思わぬ喜び
お借りしたお題は「ブランチ」「映画」「ひとりごと」です。
須坂津紀雄。入社四年目の営業マン。一年後輩の蘭子と結婚し、公私ともに順風満帆である。
ある土曜日の朝、須坂はいつになく早く起き出した。
普段なら、毎朝早起きをしている蘭子が起こしに来るまで爆睡しているんであるが、その日に限って夜明け直後に目が覚めたのだ。
隣に寝ている蘭子は、まだ可愛い寝息を立てている。須坂はその寝顔にキスしたくなったが、後で叱られると思い、諦めて寝室から出た。
二人が暮らしているのは、2LDKの賃貸マンションである。
築三十年で、駅から遠いため、それほど家賃は高額ではないが、それでも須坂には結構きつい。
だが、彼は蘭子の手前、決して弱音は吐かない。いつかは一戸建て。それが二人の夢だからだ。
(そうなるためには、何としても藤崎先輩を抜かないと)
同じ営業課のエースである藤崎冬矢の営業成績に追いつき、追い越さないとならないと思っている。
彼は浴室で顔を洗って髭を剃ると、玄関に行き、新聞をドアから抜き取った。
藤崎に言われたので、二紙とっている。一般紙と経済紙だ。そして、どちらも経済面は隅々まで目を通すようにしている。
気のせいか、それを始めてから、営業先での会話に困らなくなり、契約も取れるようになった。
(まだまだ追いつけないな)
藤崎のアドバイスを受けて力を付けているうちは、半人前だと思った。
「おはよう。どうしたの、今日は休みなのに早いね」
リヴィングダイニングのテーブルで新聞を読み終えた頃になって、蘭子が起きて来た。すでに化粧をして、髪もセットしている。
須坂は蘭子のだらしない格好を見た事がない。
(だらしない格好を見られた事は数限りなくあるけど)
自嘲気味に思い出す。
「蘭たんこそ、今日は少しお寝坊さんだね」
須坂は壁に掛けられた電波時計が十時を指すのを見て微笑んだ。すると蘭子は須坂の向かいの椅子に座り、
「お休みの日くらい、いいじゃない」
口を尖らせて不満そうな顔をした。須坂は途端に焦り出し、
「ああ、いや、そんなつもりで言ったんじゃないんだ……」
何とかこの場を取り繕おうと思い、
「僕が食事を作るよ」
慌ててそう言うと、いそいそと冷蔵庫から必要な材料を取り出し、IHヒーターの 電源を入れる。
「ありがとう」
蘭子は機嫌が悪かった訳ではないようで、ニコッとして応じてくれたので、須坂はホッとした。
(ベタ惚れで結婚した弱みだよなあ)
蘭子の表情を窺いながら毎日を過ごしている自分を振り返り、悲しくなりそうだ。
ササッとサラダとベーコンエッグを作る。一人暮らしが長かったので手際もいい。
トースターで食パンを軽く焼き、冷蔵庫の扉のラックからバターを取り、キッチンの引き出しからバターナイフを取り出す。
コンソメをベースに簡単なスープも作った。更に牛乳を専用のマグカップに注いだ。
「できたよ」
須坂が笑顔で告げたが、蘭子の反応が鈍い。
(もしかして、まだご機嫌斜めなのかな?)
心配になったので、
「今日は映画でも観に行こうか。天気もいいし、お出かけ日和だよ」
蘭子の機嫌を直そうと一生懸命に動いた。
「うーん、何を観に行こうか? 恋愛もの? それともアクションもの? 意外なところでアニメ?」
何とか蘭子の機嫌を直そうと喋り続けたが、
「ブツブツひとりごと言っててキモい」
あっさりそう言われてしまった。
(あれ?)
須坂は、蘭子は機嫌が悪いのではないとそこでようやく気づいた。
「蘭たん、具合が悪いの?」
彼は蘭子に近づき、額に手を当てた。
熱はないのはわかったが、蘭子の目がとろんとしているのもわかった。
「映画はやめにして、病院に行こうか、蘭たん?」
須坂は顔を近づけて告げた。すると蘭子は、
「心配要らないよ、つっくん。病気じゃないから」
「え? でも、すごく辛そうだよ、蘭たん」
須坂はそこまで言って、ようやく何が起こっているのか理解した。
「え? もしかして?」
須坂は泣きそうだ。蘭子は弱々しく微笑み、
「そうだよ。赤ちゃんができたの。昨日病院に行ってわかったの」
須坂は思わず雄叫びを上げてしまった。
「つっくん、ご近所迷惑だよ」
蘭子は苦笑いした。須坂はそれでも、
「いくらでもお詫びに回るさ。こんな嬉しい事はないんだから!」
蘭子の手を握りしめた。
「ありがとう、蘭たん。君と結婚して本当に良かった」
「大袈裟よ、つっくん」
二人は長い口づけをした。




