非日常の世界へ〜8〜
ポフッモフッとその短い両前足をタオルに叩きつける様は見ていて愛くるしいことこの上ない。それだけならばアニマルセラピーによるリラックス効果さえ期待できそうだ。だがしかし……八重歯の覗く小さな口から吐き出されたのは、その可愛らしい容姿とはミスマッチ過ぎる重低音の怒鳴り声。視覚と聴覚が各々に受ける正反対の刺激にゴートにフレイ、そしてククリと呼ばれた異形の者が銅像よろしく固まった。
「…ラバちゃん……。フレイさん達の言う通り、悪魔だったんだね…。」
「………………にゃ、にゃおん」
目に見えて動揺する3人とは別に、内心大きく動揺はしているが表情の抜け落ちた鉄仮面の如く冷めた目で鶫は自身の腕の中の生き物を見下ろしてボソリと呟く。そんな鶫の小さな呟きを耳にしたソレはハッとしたようにアーモンド型の目を大きくし、取り繕うように愛らしく鳴く。慌てて鶫の腕に頬を擦り寄せて甘える姿は、先程と変わらず愛らしいが時既に遅し。その前にこの部屋にいる全員があの素晴らしき重低音をしっかりと聞いているのだ。その上、焦って出したのであろう鳴き声も心なしか低く、ハスキーになっている。
「…諦めろ。色々手遅れになっちまってっから。見てて痛々しいぞ?」
鶫に弁明するかのようににゃー、にゃー、と鳴く声だけが響く中でいち早く立ち直ったフレイ。フレイはゴートの隣に徐に腰かける。そして、手に持っていたマグカップに入った黒い液体を一気に煽ると一息ついて目の前のソレを見つめて言った。
フレイのその言葉がどんな効果をもたらしたのか…。ソレは一瞬にして鳴くのを止め、そして舌打ちをした。そこには先程までの人の心をがっちりキャッチした子猫の姿などどこにもない。
「はぁ……そっとしておいてはくれんのか…。」
「悪いがこちらとしても仕事なもんでね。お前さんを見つけちまった以上は上に報告しねえ訳にもいかねえ。……憑き人がいるっつーことは訳ありか?」
「まあ、そんなところだ。ちょっとした厄介なことが起きてな……。」
砕けた雰囲気で気さくに話しかけるフレイの問いにため息と共に答えるソレ。
纏う空気は疲れを匂わせ、腹に響く重低音の声で酸いも甘いも噛み締めてきたような口調。だが、そんな少し渋めな雰囲気も容姿の愛らしさが全てを掻っ攫っていく。タオルに包まれたまま、鶫に両腕で抱えられているのだ。台無し以外の何物でもない。
「取り敢えず、滞在許可証と通行許可証、身分証明手形を見せてくれ。」
「すまんな。提出したいのは山々なのだが…滞在許可証と通行許可証は燃え尽きてしまってな。」
「“期限切れ”か…。まあ一度書類を発行してるっつーことは多少目を瞑れるかもしれねぇな。とにかく、身分証明手形を見せてくれ。」
「承知した。」
未だ固まっているゴートと、事務机の上でぐでぇんと伸びているククリ、トントン拍子で進むフレイとソレの話。置いていかれたまま、話に割り込まない鶫。あまりに自由過ぎる空間の中、まともに会話しているのはフレイら二人のみだった。だが、それもすぐにまともじゃなくなる。
何故なら、黒いその生き物は耳まで裂けたような大きな口を目一杯に開けてその口の中に両前足を突っ込んで何かを探し始めたのだ。ガパッと開かれた口から覗くぬらぬらとした舌と、その奥…食道の辺りまで見えてしまった鶫は慌てて目を背ける。鶫が目を逸らしている間にも時たま「オ"ェ"」とえずく声が聞こえる。何をそんな場所に突っ込んだんだよ、と内心で憤りながら鶫は目を固く閉じる。
「…これで良いか?」
「はい、じゃあ一旦預かるな。おい、ゴート。リスト。」
喉の奥から出てきた手のひら大の少し大きな石を吐き出してソレは言う。今さっき吐き出したばかりのそれをフレイは何の躊躇いもなく受け取り、隣に座るゴートを小突く。そこで我に返ったゴートはフレイの発した「リスト」と言う単語を口の中で転がしながら事務机の一番下の引き出しを漁り始めた。
「に、しても…身体ん中に身分証明手形を隠すヤツは結構見てきたけど……この“紋章”を隠してるヤツは初めてだ。」
「体内程安全な隠し場所も無いだろう?」
鶫が恐る恐る目を開けたると、そこでは苦笑いのフレイがその生き物と話し込んでいた。