止まらない思い
お借りしたお題は「猛烈なかゆみに襲われているシチュエーションで物語を書く。」です。
秘書課のお局的存在である加部千代子は、冬が大嫌いだ。
寒いからではない。肌が乾燥して、荒れてしまうからだ。
彼女はバッグの中に保湿クリームを常備している。
朝、出かける前に手や顔だけでなく、背中、脚、腕とあらゆるところに塗りたくる。
そして、昼休みにもトイレの個室でブラウスまで脱いで塗っている。
(会社は乾燥し過ぎなのよ。しかも、年寄り連中ときたら、何故かテカテカしていて……)
千代子は社長秘書をもう一人の秘書課員と交代でこなしているのだが、社長だけでなく、取締役会で顔を合わせる重役が揃いも揃って顔がテカテカなのだ。
それだけではない。手もつやつやしており、全く保湿の必要性を感じさせないのだ。
そのため、秘書室に加湿器を入れたい旨を秘書室長に申し入れたのだが、
「私は大丈夫だよ。気遣いありがとう」
あっさりそう言われてしまった。秘書室長もテカテカ肌なのだ。
千代子は仕方なく、自衛策を講じた。そのための保湿クリームなのだ。
(確か、家電量販店に一人用の加湿器が売られていたはず)
自己資金で加湿器を購入するのなら、室長も何も言わないだろうと思い、買った。
ところが、いざ秘書室で使っていると、
「加部君、あまり湿度が上がるとカビが発生するから、そういうのはいいよ。悪いね、気を遣ってくれているのに」
意地悪なのか、天然なのか、室長にやんわりとダメ出しされてしまった。
「はい」
千代子は仕方なく加湿器を片づけた。
そういう時に限って、秘書の仕事はもう一人のシフトの日だ。
千代子はちょうど戻って来た新人秘書の武藤綾子に、
「何かわからない事とかない?」
用事を作って乾燥し切っている秘書室から出ようとした。
「いえ、今のところは。今日は波野先輩に同行して、外回りの予定ですので、失礼します」
綾子はそう言うと、持ち前のテキパキさを発揮し、サッと出て行ってしまった。
「ああ……」
思わず溜息を吐いてしまう千代子である。すると突然、背中が強烈に痒くなって来た。
保湿クリームを塗りたいところだが、生憎室長がいる。いや、いなくても、ここではさすがに背中を出してクリームを塗る勇気はない。
痒いのは痛いのと違って我慢が難しい。千代子は椅子の背もたれを使って何とか掻けないかと身をよじっていたが、
「どうした、加部君? トイレなら遠慮なく行きたまえ」
室長がセクハラギリギリの発言をした。だが、千代子はそれを渡りに船と考え、
「はい」
恥ずかしそうな演技をして、ポーチを持つと廊下に出た。
(トイレならクリームを何とか塗れる)
つい嬉しくなり、ニンマリして歩いていたのを営業課の藤崎に見られた。
「加部さん、ご機嫌ですね?」
藤崎は妙な突っ込みはしない紳士なので、千代子はホッとして、
「そんな事ないわよ」
そう言ってすれ違うと、トイレに駆け込んだ。
「え?」
ところが、女子トイレは清掃中だった。
(一階下は営業課のフロアだから、混んでいる可能性が高いわね)
そう思うと、また背中が強烈に痒くなって来る。
千代子は階段を駆け下り、更にその下の階に降りた。
「ええ!?」
するとその階も清掃中だった。
(トイレの掃除は一階おきにするのを忘れていた!)
慌てていた千代子は普段なら気づく事すら思い出せなくなっていたのだ。
背中の痒みはどんどん増していた。
(今日は厄日だわ)
千代子は秘書室がある階に戻り、掃除が終わるのを待つ事にした。