非日常の世界へ〜5〜
「っオイ!!それ貸せ!!」
「あああああ!大切に扱えよ!?」
ぽかんと今日何度目か分からない呆けた顔をする鶫とフレイ。それに対して「いやぁ、助かりました。」なんて満足げに笑うゴートに嫌な予感を覚えたフレイがゴートの手の中から紙切れを取り上げる。無理矢理取り上げたからか、「シワの一つでも付けたら許さん!」と憤るゴートには目もくれず、フレイは穴が開くくらいがっつりと紙を見つめる。
「オイ!どういう事だコレ!?この紙、“契約書”じゃねえか!!しかも雇用の!!」
「え…えええええ!?」
やがてプルプルと肩を震わせたフレイが困惑から来る怒りに任せてゴートに怒鳴る。その怒鳴りの内容を一拍置いて理解した鶫もまた、驚きに叫ぶ。そんな鶫の反応を見てゴートが上機嫌な態度から一変、怪訝そうに首を傾げた。
「ありゃりゃ?もしかして、ちゃんと読まずに署名しちゃったんですか?
ダメじゃないですか。そんなんじゃ悪い人の思うツボですよ。……まぁ、この契約は破棄できないんですけどね。クーリングオフ制度の対象外ですので。という事でこれから一緒に頑張っていきましょー!!」
「おー!」と勢い任せに天井に拳を突き上げるゴート。そんなゴートに釣られて、「お、おー?」と頼りなさげに己の拳を小さく挙げる鶫。またもやゴートのペースにまんまと乗せられ流される鶫。そこへ、助け船を出すかのようにフレイが待ったをかける。
「待て待て待て待て。眠いのは分かったから一旦落ち着け。勝手にお前のペースで話を進めんな。まず、クロさんの許可も無しに雇うのは流石にヤベェだろ。」
フレイの待ったに不服そうにぷふぅ…と息を吐き出したゴートはフレイの反論を聞くとワザとらしく「ふっふっふ〜」と笑う。ゴートのその笑いで言いようのない不安に支配され、軽く頭痛がし始めたフレイはそれはそれは嫌そうに顔をしかめる。
「残念でした〜!実は…クロさんからは2人までなら許可無しでも雇って良いと言われてるんで〜す!!条件はあるけども!」
面の上からでも分かるようなドヤ顔で…それこそ、背後に「ドヤァ」という文字でも書かれてるんじゃないかというくらい分かりやすいドヤ顔をするゴート。余程誇らしいのだろう、「ふふん」などと上機嫌だ。そんなゴートの言葉に嘘がない事が分かったのか、フレイは「マジか…でも、クロさんの決定なら…」などとブツブツと口に出しながら頭の中を整理し始めた。渦中の人物であるにもかかわらず、完全に置いてけぼりを食らった鶫は訳も分からず二人のやり取りを傍観し、重大なことを思い出してハッと息を飲む。
「す、すいません。ゴートさん!!僕、ここで毎日働くのは厳しいです!!」
「んぇ?何故です?」
「その、僕の実家は群馬にあって…今日もそこから来ていて…」
「それはそれは…。遠路はるばる、ご苦労様です。」
「い、いえ…じゃなくて!毎日学校終わってから二時間半も電車に乗ってここに来て働く、というのはちょっと色々無理があります!」
せめて週に一回とかならばできるだろうが、毎日は厳しい。そうゴートに伝えれば、ゴートはそんなことですか〜、と呑気な声で笑った。ゴートにとってはそんなことでも、鶫にとっては結構な問題であった。特に学生の身である彼にとっては。交通費は勿論のこと、体力面でも中々にキツいものがあるのだ。
「鶫さん、本当に契約書読んでないんですねぇ…ほら、ちゃんと見てください。ここに書いてあるでしょう?『住み込みで働く』って。」
そう言ってピッと契約書を鶫に突き出したゴート。言われて読んでみると確かに、そのようなニュアンスの事が記載されている。
「空いている部屋はちゃんとありますし、家具付きですし、掃除もしてありますよ〜?学校は…そうだな…転校しましょうか。手続きはこちらでしますのでご心配なく。あ。編入テストの勉強だけはしておいてくださいね。」
「いや、あの…困ります!!確かにちゃんと契約書の内容を確認せずに署名しちゃった僕も悪いですけど…そう簡単に色々決められても…。」
自分には自分の都合があるのだ、とゴートに主張する鶫。そんな鶫にゴートはため息を一つ吐くと鋭い視線を投げて寄越した。
「別に何でもかんでもワタクシが勝手にぽんぽん決めている訳じゃないですよ。ちゃんと貴方の同意を得た上でのことです。契約書とはそういうものですよ。」
「けど、あまりにいきなりすぎませんか!?ちゃんと両親とも話をしたり」
「その両親の目に、貴方は映ってないじゃないですか。」
鶫の反論を遮ったゴートの厳しい言葉に、鶫は閉口して俯く。厳しいが、事実なのだ。つい先程自分で言った真実なのだ。返す言葉が見つからず、鶫はただただ唇を噛む。
「…これは、とある人に聞いた話なんですがね。人間って生きるのが嫌で死にたくなるんじゃないんですって。苦しいのが嫌で、それから逃げたくて死にたくなるらしいですよ。」
「…え?」
「人間ってのはみっともなく生にしがみ付く生き物なんだそうです。足掻いて藻搔いてしがみ付いて、そうやって生きるんだそうです。だけど、ふとした時にそのしがみ付き方が分からなくなるんだそうです。だから、死を覚悟するんだと。」
いまいち要領を得ないゴートの語り口に、鶫は眉をひそめる。何が言いたいのかさっぱり分からない上、何処か見下されたような、そんな気がしたからだ。
「…何が言いたいんですか?」
「じゃあ、単刀直入に言いますね。
一度捨てた貴方のその命、悪魔に売る気はございませんか?」