金次郎の思い出
「主人の金次郎が申しますには」
水神様が件の屋敷の小さな井戸に住まわれるようになって、もう30年ほどの時が経つという。
妻を早くに亡くした金次郎は商売に打ち込み、それはそれは大きな財をなした。それでも時折どうにも虚しくて、夜中に起き出しては月を眺め、楽を奏でる。
その日も、楽を奏でていた。
「変わった音色じゃ」
気がつけば、目の前に美しい女が立っている。
金次郎はおののいた。すでにこの地で一、二を争う豪商にのし上がっていた金次郎は、屋敷の守備も万全な心持ちでいたからだ。ぜんたい、どこからこの女は湧いて出たものか。
内心穏やかではないものの、動揺を悟られては分が悪い。金次郎は努めて平静な口調を装い、鷹揚に対応した。
「胡弓というそうですよ、三味線ともまた違う趣が気に入りましてね」
「うむ、繊細な音じゃ。艶やかで良く通る美しい音色じゃが……なんとも物悲しい。やはり弾く者の心を映すのじゃな」
「……」
「今宵は月が美しい。お主の虚な心がよく似合う、もう一曲奏でてはくれまいか」
女の声には抑揚がなく、同情もそれ以外の感情も、何も含まれてはいないようで、不思議と金次郎にもこれといった感情が浮かばなかったらしい。請われるままにもう一曲を弾き終え、それを満足げに聴いていた女はひっそりと微笑んだ。
「久しぶりによいものを聞いた。礼に、明日は恵みの雨を与えよう」
そう嘯いて、女はそのまま掻き消えた。
「なんと……物の怪の類であったか」
道理で屋敷の守りも役に立たない筈だ、その時はそれだけの感想だった。
それからというもの金次郎が胡弓を奏でる度に女は現れる。何をするでもない、ただ井戸のへりに腰掛けて物悲しい胡弓の音色を慈しむように聴いている。金次郎は、いつしかその時間を愛おしむようになっていた。
女が水を司る神であると知ったのは、そうした逢瀬を二年程も続けた後の事だったという。
その年この地は酷い旱魃で、からっからに乾ききっていた。川の水位はどんどんと下がり、井戸の水すらも危うくなる。そこかしこで火がでるというのに、それを消し止めるだけの水が確保出来ない。疫病が蔓延し、町には暗い空気が漂った。
そんな時。
庭で物思いに耽りながら胡弓を奏でる金次郎の元に、かの女が思い詰めた表情で現れた。
「金次郎、妾に雨を強く請うてはくれまいか」
不思議な事を言うものだ、と事情を問うてみた金次郎はあまりの事に言葉を失った。なんと女は、この辺り一帯の水を司る神だと宣った。