季節ハズレの新生活〜2〜
はぁ…ともう今日何度目かも分からない溜息を鶫は吐く。目の前でゆらゆらと湯気を立てる真っ黒な液体を一口だけ口に含んでみても、パンクしてしまった脳が正常に動いてくれる様子もない。
訳の分からぬまま食卓の椅子に座ってから早いもので、もう一時間近く経とうとしていた。
顔を上げれば、目の前でかれこれ一時間とちょっと、激しい口論をする赤髪の少女と白髪の青年。そのすぐ側では、並べられた朝食に手をつける事もなく、頭突きでもするかのように机に頭を乗せて眠る赤茶色の髪。逆に、騒がしく口論する2人には目もくれずに黙々と朝食を口に運ぶ金髪の女性に、何やら難しい顔で新聞片手にコーヒーを飲む緑髪の男子中学生。そして、何かを呟いてはタブレットらしきものを操作する銀髪の少女……。
皆んなが皆んな、我関せず、と自由な行動をとる所為で、このダイニングは亜空間の如く訳の分からない空間へと完成していた。そんな中で思考を放棄した鶫の脳は、ある意味正しい反応なのかもしれない。
この空間、なんでこんなにもカラフルなんだよ。
自由過ぎるこの空間に、鶫は遠い目をしながらも、呑気にそんな事を考えていた。
*******
ことの発端は遡ること、数十分前。
鶫が自身の体に見たこともない裂傷の痕と刺青のような黒い痣を見つけて叫び声を上げ、思わぬ乱入者にもまた、叫び声を上げてから数分。
シャワーを浴び、汗を流した鶫は一人であることについて悩んでいた。
シャワーを浴び始めてすぐにも気付いたように、鶫は脱衣所に着替えを持っていく事を忘れていた。もしここが自分の家で、家族しかいないのならば。手早くタオルを腰に巻いて、自室に駆け込んで着替えることもできただろう。しかし、ここは鶫の家ではないし、家族でもない、見知らぬ少女のいる場所だ。迂闊に軽率な行動はできない。となれば、少々抵抗はあるが、先程まで着ていた服をもう一度着て部屋で着替えるしかないだろう。
タオルで体の水気を取り、出した結論に一人でよし、と頷いて鶫は先程まで着ていた服――正確に言えば学校の制服――に手を伸ばす。そこではた、と軽く畳まれた制服の隣にあるものに目が行った。
簡易的に畳まれた制服と違い、ピシッと綺麗に畳まれた黒いTシャツ。白字で文字がプラントされてるそれに酷く見覚えがあり、鶫の手は自然とそちらに向いた。
ぴらり。畳まれていた服を広げて見てみると、やはり。既視感どころの話ではなかった。何故ならそのTシャツは、鶫個人の持ち物だったからだ。妙な達筆で大きく「腹ヘッタ」と書かれたTシャツは間違いなく、鶫の年の離れた兄がデザインし、発注したものだった。長年の癖で「月」や「タ」が象形文字のように頼らなくなってしまうその字を、間違えようがなかった。
「ごめんねー、入るよー」
なんでここに…。そんな鶫の疑問は感情のこもっていない棒読みな謝罪と、勢いよく開いた脱衣所のスライドドアに掻き消された。
「ぴょあぁぁぁあああ!!??」
「うわ…朝から随分声が出るんだね。」
はた迷惑そうに眉を寄せたのは、緑髪の中学生と思しき少年。うるさい、と顔で示す突如現れた少年に鶫はタジタジになってしまう。
「コレ、着替えないだろうからって言われて持って来たんだけど……なんだ。あるんじゃん。」
「え!?いや、コレは僕のじゃ……!」
悪いけど、服取るために部屋に入らせてもらったから。
表情を変えずに畳まれた着替え一式を差し出した少年は鶫の持つTシャツを見て溜息を吐く。何故ここに兄の作ったTシャツがあるのか鶫には分からないが、誰か別の人のだったら悪い、と鶫は慌てふためきながらも否定する。すると少年は怪訝そうに首を傾げた。
「貴方のじゃないなら誰のTシャツなの、それ?そんなTシャツ、見たことないけど……」
「そうなんですか?」
「そりゃあ……。表に「腹ヘッタ」、裏に「満腹」なんて矛盾した文字Tシャツなんて誰が着るの?観光客でもあるまいに…。
……貴方はそのTシャツに本当に覚えはないの?」
「いえ。このTシャツにそっくりなのは持ってます。」
兄に押し付けられて。付け加えたその言葉を口の中で転がして鶫は言う。それが聞こえたのか否か…。少年はフッと息を吐き出すと、それじゃあ…貴方のだ。と言う。
いや、まあ。たしかにダサいTシャツではあるけど……断言する程か?と鶫は少年の言葉に首を傾げる。
「多分、君の片割れが持って来たんだと思うよ。後でお礼言っておきなよ。…とりあえず、コレは渡しておくから。」
そう言って少年は鶫に着替え一式を渡すと脱衣所のスライドドアを閉めて足早に去ってしまう。その忙しない足をを聞きながら鶫はまた首を傾げた。
「……僕の片割れ?って誰……?」
片割れ。その言葉を聞いて鶫がまずイメージしたのは双子である。だが、鶫には年の離れた兄が一人いるだけで双子の兄弟なんていない。
次にイメージしたのは特に中の良い、例えば親友と言われるような人物。しかし、残念ながらこれにも心当たりがない。生まれてこの方、そこまで親しい友人を持ったことがないのだ。
一体、誰のことなんだ?と首を捻りつつ少年が持って来てくれたVネックのシャツと畳んで置かれていたジーンズを手早く身につけ、着なかったものと脱いだ制服を持って脱衣所を出る。
脱衣所の鍵も風呂場と同様に見事に壊れていたが、鶫は何も見なかったことにした。
「すみません、シャワーお借りしました。」
鶫は一度部屋に戻って着替えや脱いだ制服を置き、件の赤髪の少女がいるであろうキッチンと思しき場所に顔を出す。鶫の声に反応した少女は、その鮮やかな髪を揺らして振り返る。
「あ!鶫さん!!先程は失礼しました。悲鳴が聞こえたもので焦ってしまって……」
「い、いえ!こちらこそあんな大声出してしまって申し訳ありませんでした。」
鶫の側に駆け寄って来てペコリと頭を下げる少女に釣られるように、鶫も深々と頭を下げる。互いの口から紡がれる謝罪を受け入れ、どちらからとも無く頭を上げれば、少女はにこりと愛らしい笑顔を見せた。
「リオンから聞きました。彼が洋服を持って行ったらしいですね!仲良くなさっているようで安心しました。」
「え?あの……彼って?」
ニコニコと笑顔の少女には申し訳ないものの、「彼」とは誰なのか全くもって見当がつかない鶫が尋ねると、少女は笑顔のまま固まった。まるで石化したかのようにピシリと。
「ごめんなさい、鶫さん。ちょっと足元失礼しますねー?」
数秒の硬直ののち、少女は笑顔のままそう言ってしゃがむ。何か落したのだろうか、と考えた鶫はそこから後退しようとして止まった。否、止まらざるを得なかった。
何せ、少女は鶫の足元……柔らかな朝日によって作られた鶫の影に手を突っ込んだのだから。