ゴミ箱へのプレゼント
奈々子は余韻にしたるように、しばらく馬場を眺めながら、今日のことを思い出していた。
ふと、笑みがこぼれる。いつもと違い、積極的に動いていた自分になんだか笑ってしまった。
(どうしたんだろう……今日の私は)
なんだか少しだけ嬉しい。
なんだか少しだけ気持ちがいい。
なんだか少しだけ変われたような気がする。
奈々子は軽い足取りで出口へと向かう。
そその時、どこからか大声が、
「ワン・ツウ・ワン・ツウ・スリー・フォー」
周りの人たちが足を止め、声のしたほうへと視線を送っている。奈々子もつられるように、視線を送ると、
(野外ステージだろうか?)
そこに一人立つ姿がある。
本当の名前は知らないけど、奈々子が勝手に〝まるちゃん〟と呼ぶ男性の姿に、思わず微笑んでしまう。
まるちゃんは奈々子と視線が合うとニッコリ笑い「いくぞー!」と叫んだ。そして、歌いながら踊りだした。
それは、ちょっと前の女性アイドルの曲で、振りはめちゃくちゃだった。でも、大きな体を軽やかに動かし、大汗をかいている姿は誰もが笑顔になるような楽しさと、誰もが抱きしめたくなるような愛らしさがあった。
だってほら、みんなが嬉しそうに、笑顔で拍手を送っているでしょ。
奈々子はゆっくりとステージへと近づいていった。
その時だった。
奈々子の横を二人の男が駆け抜け、一気にステージへと上っていった。
「こら! 何してる。ダメだろ、ここにのぼっちゃ」
警備員が少し微笑みながら言った。
なんだか警備員も、そのまん丸顔の大きな男の踊りを本当は止めたくないような、もう少し見ていたいような、そんな感じに見えた。
でも、自分がまとっている制服がきまりを破ることを許してはくれず、止めに入ったという感じだ。
「すいません」
まるちゃんは苦笑いをし、顔をタオルで拭いた。
「はい、はい。下りて、下りて」
微笑みながら言う警備員の言葉に従い、素直に下りてきた。
警備員は「もう、のぼっちゃダメだぞ」という言葉を残し、去っていった。
警備員に頭下げたまるちゃんが、奈々子へと顔を向けた。苦いを浮かべばがら、奈々子のもとへ――とその時、
「ダイマル! バスに間に合わないよ」
まるちゃんはその言葉に後ろを振り返り、「ちょっとだけ。待っていて」と言い、奈々子のもとへと走ってくる。
「おーい! ちょっと」
そんな声がまるちゃんの後ろに見えるスーツを着た男性や、OLらし女性たちから聞こえてきた。だが、まるちゃんは無視するように奈々子のもとにやってきた。
「マサル、すごかったねぇ。さっきマサルをバカにするようなことを言っちゃたから〝お詫び〟と〝称賛〟を込めて、歌って踊ってみました」
笑顔で言うまるちゃんに、奈々子の顔も自然と緩む。
「そうですねぇ。マサルもすごかったけど、あなたのダンスもすごかったです。楽しかったです」
まるちゃんは照れくさそうに笑った。
そんなまるちゃんに「早く。乗り遅れちゃうって」という声が飛んできた。
「すぐ、行くって!」
振り返って答えた後、ポケットから何かをだし、ペンで何かを書いて、奈々子に手渡してきた。
「あっ、これ」
「なんか一緒に、応援したくなって買っちゃった」
奈々子は自分が手にしているものへと視線を落した。
馬券、そこにある【マサル】という印字に目が止まる。
「ダイちゃん! 早く」
女性のそんな声が耳に届いてくる。
まるちゃんは「すぐ、行くって」と顔を向けた後、奈々子にへと顔を戻し、
「ごめん。急がなきゃダメみたいで」そう言いながら、奈々子が手にしている馬券に視線を送り、「それ、俺の名前」
馬券にはサとルの文字の間にVがあり、その中にハの字があった。
「じゃー、呼んでいるから」
その声に視線を上げると、走り去るまるちゃん、いや、マサハルが目に映った。
一旦立ち止まったマサハルが振り返り、
「いらなきゃ、ゴミ箱にでもプレゼントして」
そう言って笑顔を向けるマサハルに、奈々子も笑顔で応えた。
マサハルが仲間たちのもとに戻ると集団は走り去っていった。
奈々子とは違うバスに乗るようで、別の方向の出口に向かっている。
(大きなマサハルで、ダイマルか)
突然、携帯電話が鳴りだした。
バッグから携帯を取りだし、画面で相手を確認し、電話を耳にあてた。
「奈々子! どうしたんだよ?」
そんな声が聞こえてくる。怒りと戸惑いが混じり合った声。
(そういえば、まさるは待たされるのなんて、初めてかもしれない。私はいつも待ってばかりだけど。だから、それにしても、今頃電話してくるってことは、今日も相当遅刻して駅に来たんだろう)
何やら電話の向こうで、まさるがしゃべっている。
奈々子はその言葉を無視するように、
「さようなら、まさる」
カラッとして、想いのこもっていない軽い、軽い言葉だった。
奈々子はスッキリした気持ちで電話を切った。
すぐに電話が鳴りだしたが、気にすることなく、電源を切って、バッグにしまいこんだ。そして、視線をもう一度、馬券に向けた。
「マサハルか」
そう呟き、名前の下に遠慮がちに小さく書かれた電話番号に微笑み、歩きだした。そして、ゴミ箱の前で立ち止ると、その中へ馬券をプレゼントした。
ゴミ箱の中に【マサル】と印字された馬券が舞い落ち、もう一枚の【マサハル】の馬券が大事に財布の奥にしまわれた。
「さよなら、まさる」
もう一度、そう呟くと軽やかな足取りで出口へ向かった。




