カーニバルもフィナーレだよ
スタンドにも多くの人がいるが、馬場に面したスタンドの下には、もっと多くの人が集まっている。
観客の見つめる先にはスタートゲートがあり、ゲートの後ろでは馬たちが騎手を背に、引き綱を引かれて円を描くように輪乗りをしている。
このスタートゲートの位置はレースの距離によって、それぞれの場所に移動される。そして、今日の最終レースである千ハ百メートルのスタート位置は観客の正面で、時計回りに一周と少し走ったところがゴールとなる。
観客たちのボルテージは、頂点に近づいている。ファンファーレも鳴り終わり、馬たちがゲートに入るのを、ワクワクしながら見守っている。
☆
貫太郎はスタンドの横に立っていた。そこにはレースを終えた馬たちが全て集まってくる。
マサルもレースが終わればここに戻ってくる。だから、本来なら引き綱を手にマサルを迎えるはずだが、今は何も持たずに立っている。
パドックの出来事に関して調教師に厳しく叱責され、本来の業務から外されていた。
その年下の調教師の言っている事は全て正しかった。だから、貫太郎は黙って素直に聞いていた。でも、最後に言った言葉には素直に従うことができなかった。
「もういいです。今日はこのまま帰ってください」
その言葉には従えず、今ここに立っている。そして、眺めるように馬場へと視線を向けている。輪乗りを続けるマサルを見つめている。
~マサルが輪の中から外れ、一頭だけゲートに誘導されている~
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奈々子はスタンド下に立っていた。初めて生で競馬を見る奈々子はできるだけ近くでレースを見たくてスタンド下にやってきていた。
返し馬(レース前に馬場を軽く走るウォーミングアップ)を終えた馬たちはほんのり汗をかき、照明で馬体が輝いている。
もっと近くでお馬さん見たい。そう思うのだが、人の多さに圧倒され、前に進む勇気がでない。
立ち止まる奈々子の横をさらに人が流れていき、人の頭で視界がさえぎられていく。人を避け、なんとかお馬さんが見えるところへと、移動していると、いつのまにか端のほうまで来ていた。
スタンド下やゴール前、スタート地点付近には人があふれていたが、ここはガラガラである。
レース後には、奈々子も知ることになる。ここが空いている理由――ここからではゴールが遠いので、馬の着順が全く分からないのだ。
柵前(馬場の目の前)に立つ奈々子、その横は引き込み口になっている。ゴールした馬たちはそこを通って、馬場からスタンド横へと引き上げていく。
その場所に白髪男性の姿がある。馬場への出入り口から身を乗りだすようにして、スタート地点を見つめている。
奈々子は手にある馬券に目を向けた。
【マサル】
しっかりとその名が印刷されている。
奈々子は首を伸ばし、背伸びをしながら、離れたところにあるスタート地点へと視線を送った。
馬たちがグルグルと規則正しく並んで回っている。奈々子はマサルの姿をさがした。まるちゃんが教えてくれた言葉を頭に浮かべながら、
「芦毛はマサルだけか。高齢馬だから、白くなっているだろうし。これはいいねぇ! レースを見る時は白い馬を見てれば大丈夫だよ。それがマサルだから」
新聞を見ている時に教えてくれたその言葉は、彼の大きな体と同じように頼りになった。その真っ白な馬体は、どの馬よりライトで輝き、すぐに目に入ってきた。
(彼氏と同じ名前の君に全てをゆだねます。君が勝ったなら今までどおり〝まさる〟と付き合い。君が負けたなら……)
なんとなく流され生きてきた奈々子の、ふとした思いつき。くだらない賭け。でも――これは真剣勝負。
運命の神様! あなたの答えは?
~マサルが輪の中から外れ、一頭だけゲートに誘導されている~
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マキが一生懸命背伸びをしている。でも、周りを人に囲まれて、まったく馬が見えていないようだ。
「ほら、あっちのほうが空いてそうだから、あっちに行こうか」
坂本の言葉にマキはうなずいた。
あいかわらず沈んだ表情だったが、なんだか会ってすぐの頃とは違ってきている気がする。とにかく、この子の表情を見ていると父親への怒りがこみ上げてくる。
マキの手を握り、この子の父親のことを考えながら歩いていた。
ふと気付くと、周りには人がまばらにしか見当たらない。どうやら端のほうまで来てしまったようだ。
マキがなんだか不満そうな表情で坂本を見上げてくる。
表情を?
(おう、そうか! 表情だ。さっきまでは無表情だったけれども、表情がでてきてるぞ。少しだけど……)
坂本は少しだけホッと胸をなでおろした。とにかく、あの無表情さは本当に胸が苦しくなる。
マキは顔を坂本から馬場のほうへと向け、必死に背伸びをしている。人が周りからいなくなったとはいえ、遠く離れてしまったので、よく見えないようだ。しかも、目の前の柵はマキの背ほどある。
白ウマのぬいぐるみを抱えて、飛び跳ねたりしている。
その姿に、思わず微笑んでしまう。
子どもらしさが戻りつつある気がする。今度は笑顔だって見てみたい。
坂本はマキの後ろにまわり、両手を脇に入れると、高々と持ち上げた。そして、肩へと乗せた。
「うわぁー」
なんだか、そんな声がしたような気がした。笑顔が広がる楽しそうな声がしたような。
~マサルが輪の中から外れ、一頭だけゲートに誘導されている~
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健太はファンファーレを耳にしながら、スタンド下に立っていた。
周りには数えるほどしか人の姿はない。普段なら最終レースはゴール前で、常連客と一緒に見ることが多かったが、今は人が少ない端のほうに立っていた。
紳士の言葉を聞いて、心はだいぶ救われたが、どこかでまだ引っかかっている。足は自然と人が少ないほうへと向かっていた。
まるで魚の小骨が引っかかっているようだ。
その小骨は気になってしょうがなく、飲み込もうとしても、飲み込むことができない。きっと、そんな小さな骨はほっておけば、知らないうちになくなるだろう。でも、やっぱり気になってしょうがない。
顔を上げると、近くにいる若い女性が馬場を見つめている。
その近くにいるのは親子だろうか? 女の子が肩車をされながら馬場を見つめている。
健太は彼女たちと同じほうに視線を向けた。
~マサルが輪の中から外れ、一頭だけゲートに誘導されている~
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信一はフラフラと歩いていた。
頭は〝後悔〟と〝謝罪〟の気持ちで埋めつくされている。
彼の中で胸のポケットにある馬券、それはすでに【ハズレ馬券】になっている。マサルが勝つことなどありえない。そう確信しているから……。
(この二十万のために、父さんはどれだけ魚を売ったんだろう。母さんはどれだけ「ありがとうございます」ってお客に頭を下げたんだろう。俺はどれだけ二人を裏切ってきたんだろう。何をするために東京にきたんだろう。親は俺の何に期待しているんだろう。俺はどうなりたいだろう)
茫然としたまま、人をよけながら歩いていたら、スタンド下の端まできていた。目の前に柵があるから、足が止まったといった感じだ。
今、誰もが砂舞台の上にいる役者たちに目を向けている。
~マサルが輪の中から外れ、一頭だけゲートに誘導されている~