ヒーローご乱心
マサルはスタートゲートの後ろで他の馬と一緒に、円を描くように廻っていた。二人の係員がしっかりと引き綱を持って引いている。
発走準備を告げるトランペット演奏が終わると、場内に拍手が響き渡った。
今日はメインレースが終わっても、大勢の人の姿がある。
マサルの引退レースだから?
いや、単にメインが重賞レースで大勢の人が競馬場に足を運んでいたからだろう。表彰式には、プレゼンターとして有名な女性タレントも参加していたので、多くの人がそのままスタンド前に残り、それなら最終レースもってことなのかもしれない。
熱気が残る中、マサルがスタートゲートへと誘導されていく。
かつてヤンチャだった頃、ゲート入りを嫌がることもあったマサルは先入れ、いつも最初にゲートへと誘導される。
マサルの上の宏幸は、どうしてもあることが頭に引っかかっていた。
あの冴えない初老の男。
発しつづけていた言葉が気になってしょうがない。
『乗るな! 宏幸』
(チキショウ! わざわざ下の名前で叫びやがって。なんなんだアイツは!)
マサルが歩を進め、ゲートに近づくにつれて、あの男の言葉が呪いのように、のしかかってくる。
マサルは厩務員に引かれるままに、ゲートに近づいていく。
厩務員がゲートに入り、マサルの体も半分入ったところで突然、足を踏ん張るようにし止まった。そして、ゲートの向こうを見ようとしているかのように、両前脚をあげて立ち上がった。
馬上の宏幸の体も跳ねるように上へと向かう。その瞬間、視界にはゲートの向こうが映っていた。
「うぉわっ!」
飛びだした叫び声。
突然、マサルが立ち上がった驚き。いや、そんなことより、とんでもない光景が目に映っている。
馬場の真ん中をスタートゲートに向かって歩いてくる姿。
歩きづらいはずの砂の上を、あの初老の男が軽やかに歩いてくる。
(柵を乗り越えたのか? 馬場と観客の間には警備員も立っているのに止めなかったのか? 観客も何故騒がないんだ?)
数秒のはずなのに、宏幸の頭の中が渦巻いている。
マサルはゲートの向こうへ行こうとしているのか、立ち上がったまま首を激しく上下に動かし、引き綱を持つ厩務員を振り払うと、目の前のゲートに突進した。
宏幸は必死に手綱を握っていた。
だが、前扉を開けて飛びだしたマサルに振り落とされていた。頭から馬場へと叩きつけられていた。
☆
貫太郎は目を見開きながら体の半分が馬場に飛びだしていた。その目線の先で
(マサルが立ち上がったのか?)
離れていてよく見えない。視線は馬場の内にある大型のオーロラビジョンへと走る。
首を上下させるマサルが映しだされている。
(まずい!)
そう思った瞬間、マサルが扉を開けて飛びだしていた。
立ち上がっていたマサルは、前につんのめるように前脚をついたので、騎手が前方へと振り落とされている。
~オーロラビジョンにマサルの走る姿が映しだされている~
☆
「えっ」
思わずそんな声が口から洩れた。
奈々子はとにかく白い馬だけをずっと目で追っていた。そしたら、その白い馬――マサルは狭い所に入っていく瞬間に立ちあがっていた。その後見えなくなってしまった。
なんだか、周りがざわついている気がする。
でも、競馬が初めての奈々子には何がどうなっているのか分からない。
キョロキョロと動いた視線は、存在感充分に立ちはだかるオーロラビジョンで止まった。
~マサルの走る姿が映しだされている~
☆
坂本はウキウキした気分でオーロラビジョンを見つめていた。
見つめていたと言っても、頭の中では白い馬が先頭で目の前を駆け抜け、マキが坂本の肩の上で大喜びしている姿を想像していたので、ただ目の中に映っているという感じだった。
だから、オーロラビジョンに映る白い馬が立ちあがり、騎手を振り落として、走りだしても気付かず画面を眺めていた。
それでも、さすがに周りの変化。ざわめきに気付き、周りを見渡した。
ざわめきの根源。視線の先を追えば、オーロラビジョンには一頭の馬が映しだされている。
~マサルの走る姿が映しだされている~
☆
「マサル……大丈夫か?」
健太は背伸びをし、首を伸ばしてスタート地点のほうを眺めたが、離れていてよく見えない。
自然と視線はオーロラビジョンへと向かった。
~マサルの走る姿が映しだされている~
☆
信一はまだ後悔しながら自分への問いかけを続けていた。
そんな信一の目には映っていないが、オーロラビジョンには一頭の走る馬の姿が映っている。
~マサルの走る姿が映しだされている~