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さよなら噛みつきヒーロー  作者: ゆらゆらゆらり
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公認場立ち予想屋――健太

 健太はいつものように、決まりの白いシャツに白いキャップで、胸に競馬場公認の身分証明プレートを付けて、パドックの一番前で柵に肘を置くようにしていた。

 手には新聞とペン、それに独自のデータ表がある。

 パドックには数人のお客と、健太と同じ格好の予想屋が数人いるだけだ。

 ほとんどのお客も他の予想屋も、もうすぐ発走のメインレースを見るために本馬場のスタンドに集まって、スタートを待っている。

 熱気あふれるスタンドとは対照的に今のパドックは静かで寂しいくらいだ。


 そんな中、最終レースに出走する馬たちが姿を見せ、厩務員に引かれて円を描くように歩きだした。

 レースが終われば、このパドックにも人が押し寄せてくる。

 今のような静寂の中で、馬の状態をしっかり見極めるのが健太のいつものスタイルだった。


 柵を挟んで健太の前に白い馬がやってきた。

 健太の前にやってくると、まるで噛みつこうとしているかのように、歯をむきだしにしてきた。

 この白い馬、マサルはいつもそうだった。

 デビュー戦の時から、何故だか健太の前にくると噛みつこうするかのように、歯をむきだしにした顔を向けてきた。

 もちろん、厩務員がしっかりと引き綱を持っているし、柵だってあるので噛まれることはない。だけど、馬の大きな顔が近くまで迫ってくると、やはり恐いもんだ。

 はじめの頃は一歩、二歩と後ずさってしまっていた健太だったが、毎回そうされているうちに、逆に楽しんでいる自分がいた。


 そして、健太はある事にも気付いていた。

 マサルは一緒に歩いている厩務員のことをよく噛んでいる。

 その光景は、噛んでいるほうも、噛まれているほうも何だか楽しそうに見えていた。

 手綱を持つ厩務員は、最初の頃は必死に引き綱を引き、叱っていたが、いつしか引き綱を緩め、健太に噛みつこうとしているマサルを少し微笑みながら見るようになっていた。


 今日もマサルは歯をむきだしにし、顔を近づけてきた。

 そんなマサルの姿を見て、厩務員はいつものように微笑み、一瞬だけ健太に顔を向けた。健太も微笑み返す。

 今はこの歯をむきだしにして顔を向けてくるのが、笑顔いっぱいに挨拶されているように感じていた。

 きっと動物を飼っている人が、家族と一緒だというのと同じ感覚になっているのかもしれない。


 やがて、場内にトランペットによる生ファンファーレが響き、歓声があがった。

 健太はパドックを離れ、近くにあるテレビモニターへと移動する。

 モニターにはレースの模様が映しだされ、健太はじっと見つめていた。


「よっしゃー!」


 メインレースの予想が的中し、思わず飛びだした声とともに 拳を握った。


 その後、もう一度パドックに戻って、最終レース出走の馬たちの状態を確認する。そして、スタンドからパドックへと押し寄せてくる人の流れに逆らうように、スタンド前にある自分の予想台へと向かった。

 歩きながら、一度だけ振り返り足を止めた。

 パドックに集まる人の間から白い馬体が少しだけ見える。でも、その姿は次々と集まる人の壁で見ることはできなくなった。

 数日前に知り合いの馬主からマサルがこのレースで〝引退〟すると聞いていた。


「マサル……」


 そんな声が漏れ、健太はパドックに背を向け、自分の戦場へと向かった。




 予想台に戻ると、後ろの壁にある紙の中の数字を赤いマジックで囲った。そして、前へと体を向けると、


「ありがとう、取った(馬券的中)よ」


 そんな声が集まったお客から次々とあがり、常連からは〝ご祝儀(千円札)〟が健太の手に渡された。


「ありがとうございます」


 予想を買ってくれた全ての人に、感謝を込めて、そう応える。

 予想をはずして、ヤジられる事もあるけれど、この笑顔の「ありがとう」という言葉にはなんともいえない喜びがある。

 だから、健太は人一倍、予想には信念をもって挑んでいる。


 健太は台の内側にある抽斗を開け、太い赤マジックを取りだすと、後ろの壁にあるホワイトボードにデカデカと文字を書いた。


【本日の勝負レース】


 普段のレースではこのホワイトボードを使って、レース展開の予想や馬の状態などを説明していたが、一日に一度だけ自信のあるレース時、ホワイトボード一面にこの言葉を書いていた。

