バカヤロウ
係員たちが放馬したマサルを捕まえるためにマサルへと近づいていく。
マサルは観念したのか、それとも疲れただけなのか、上げていた脚を砂の上に下ろした。だが、脚が着地すると同時に走りだしていた。
係員たちが手を広げて止めようとするが、マサルはステップを踏むようにかわしていく。そんなマサルの姿に観客は大喜びだ。
オーロラビジョンには映しだされた姿は、なんだか楽しそうに見える。砂の舞台は、まさにマサルの一人舞台になっている。
あっという間に向こう正面まで走っていってしまった。
だが突然、向きを変えたと思ったら、反対周りで戻ってきた。そして、スタンド正面にくるとスピードを落としながら走っていた。
それは少しでも観客に自分を見てもらい、自分のことを忘れないでと伝えているようだった。
マサルはスタートゲートの横を抜け、ゲート後ろで待っている馬たちの横も走り抜け、それでも走りつづけている。
マサルが行くところは一つしかない。そこに向かってゆっくりと走っている。
マサルが脚を止めた。
マサルの瞳には、目に涙をいっぱいに貯めた男が映っている。マサルは歯をむきだしにして、その男に噛みついた。そして、甘えるように頭を男の顔にこすりつけた。
☆
貫太郎は黙って何度も何度もマサルの首を撫でた。
(まったく、レースもしないで戻ってきやがって)
すぐに係員がやってきた。そして、引き綱を付けると連れていこうとマサルを促した。
だが、マサルは動こうとせず、顔を貫太郎に向けている。
貫太郎がうなずいてみせると、納得したのか、係員に従い引かれるままに動きだした。
貫太郎はいろいろな想いを飲みこむように、しっかりと口を結び、黙って見送った。
☆
奈々子は笑顔でいっぱいだった。
大画面の中のマサルのショーに大喜びしていた。
両脚を何度も上げ下げし、最後は高々と前脚を上げ交差させる姿は観客に拍手を求めているようで、奈々子は思わず拍手をしていた。でも、そう思ったのは奈々子だけではなかったようで、スタンド全体が拍手に包まれていた。
その後もマサルのショーは続いた。
軽やかなステップで人をかわしていく姿に、また観客から拍手が起こった。そして、マサルはショーを見てくれたお客にお礼をするように、スタンドの前をゆっくりと走っていた。
やがて、奈々子の目の前にもやってきた。
「きれいー」
思わず言葉がもれる。
ほんのり汗をかいているのだろうか。マサルの真っ白な馬体がライトを受けて輝いている。真っ白な雪がライトの光を受けて、輝いているようだ。
マサルは奈々子の前にきたころには、すでに歩きだしていた。
間近でみるマサルは、真っ白な顔とは対照的な真っ黒な瞳はかわいらしく、愛らしかった。
奈々子の前を通り過ぎたマサルは、すぐに脚を止めた。その目の前には、馬場に体を半分だしている白髪の男性の姿がある。
マサルが顔を近づけたと思ったら、
「あっ! うそでしょ」
なんと噛みついている。
驚きで目を見開いた奈々子だったが、いつしかその目には涙が浮かんでいた。
噛まれた男性はうれしそうに、マサルの首を撫でていた。マサルもうれしそうに、その男性に顔をこすりつけている。
なんだか、そんな光景を見ていたら、思わず込み上げてしまっていた。
やがて、マサルは集まってきた人たちに連れていかれた。
連れていかれる前に、その白髪の男性はマサルに何かを伝えるようにうなずいていた。なんだかよく分からなかったが、ついに奈々子の目からひと粒の雫がこぼれ落ちていた。
奈々子は引かれていくマサルを目で追っていた。その時だった。
怒鳴り声が奈々子の耳に届いてきた。
「バカヤロウ」
☆
健太は、心配顔でオーロラビジョンを見つめていた。
騎手を振り落としたマサルが、走りだし、前脚を上げたりして暴れだしている。だが、何度も繰り返されるその動作を見ているうちに、自然と頬の筋肉が緩んでいた。
健太は思う――最近は大人になったのか、少しおとなしかったが、今のマサルは昔のようだ。元気でヤンチャだったあの頃のようだ。まだまだ、若いじゃないか! なぁーマサル。
何だか嬉しい。力が衰え、戦いの場を去ろうとしているマサルだったけど、元気に飛び回る姿が嬉しかった。
(競走馬としては終わってしまうけど、馬としてはまだまだ大丈夫だ。マサル、見てごらん)
スタンド前に戻ってきたマサルを観客が拍手で迎えている。
もちろん競馬に携わる仕事をしている健太には、マサルが今後、どんなふうにされてしまうのかは分かっている。
でも、この拍手を聞いていると、なんとかなるんじゃないかと思えてくる。
もしかしたら……健太も力いっぱい手を叩いた。
願いを込め、大切な友の未来が続くこと祈りながら。
その気持ちはより強くなっていく。
だって、マサルがあの厩務員のもとに戻っているから。愛情を込めて噛みついているのだから。
(マサル。お前は人を愛し、愛される馬だ。大丈夫だ、きっと大丈夫だ)
健太は係員に引かれていくマサルを目で追っていた。その時だった。
怒鳴り声が健太の耳に届いてきた。
「バカヤロウ」
☆
信一は、いまだ泥沼の中であえいでいた。でも、そんな泥も時間が経ち、水が引けば乾いてくる。そう、時間が経てば。
時間は経っている。本当ならとっくにレースも終わっているのに、レースが始まってもいない。
時間が経ったからだろうか、少し泥が乾き、動けるようになっていた。ゆっくり沼から抜けだす。
目の中に一頭の真っ白な馬が映った。
状況を理解しようと辺りを見回す。いつもと競馬場の雰囲気が違う。レースが行われていないのに、盛り上がる不思議な雰囲気。
スタートゲートの後ろに視線が向く。いつものように騎手を背に馬たちが円を描きながら回っている。なのに一頭だけは騎手も乗せずに、今、目の前を通り過ぎた。
(落馬したのか?)
すぐに、その真っ白な馬のゼッケンに目を向けた。
いやというほど、頭に残る番号。そして、馬。
【マサル】
普通、自分が買った馬が落馬していたら、大声で叫びだしていただろう。特に大金を賭けていたのなら。
レース前に落馬をした馬は興奮し、力なんてだし切れないのだから。
だが、信一は深いため息をつくだけだった。
今の信一にはどうでもいいこと。どうせダメなものはダメで、元々マサルが勝つことなんてありえないのだから。
もう一度、ため息をつくと、係員に引かれていくマサルをぼんやり目で追っていた。その時だった。
怒鳴り声が信一の耳に届いてきた。
「バカヤロウ」




