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さよなら噛みつきヒーロー  作者: ゆらゆらゆらり
2/23

厩務員――貫太郎

 厩務員である貫太郎はレース前のパドックで、担当馬であるマサルの引き綱を持って周回していた。


(お前も年をとっちまったなあ)


 並んで歩くマサルへと視線を向け、そんなことを思った。

 二歳で厩舎に入ってきた時は黒に近い灰色だったが、八歳になった今では貫太郎の頭のように、真っ白になっている。

 ふと、マサルが貫太郎のほうへと顔を向けてきた。


 真っ白な顔の中で、際立つ真っ黒な瞳。その少し潤んだ瞳は昔と変わらず、美しく輝いている。

 そう、あの頃と変わらぬ、心をつかみ取るような瞳。

 思えば、あれがもう八年も前ということは、マサルも年を取るわけだ。


 八年前のあの日、貫太郎は友人が経営する小さな牧場で、ある仔馬に出会った。

 その仔馬がこの世の空気を初めて吸った時、貫太郎も同じ空気を吸っていた。馬と一緒の仕事を四十年以上もやってきた彼だが、出産に立ち合ったのは、その時が初めてだった。


   ★


 友人とその家族が、母になるために闘っている馬を見守っている。

 どっしりと構える友人たちとは対照的に、貫太郎はうろうろとその場を動き回っていた。貫太郎だって馬を扱うプロだが、今は落ち着かずうろたえている。


 厩務員という仕事は、生き物が相手ということもあり、長期の休みをとることができない。だから長年、馬に携わっている貫太郎でも、牧場に足を運ぶことはほとんどなかった。

 今回は北海道で知人の葬儀があり、帰りがてらに大井の馬主で友人でもある牧場を訪れていた。

 そのタイミングがよかったのか、悪かったのか、こんな状況になっていた。


 何時間経っただろうか? いや、何十分しか経ってはいないのかもしれない。長い沈黙を破って、友人が静かに言った。


「よし。出てきた」


 前足が出て、やがて頭も出てきた。

 友人が静かに近寄り、仔馬の前足を引いた。

 貫太郎は、ただ目の前の神聖な光景と息詰まる空気に圧倒され、立ちつくしていた。


「貫さん、手伝って」


 友人が、必死に闘う母馬に気を遣い、小さな声を掛けてきたが、前を見つめたまま動けない。


「貫さん、こっち!」


 小さいながらも力のこもった声がさらに飛んできた。


 その声になんとか体が反応した。茫然としたまま近づき、言われるがままに腕を伸ばし、掴んだ手に力を込めた。

 緊張と興奮で思うように力が入らない。でも、無我夢中で引っ張った。


 突然、ふわりと抵抗がなくなり、しりもちをついていた。

 目の前には、赤や薄紅色の粘々とした液体に包まれた生命が横たわっている。


 自分の荒い鼻息がこだまする中、声が聞える。友人の妻と娘が、誕生した生命に布のようなものをあて、優しく声をかけ、手を動かしている。

 貫太郎は動くことも、声を発することもできぬまま、目の前の光景を見つめていた。


 気付けば、周りの空気が一変している。重たい空気が吹っ飛び、笑顔とともに柔らかで温かい空気に包まれている。

 目の前には、綺麗に体を拭かれた仔馬がうずくまっていた。


「お疲れ!」


 友人が貫太郎の肩に手を置くと、笑顔でそう言った。そして、母馬に近づいていき、首を撫でながら「よく、やった」とねぎらいの優しい声を掛けている。


 目の前では、仔馬が震える体を揺らし、フラフラしながらも立ちあがろうとし始めた。何度も転びながら、最初の試練を乗り越えるため必死に闘っている。


 貫太郎は黙って拳を握り、見つめていた。

 友人たちの熱い視線も仔馬に送られている。


 仔馬が――立ち上がった。足は震え、頼りないが間違いなく立っている。そんな仔馬の目の前には貫太郎がいる。


 視線が合わさった。


 きっと、目はまだちゃんと開いてはいないだろうし、霞んで見えてもいないだろう。貫太郎の目もなんだか霞んで、よく見えていない。でも、貫太郎と仔馬は見つめ合っていた。


「あれ? 貫さん、泣いているのか?」


 友人の笑い声が飛んできた。


「誰が泣いているか」


 急いで顔を拭った。そして、改めて仔馬に目を向け、声を掛けた。


「こんにちは」


 最初に掛けた言葉は、そんな普通の挨拶だった。




 その仔馬が二歳の夏に、どんな巡り合わせなのか、貫太郎がいる厩舎にやってきた。仔馬には名前が付いていた。

 マサルという競走馬としては何ともシンプルな名前が。


 貫太郎は、あの仔馬が自分たちの厩舎にやってくることを知って、調教師に担当させてくれるように頼みこんだ。いつもは調教師に言われるままに、指名された馬を担当してきた貫太郎が、初めて自分から頼みこんだ。

 譲れない思いで必死に。


 調教師は、勢いに押されたのか、何も言わずにうなずいてくれた。


 厩舎にやってきた二歳のマサルは、本当にヤンチャで元気いっぱいだった。すぐに人を蹴ったりして周りの人を困らせた。特に貫太郎にはよく噛みついてきた。

 そんなマサルを貫太郎はいつも叱っていたが、いつしか気付いた。噛むことが、愛情表現であることに。


 マサルは特に気に入った人だけ、噛みついていた。だから、貫太郎は毎日、噛みつかれた。噛みつかれると痛いけど、愛おしくてたまらない。


 普段はヤンチャだが、いざレースが始まれば一生懸命走る。勝つことはできなかったけれども、上位着順で善戦し、賞金を稼いで、大レースの一つである【東京ダービー】まで駒を進めた。結果は惨敗だったが、それからも怪我もなく走り続けた。


