予備校生――信一
競馬場近くの銀行を出てから 信一の左手はずっと後ろポケットを押さえている。そのポケットの膨らみ――二十枚のお札はたいした膨らみでもないし軽いのに、信一にとってはジーンズがズリ落ちてしまいそうなほど重かった。
信一は予備校に通い始めて、二年目を迎えていた。
「一流の大学に入るには東京の予備校に通わないと難しいんだ」
そう言って、高校卒業後、東京にやってきた。でも、本当は〝やる気〟さえあれば、地方都市である地元の予備校で充分だということは分かっていた。分かってはいるけど、とにかく東京に住んでみたかった。
両親はその言葉を信じ、東京へ送りだしてくれた。
駅まで見送りにきた母は「がんばりなさい」と言って、期待を込めた目を向けながら送りだしてくれた。
魚屋をしている父は何も言わずに、魚の仕入れのためにトラックで朝早くにでていった。そんな親の期待に応えようと、東京にいっても勉強だけは頑張ろうと思っていた。
しかし、東京はすごかった。いわゆる田舎ではなく、地方都市に住んでいた信一にとっても、東京はすごかった。
強い決意でなければ、簡単に吹っ飛んでしまう。そんな魅力が溢れている。
昨日の信一はパソコンの前に座り、手には競馬新聞を持っていた。信一が競馬を始めたきっかけは予備校の仲間に誘われたからだった。
気晴らしを言い訳に誘われるがままに大井競馬に行っていた。そして、アパートが競馬場に近いことも相まって、すっかりハマってしまっていた。
パソコンの画面には、あるブログが映っていた。
毎日のように確認するそのブログには【絶対! 勝負すべし】と、ある馬の名前が載っていた。
このブログが、ここまで自信をもって勧めてくることはめったにないが、堅い(配当が低い)がほとんどが当たっているといった感じだ。
体中に血が駆けめぐり、頭へと集まっていく。
(間違いない! どう考えてもこの馬はくる)
有り金勝負!
でも、すぐに気付く――金がない。
遊ぶ金欲しさに、予備校へもろくに通わずに始めたコンビ二でのバイト。だが、夏というのはいろいろ誘いも多く、今月はバイト代も、親からの仕送りも、使いきってしまっていた。
(これは大チャンスなんだ! もし、金を増やせれば、バイトを休んでちゃんと予備校にも行けるじゃなか)
本当は、金を増やして遊びたいだけだったけれど、どこか後ろめたさを感じ、やりもしないことを言い訳に自分を納得させていた。
馬券を買うことは、もう最高裁の判決と同じ、変えようのない決定事項になっている。ならば〝金〟を求めて――手にした携帯電話の画面には、登録してなくても掛けることができるほど頭に滲みこんだ数字が並んでいる。
信一の脳が言い訳を求めて動きだす。
そして、発信ボタンは押された。
「特別講習があって、どうしても明日までに申し込まなきゃいけないんだ。だから、お金が――」
信一の言葉を母親は信じてくれたのだろうか……?
