騎手――宏幸
(大丈夫そうだ。さっき、あんなことがあったけど落ち着いている)
宏幸は目の前の姿をみて、安心し、白い馬に跨った。
(マサ。今日が最後だ。お前の大好きな貫さんのためにも、がんばろうなぁ)
地下道に視線を送りながら、マサルに心の中で話しかけた。
ぼんやりとした薄明かりの地下道に、小柄な白髪姿はもうなかった。
宏幸にとってマサルは思い入れの強い馬だ。
まだ新人だった宏幸が、デビュー戦から跨ってきた馬であり、一緒に成長してきた馬、いや、戦友だった。
でも、その思いは一方通行のようで、マサルは宏幸に対し、決して心を開いてはくれなかった。
ムチを振るい、苦しい思いをさせる宏幸のことが好きではないのかもしれない。マサルが噛みついてくることは一度もなかった。だから、噛みつくマサルを笑いながら叱り、じゃれあう貫太郎を羨ましく感じていた。
宏幸は目線をチラッとパドックに集まった観客に向けると、思わず舌打ちをした。目の中にあの男が映ったからだ。
普段は観客を見ることなどなかったが、今日の一レースのパドックで馬に跨っている時に、目を向けずにはいられないほどの鋭い視線を感じ、思わず視線を送ってしまった。
視線の先には、よれよれのスーツを着た冴えない初老の男が、柵にへばりつくように立っていた。
そんな感じの男は競馬場では珍しくないし、特に気にはならないのだが……。
男は、パドックで円を描いて回る馬上の宏幸が、近くにくると
「最終レースは乗るな!」
そう叫んでいた。でも、それも、よくあるヤジの一つだと思っていたのだが……。
人気騎手になった宏幸は一日のほとんどのレースに騎乗している。
この日もそうだったのだが、男は毎回、パドックの同じ場所に現れ、同じ言葉を発していた。その口調がレースを重ねるごとに強くなって、最終レースを迎えた今は「乗るな! やめろ!」と声をからしながら叫んでいた。
何度も、何度も。
そんな大声で叫ぶ男を周りの観客は、関わりたくないと思っているのか、目線すら向けていない。
近くの警備員も、少しタチは悪いが、ヤジを飛ばす観客の一人として、大目に見ているのか、何も言わない。
周回を終えた馬たちが、騎手を背に、厩務員に導かれて地下道に消えていく。宏幸とマサルも地下道に向かっていた。
「乗るな! 宏幸」
絶叫のような声が背後から聞えた。しかも、宏幸という名前まで叫ぶ男が、何だか気味悪く、ぶるっと体が震えた。
パドックから馬が消え、集まっていた人々がそれぞれの方向へと散っていく。そして、レースが行われる馬場に面したスタンドへと飲み込まれていく。
ボクの横を人々が流れていく。
何故だろう?
何で、あの男は必死に最終レースに乗ることを止めるのだろう……?
叫んでいた男もスタンドに向かって歩いている。ボクはその男が気になり、気持ちを集中させると、その男の心を覗きこんだ。
そしたら――見えてこない。
何故だか男の心の中が見えてこない。
あの人はもしかしたら……。
叫んでいた姿を思いながら、男が立っていたパドックのほうへと視線を向けた。
パドックには、赤ペンを手に新聞とニラメッコをしている人たちが、ぽつぽつと残っている。
そんな中、ひとり立っている小学校低学年くらいの女の子が目に止まった。そこにひとりの男が近づいている。
ボクは気になり気持ちを集中させると、その男と女の子の心を覗きこんだ。そしたら見えてきた。彼らの心の中が。