武藤綾子の正念場
お借りしたお題は『「雨が降ってきた」から始まって「雨が降っている」で終わる作品を書く。意味が同じなら、~です、~ます等、言い回しは変えても構わない。』です。
雨が降ってきた。
その日は新人社員の武藤綾子にとって、大切な日だった。
「おはよう、武藤君」
ロビーで待っていると、営業部の次長である梶部次郎がやって来た。
「次長、ご足労をおかけして申し訳ありません」
いつもはお惚けばかりの綾子だが、その日は真顔で深々と頭を下げた。
(やっぱりこの子は可愛い。ユーミンと結婚していなければ……)
胸がキュンとして、邪な妄想を繰り広げそうになり、心の中で妻になった弓子に詫びる梶部である。
「では、行こうか、武藤君」
梶部は綾子の背中を押して、促す。
「はい」
綾子が震えているのがわかり、またキュンとしてしまう梶部である。
綾子はこれから秘書課に異動するための面接を受けるのだ。
彼女は当初から秘書課を希望していたのだが、会社の方針として、最初は営業を経験する必要があった。
綾子は二人の先輩女子社員の抜けた穴を一人で埋め、他の女子社員の三倍の仕事量をこなしていると言われていた。
それもこれも、希望する秘書課への異動をさせてもらうためだった。
営業部長も、人事部長も、そして秘書室長も綾子の業務成績を見て納得している。
後は三人の面接をクリアすれば、晴れて秘書になれるのだ。
「私、異動が決まったら、次長の秘書になりたいです」
綾子は笑顔全開で言った。
「そ、そうかね」
エレベーターという密室の中で二人きり。そのシチュエーションでそんな事を言われれば、大抵の男は勘違いする。
ましてや、「Mr.勘違い」と元スチャラカOLの律子に陰で言われていた梶部だ。
通常の三倍くらいの勘違いをしても不思議ではない。
(次長をいじっていないと、緊張で押し潰されそう)
綾子はとんでもない理由で梶部を勘違いさせていた。
「大丈夫だよ。君なら、必ず私の秘書になれるさ」
邪な願望が混入した事を言ってしまい、梶部はあっと思ったが、どうしようもない。
「はい。次長の秘書になれるように頑張ります」
綾子は噴き出しそうになるのを堪え、梶部に微笑んで応じた。
エレベーターの扉が開き、二人は廊下に出た。
ここから数十歩で面接をする応接室だ。綾子はまた緊張で震えてしまった。
「ほら、しっかり。大丈夫だと言ったろう?」
梶部は綾子の肩を優しく叩き、励ました。
「ありがとうございます、次長」
綾子は頭を下げ、廊下を歩き出した。梶部は綾子の背中を見て満足そうに頷き、彼女を追い抜いて応接室のドアの前に立った。
綾子は思わず唾を呑み込み、目を泳がせてしまった。
廊下の先にある大きな窓の向こうで、まだ雨が降っている。