 だからこそ、お客は健太の【本日の勝負レース】を楽しみにし、予想に期待している。

 それは重々承知している。当然、気合いも入っている。


 健太の予想は基本的には三点予想で、一着と二着を順番どおりに当てる馬単予想だった。軸になる一頭を決めて、そこから三頭の馬に流す、三つの馬単予想だ。

 この最終レースは昨日の晩からデータや過去レースを調べ、最後に馬の状態を確認して、軸となる馬は自信を持って決めることができた。

 二十歳から弟子として先代の下について八年、先代の引退で予想台を引き継いで三年、経験を積み重ねてきた中で、自信をもってすすめることのできる馬だ。


 特製のスタンプを引き出しからだし、数字を動かし始める。

 そのスタンプの全面はいくつかの数字が横に並んでいる。

 健太は指で数字を回しながら、自分の思う数字が全面にくると指を止め、次はとなりの数字を回していった。これを何度か繰り返していく。

 スタンプの全面に

 8-11 8-5

 という数字を並べた。

 三点目は必要ない。自信の二点勝負。

 健太はその数字を確認し、インク板にスタンプを押しつけようとした。しかし、その手は止まっていた。


 なんだか騒ぐ声が遠くから聞こえてくる。

 どうやら騒ぎは、パドックのようだ。一瞬、パドックの人垣の向こうに、立ち上がった白い馬体が見え、その後に何頭か立ちあがる馬の姿も見えた。


(マサルが暴れたのか?)