 成績は馬体が白くなっていくにつれて下降してきたが、七十戦近くも休まず走り続けてきた。でも、最近は力の衰えが明確で、ここ数戦は最後方からトコトコとゴールしていた。


 そんなある日、マサルの体を洗っていると、調教師が近づいてきた。


「貫さん。マサは今度のレースで引退させます」


 調教師は事務的に告げると足早に立ち去っていった。


 貫太郎も覚悟はしていた。マサルはもう限界であることは充分感じていたから。

 でも、改めて人から『引退』ということを言われると、その言葉は胸に突き刺さった。

 長年、厩務員をしてきたから、今まで何度も馬の引退には立ち会ってきたし、こういうことも経験してきたのに……今回のマサルは違った。その夜は涙が止まらなかった。


     ★


 数日前の調教師の言葉――引退――が頭をよぎり、思わず涙があふれだしそうになる。


「シロウマさん、がんばれ!」


 小学校低学年ぐらいの女の子がパドックの一番前で、柵に腕をかけ、身を乗りだすようにして声を掛けている。


(マサには、こんな小さなファンもいるんだ)


 貫太郎は観客のほうにチラリと視線を送り、心の中で呟いた。


 今日の引退の日まで、どれだけのファンがいただろうか。生涯一勝もできなかったし、ファンの記憶に残るような馬ではなかった。でも、必死に走り、レースを盛り上げてきた。


 マサが初めて感じた空気を共にし、人でいうところの青春時代や、働き盛りの頃、窓際へと追い込まれるように仕事場を去る今日まで自分の子供のように、共に過ごしてきた。そんなマサともうすぐ別れることになる。もう一生、会えなくなる。


 たいした活躍もできず、人を噛むクセのあるマサルは、種馬にも乗馬用の馬にもなれず、進む道は一つしかない。


 進むべき道は【死】しかない。マサルの意思に関係なく、人間の都合で道が決められ、短い生涯が閉じられる。


 もう瞬きすれば、涙がこぼれ落ちてしまいそうだ。


(こんな気持ちになるのは、俺が年を取って涙もろくなったからだろか。定年間際で感傷的になっているからだろうか。いや、違うだろ。きっと、マサだからだ)


 貫太郎は指の力を抜き、手を開いた。そして、引き綱から放したその手で、マサルの首を叩くと叫んだ。


「行け!」


(マサ、逃げろ! どこまでも逃げて行け! 人間の都合など関係ない、お前の進みたい道を走って行け!)


 そんなことをしても、意味はないし、すぐ捕まって決められた道に戻されることは分かっている。分かっているけど……体が動いていた。




 マサルは凛とした姿で立っている。

 誰もが口を閉ざしたまま、その姿を見つめている。

 マサルは首を叩かれたことに驚き、前脚を上げて立ち上ちがった。天まで届きそうな激しいイナナキが響き渡った。

 そのことに、他の馬が反応し、立ち上がったり、後ろ脚を跳ね上げたりした。なかには、厩務員の引き綱を振り切って、走り出そうとする馬もいた。


 だが、それはほんのひとときで、パニックになることなく事態はおさまった。


 ざわめきがウソのように静まり返る観客。立ち止る馬たち。

 そんな中、真っ白な馬の凛とした立ち姿が、ライトに照らされ、輝いている。


 マサルは立ち上がりはしたが、走りだすことも、暴れることもなく、その場に立ちつくしていた。


 ゆっくりと向きを変えたマサルが、貫太郎に向かって、首を伸ばし、何かを告げるように顔を寄せた。

 自分のこれからの運命を理解し、全てを受け入れているような優しい目をして、首をゆっくりと振りながら、頬ずりをしていた。


 貫太郎の体から力がぬけ、ひざから折れた。涙があふれだし、うずくまる。嗚咽とともに揺れる肩を、マサルが何度も噛んでいる。

 優しく温かい痛みに涙が止まらない。




 調教師と競馬場の主催者、別の厩務員たちが、駆け寄ってきた。

 二人の厩務員が両脇から、しっかりとマサルの引き綱を持った。

 調教師は貫太郎を無理矢理起こし、腕を引っ張って、パドックから馬場へと続く地下道に連れて行く。


 競馬場の主催者が文句でも言っているのだろうか。本当に苦々しい顔で貫太郎や調教師に何かを言っている。


 マサルが立ち去る貫太郎をジッと見つめている。二人の厩務員が引っ張ってパドックを歩かせようとするが、貫太郎の背中を見つめたまま動かない。


 貫太郎が振り返ると、マサルと目が合った。生まれてすぐのマサルと見つめ合った、あの日が頭の中に蘇る。

 あんなに小さく弱々しかった仔馬が、こんなに立派な姿になって、そこに立っている。


(さようならマサ)


 貫太郎は想いを込めて、深々と頭を下げた。マサルはそれに応えるように首を大きく上下させると、素直に二人の厩務員に従い、歩きだした。






 ボクも人の身勝手な都合に振り回された事もあったけど、今はここで気ままに生きている。

 でも、あのマサルという馬は、気ままに好きな所に行くことはできないんだね。生きることさえも……。


 人間は本当に自分勝手な生き物だよ!


 命を軽く扱い、無責任だよ!


 ボクはマサルへと目を向けた。

 マサルは何もなかったように落ち着いている。

 そんなマサルに青年騎手が跨ろうとしている。

 彼のどこか落ち着きなく、観客のほうへと視線を走らせる姿が気になる。

 ボクは気持ちを集中させると、その男の心を覗きこんだ。そしたら見えてきた。心の中が。

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