
脳が拒絶していた会話を無意識に行い続ける。規則的な動きで首を上下に振っている私が、ふと動きを止め、目の前を俯瞰した時だった。
――底知れない闇が、私を招き入れようとしていた。
普段は何も感じない向こう側。だけど、今は魅力的に思えていた。
恐怖は存在した。ただ、目の前の苦しみが消える快楽には抗えなかった。
ただ、私は一歩ずつ踏み出した。吸い込まれたように、誘い込まれるように。
何が何だかわからないまま。理解する脳も止める脳も、すべて捨てていたから。
―――そして、最後には。心地よい浮遊感と甲高い警笛の音がした。