 頭の中に歯をむきだしにして笑うマサルの姿が浮かんだ。

 自然と指が動き、最後に8‐9という目を加えていた。本来なら予想に入ることのない数字を。


 健太は大きく息を吐くと、


「さぁ、お待たせしました。本日の勝負レースです。つべこべ説明はしません」


 そう言った後、前を向いたまま後ろのホワイトボードを拳で叩き、叫んだ。


「勝負だ!」


 集まった人たちが百円玉を次々と予想台の上に置き、手を伸ばす。

 その手に予想をスタンプで押した小さな紙を握らせていく。

 人が集まっているところには、さらに人が集まる。常連以外の人も次々とやってくる。


 予想を手にした人々は、馬券を買ったり、検討したりするために、それぞれの方向に散っていく。

 人々が去ると、健太の興奮も去っていった。


 頭が冷静になると、自分の手にある予想の紙が大きな重しとなって、後悔の渦の中へ沈められていくようだった。


 思わず書き変えてしまった最後の目(数字)。


 健太は予想の紙も道具も引き出しの中へとしまった。

 後ろのホワイトボードの文字も殴り消した。


 そこに若いカップルが近づいてきた。

 女性が握っていた百円玉をだし、


「あの、予想の紙をお願いしたいんですけど」

「今日は、もう売り切れました」


 健太は頭を下げて、そう応えた。


「……」


 女性は絶句している。

 当たり前だ。ここは人気のラーメン屋でもなければ、限定販売のお店でも、品切れ続出の超安売り店でもない。売りきれることなどありえない。


「おいっ。紙がなくなったのなら予想の目だけでも教えてくれよ」


 女性の後ろから男が声をあげた。


「すいません。今日はもう終わりでして」


 もう一度頭を下げる。


「はぁーん? もういいから帰ろうぜ」


 若いカップルが怒りをあらわにして去っていく。

 健太はただただ頭を下げていた。


 健太は台を下りると、台の横に立った。

 予想をこれ以上売ることはできないが、一度売った物に関しては責任がある。だから、最終レースが始まるまでは逃げだすわけにはいかない。


 他にもパラパラとお客はやってきたが、「今日は終わってしまって」と言いながら頭を下げた。

 訳の分からない理由に、怒りだす人もいれば、あきれて無言で立ち去る人もいた。


「健太くん。こんにちは」


 うなだれるように立っている健太の耳に、そんな声が届いてきた。

 顔を上げると、そこには高級スーツに身を包み、白髪ながら豊富な髪をきちんとセットした老紳士が立っていた。


「こんにちは。今日は姿が見えないので、いらっしゃらないかと思っていました」


 この紳士は競馬場近くで小さな会社を経営しており、ナイター競馬の開催中は毎日のように顔をだしていた。

 そして、競馬場に来れば、必ず健太の予想を買ってくれていた。


「うん。今日は来る予定じゃなかったんだけど、彼と飲んでいると、競馬の話しになって。そしたら彼が『いきましょう』って言うから、急いでやってきました」


 そう言って横にいる三十歳くらいのビジネスマンに目を向けた。彼は相当飲んでいるらしく、フラフラと揺れている。


「私の同僚なんだけど、普段はおとなしいのに、酒が入ると言いだしたら聞かなくてね」


 紳士は苦笑いを浮かべ、


「店を出る時は、元気だったんだけど、タクシーに揺られているうちにすっかりしぼんじゃったようです」


 そう言いながら彼の肩をポンっと叩き、健太のほうへと視線を戻した。


 健太はこの紳士を、とても尊敬していた。

 小さな会社だからかもしれないが、社長であるにもかかわらず部下を同僚と呼び、仲間の話しでもするように楽しそうに会社の人のことを話してくれる。

 いつも柔らかに微笑んでいるその姿が、とても好きだった。


「それより健太くん。どうしたのかな?」


 台を下りている健太の姿が気になったのだろう。


「えー、ちょっと」


 健太は下を向いてしまう。

 紳士からは何も聞こえてこない。でも、健太が顔をあげると、待っていたかのように微笑みが迎えてくれた。

 健太の口は自然と動いていた。


 これまでの自分とマサルの話をした。そして今、どんなに考えても馬連に絡むことはないと判断したのに、引退レースであるマサルへの想いと感傷で予想の三点目として入れてしまったことを語った。


 無駄目。


 本日の勝負レースというのは、予想屋健太にとって【看板】であり、【プライド】である。お客さんもその事を承知しているから、賭ける金額を増やしたり、このレースだけ買う人だっている。

 そして、全面的に健太を信頼しているお客は、ダメだろうと思っている馬でも予想の中に入っていれば、少額だったとしてもその馬券を買う。

 だから、自分の判断の中でこないと思っている馬を予想に入れることは、お客も自分自身も裏切ることになる。

 予想にこだわりと信念をもってきた健太には時間が経つにつれ、この事が重く重く圧し掛かってきていた。


「だから、もう予想を売ることができなくて……」


 健太はうなだれた。


「バカじゃねーの!」


 その声に顔を上げると、さっきまで目を瞑ってフラフラしていた男が、ぼんやりと目を開き、体をふらつかせながら健太を見つめている。呂律もしっかりはしていない口で、


「そんなこと気にして。たかが二百円の予想だろう。どんどん売りゃいいんだよ」


 言葉と同時に健太は怒鳴り返していた。


「そうだよ。たかが二百円だよ! でもなっ、小さな紙切れに俺の〝プライド〟と〝タマシイ〟を込めてんだよ! だから――」


 言葉が続かない。

 発する言葉が自分へと跳ね返ってくる。お客を裏切った自分へと。


 突然怒鳴られて、男は酔いがさめたように目を見開いて驚いている。

 健太はすぐに頭を下げた。


 こんなふうに思うのは彼だけじゃないだろう。

 ほとんどの人が鼻で笑ってしまうような事かもしれない。予想を買ったお客でさえ、たいしたことだとは思ってないかもしれない。


 でも……自分への怒りが込み上げてくる。。


 肩が叩かれた。

 顔を向けると、紳士は黙ってうなずいた。


「健太くん。君がもし後悔しているなら、二度とそのような予想をするのはやめなさい。そして、今にも増して〝プライド〟をもって、〝タマシイ〟を込めて予想をすればいいんです」


 そう言って微笑む姿に、自然と声が漏れる。


「はい」


 健太は頭を下げた。


「でもね、そんな予想もいいのではないでしょうか?」


 紳士の言葉に顔を向けると、


「思い入れのある馬を予想に入れてもいいと思います。君がこの台の上で説明すれば、いいと思います」


 言葉もないまま、ただただ見つめている健太に、紳士は微笑みながら言葉を続ける。


「だって、君が話す〝噛みつきマサル〟の話は本当に楽しかった。もっともっと競馬が好きになりました。馬券をはなれて、馬の物語に心がひきつけられました。だから、君がこの台の上で、そんな物語を語ったなら、きっとお客は喜び、また違った思いでレースを見ることができる。レースの楽しみが広がると思いますよ」


 紳士の言葉に、渦の底から引きあげられるようだった。大きな重しがはずれ、でも、足には何かが絡んでいる。まだ心の中で引っかかっているものがある。


 紳士は、まだ浮かない顔の健太に二、三度うなずいて見せ、茫然と立ちつくしている男の背中を押しながらスタンドに向かって歩きだした。

 ふと、紳士が足を止め、振り返り、


「健太くん。私はマサルのレースが楽しみでしょうがないです。マサルの最後の勇志をぜひ見たいと思います」


 紳士たちはスタンドへと消えていった。






 ボクは台の横に立つ男を見つめていた。

 男の表情は引き締まっているように見える。

 きっと、何かを決意したんだろう。今後、この男がどんな予想をしていくのか、なんだか楽しみだ。


 ボクもマサルのレースが気になり、スタンドに向かおうとすると、ある若い女の人が目に止まった。

 その人はスタンドの下の馬券売機の近くで、馬券購入用のマークシートを手にして戸惑ているのか、キョロキョロしている。

 ボクはその女の人が気になり、気持ちを集中させると、彼女の心を覗きこんだ。そしたら見えてきた。心の中が。

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