須坂津紀雄の決断
お借りしたお題は「5250円の買い物をする物語を書く。」です。
須坂津紀雄。営業職について四年目。ずっと好きだった一年後輩の出島蘭子と結婚し、公私ともに充実している。
そんな須坂も、今年の四月からの消費税増税を目前に控え、ある決断を迫られていた。
(いよいよ手放す時が来たかな)
彼は本棚に並べられた百科事典の一冊を取り出した。
(名残惜しいが、いつまで持っていても、一向に価値が上がる気配がないからな)
彼はそれを百科事典の間から取り出した。
「何してるの、つっくん?」
不意に妻の蘭子に背後から声をかけられ、須坂は心臓が止まりそうになった。
「あはは、別に何もしてないよ。ちょっと調べ物をしようとしていただけさ」
あからさまに怪しまれそうなリアクションをして、須坂は全身から噴き出す汗を感じながらも、シラを切る事に徹した。
「ふーん」
蘭子は目を細めて疑いの視線を向けたが、それ以上追及する事なく、部屋を出て行った。
須坂はホッと胸を撫で下ろした。
(別に隠す事でもないんだろうけどなあ……)
蘭子に軽蔑されそうな気がして、言い出せなかった。
ところが、いざ手放そうと思って持ち出したのだが、どうしてもあと一歩のところで二の足を踏んでしまった。そんな事をしているうちに時は流れ、三月も残り一週間になっていた。
(何してるんだ、俺?)
優柔不断な自分に呆れ返ってしまうが、その呆れ返っているのも自分なので、ジレンマであった。
「どうした、須坂? 何か悩んでいるのか?」
営業課のエースである藤崎冬矢が声をかけてくれた。
「いや、悩みはないです」
作り笑いをして応じる須坂だったが、長年彼を見て来ている藤崎の目は誤摩化せなかった。
「水臭いぞ、須坂。僕に話せないような事なのか?」
藤崎は悲しそうな顔で尋ねる。須坂は申し訳なくなり、事情を説明した。
「ホントにそれだけの事なのか?」
藤崎は今度は呆気に取られていた。須坂はますます申し訳なくなり、
「はい、ホントなんです。ご心配いただき、恐縮です」
だが、人格者である藤崎は、
「だけど、お前に取っては一大事なんだろ? 謝る事はないよ。病気とかじゃなくてホッとしたよ」
爽やかな笑顔で言い、
「頑張れよ」
ポンと肩を叩いて去って行った。
「ありがとうございます!」
須坂はその後ろ姿に深々と頭を下げた。
(須坂さん、また何かやらかしたのかな?)
廊下の角から武藤綾子が見ていたのを須坂は知らない。
そして、その日の帰宅途中、須坂は貴金属店に立ち寄った。
(どうせなら、蘭たんに何かプレゼントになるものがいいな)
蘭子にベタ惚れの彼は、あるイヤリングを選んだ。
「これをください」
目の前で営業スマイル全開の女性店員に告げた。
「ありがとうございます。ご贈答用ですか?」
店員に尋ねられ、須坂は、
「はい!」
元気よく応じた。店員は若干引き気味になっていたが、
「こちら、五千円の商品ですので、消費税と合わせまして、五千二百五十円になります」
須坂は震える手で財布から一枚の札を取り出した。そして、小銭入れから二百五十円分の硬貨を取り出す。
「五千二百五十円、ちょうどお預かり致します」
女性の店員が笑顔に戻って言った。須坂はそれに軽く頷きながら、
(さようなら、新渡戸稲造。今までありがとう)
二十年間ずっと持っていた旧五千円札に心の中で別れを告げた。
ということでした。めでたし、めでたし。