今日、銀行に行ってみると、お金は振り込まれていた。
心の中では感じている。このままじゃダメだって。両親に申し訳ないって。いつも、心の中では謝っていたいし、こんな自分にも嫌気がさしていた。
でも、東京の流れは強烈だった。意思の弱い信一なんて、簡単に流されてしまう。楽なほうへと。
今、信一は絶対の自信がある馬の番号を塗りつぶしたマークカードを手に列に並んでいた。
順番が回ってくると、二十枚のお札とマークカードを機械の中に入れた。すぐに機械から馬券が出てくる。
その馬券を手にし、目線を馬券へ――なんだか体が寒い、目がかすむ、体の力が抜けていく、呼吸が苦しい。
信一は足を踏ん張り、必死に酸素に食らいついた。やっと酸素が頭に到着した時、「ウォー」と叫んでいた。
周りの人の目が集中したが、そんなことはどうでもいい。すぐに機械と機械の間にある窓口に駆け寄り、中に向けて叫んだ。
「だれか! だれか!」
透明なアクリル板をはさんで女性の係員が現れた。そして、小さく開いた丸い穴から、
「どうしました?」
「ば、ば、馬券を買い間違えた。変えてください」
板にすがりつくように、ピッタリとくっつく。
「申し訳ありません。当競馬場では、一度ご購入いただいた馬券をお取り変えすることはできないことになっております」
「できないって! いくら買ったと思っているんだ。二十万だぞ!」
「そう言われましても、当競馬場ではお取り変えできませんので」
「うそだろ。ちょっとこれ見てみろよ! こんなクソ馬じゃあ、どうしようもないんだよ」
透明な壁に馬券をくっつけ、半泣き状態で必死に訴えた。
「そう言われましても、お取り変えはできませんから」
係員は冷静に同じトーンで答える。
薄い板を挟んで、流れる空気はまったく対照的だ。
「分かった。取りかえられないなら、馬券を渡すからお金を返してください」
爆発しそうな怒りの水を必死にダムに貯めて、精一杯冷静な声で言った。
「それも、できないことになっています」
ダムは決壊した。怒りの水はダムからあふれだした。その勢いは、もう止められないくらい激しかった。
「ふざけるな! なんで今、ここで買った馬券が払い戻せないんだよ。ほら、これ返すから金くれよ!」
小さな窓から馬券を押しこんだ。
「そう言われても、できませんので」
あいかわらず冷静な口調で、馬券を戻してくる。
「とにかく金、金返せよ!」
戻された馬券を受け取らず、腕を組んで怒鳴った。受け取ったら、この悲しき現実を受け入れることになってしまう。
その時、怒鳴り声を聞いて、数人の警備員が集まってきた。
警備員は係員から事情を聞くと、信一を納得させようと話しかけてきた。
そんな声には耳を傾けず、とにかく透明な板を叩くような勢いで係員に訴えた。
突然、ベルが鳴りだす。
そのベルを合図に周りを取り囲むように集まっていた野次馬たちが、次々といなくなっていく。この発売締め切りのベルを聞き、レースを見るために人々はスタンドへと向かっていく。
もう、信一は怒鳴ってはいなかった。ただ、目に涙をためながら頼みこんでいた。
「お願いします。お願いしますから」
しかし、係員は「すいません」と言う言葉を残し、馬券を警備員に預けて、奥へと姿を消してしまった。
信一は警備員に引っ張られるようにその場から離される。
この日の全ての発売を終えた馬券発売機は全てのシャッターが閉まり始めた。
信一は魂が抜けたようにガックリと肩を落としていた。もう叫ぶことも、泣きわめくこともなく、ただ立っていた。
一人の警備員が馬券を信一の目の前にかざした。
【マサル】と印刷された文字が目に映る。買いたかった馬の隣の番号の馬……。
目にはただ映っているだけで、信一は何も反応しなかった。
警備員はその馬券を信一のシャツのポケットに入れると、二度ほど肩を叩き、去っていった。
他の警備員も続くように去って行く。
やがて、発走準備の合図である、トランペットによる生ファンファ―レが場内に響き渡り、歓声があがった。
信一の思考は完全に停止している。
しかし、ファンファ―レを聞いたら、習慣で体が動いていた。フラフラとスタンドに向かって進んでいた。
あーあ、なんともかわいそうに。
ひとつため息をつくとボクもスタンドへ向かって走りだした。
ボクはスタンドを上へ上へとのぼっていく。
ボク専用のルートを飛び跳ねるように駆けのぼる。そして、お気に入りの場所までやってくると、前を見渡した。
そこには、ライトに照らされ、白く輝く砂の舞台が広がっている。
レースを見る時は、いつもここにやってくる。ここならレースは勿論、それを見ている観客も見渡せる。
ほら、彼らもいるよ。
ボクは気になる彼らに目を向けた。そして、気持ちを集中させると、心を覗きこんだ。そしたら見えてきた。彼らの心の中が。