梶部次長の焦燥
お借りしたお題は「人事異動」です。
梶部次郎、四十五歳。もうすぐ一児の父になる。彼は焦っていた。思い当たる事がないのに部長に呼ばれたからだ。
(何だろう? 営業成績は上向いているし、部下も問題を起こしてはいない)
その時、心臓が止まりそうになる事を思い出した。
(まさか、ユーミンがエロ動画の事を部長に言いつけた?)
梶部の妻の弓子は部長と面識がある。部長は弓子を凄く褒めていた。
「困った事があったら、いつでも相談に乗るからね」
部長は梶部と弓子の馴れ初めを知っている。だからこそ、梶部は弓子との事を前の妻以上に気をつけていたのだ。
(部長は絶対にユーミンの味方になる。もしそれだとすれば、俺はどうなるのだろうか?)
そもそも、夫がエロ動画を観ようとしていた事を上司に言いつける妻がいるだろうか? 梶部の考え方は根本的に間違っていると思うのが、一般的な見解だろう。
(ユーミンはそんな事はしない。俺は何てバカな事を考えたんだろう)
一般的な見解とは若干のズレを生じながら、梶部は妄想を振り払った。そして、部長室のドアの前に立ち、唾を呑み込んでノックした。
「どうぞ」
部長のバリトンボイスが応じる。
「失礼致します」
梶部はドアを開き、一礼して中に入って後ろ手にドアを閉じた。
「どうした、随分と汗を掻いているようだが? 走って来たのかね?」
部長はにこやかな顔で言った。梶部はハッとしてハンカチで額や首の汗を拭い、
「はい。お待たせしては申し訳ないと思いまして……」
引きつる顔で言う。部長は破顔して、
「そうかそうか。いい心構えだ。だからこそ、いい知らせがあるんだろうな」
「は?」
梶部は間抜けな顔で部長を見た。いい知らせとは何だろう? それにも全く心当たりがない。部長は立ち上がって机の前にあるソファに座り、右手で梶部にも着席を促した。梶部は慌てて向かいのソファに腰を下ろし、部長を見る。部長は笑顔のままで、
「正式な辞令は明日下りるが、先に知らせておこうと思ってな」
「辞令、ですか?」
いい知らせという事は、昇進か? 梶部の心臓は動きを速めた。
(しかし、どうして今なのだろう?)
人事の時期ではないのだ。だから、何かがあったと考えるべきだと思った。部長は声を落として、
「実は、社長が明日づけで勇退される」
「え?」
梶部は目を見開いた。社長が勇退? 創業者一族なので梶部が入社以来ずっと同じ人物が社長だったのだ。だから非常に衝撃的だった。
「以前から、腰の痛みを我慢されていたようだ。代表取締役就任三十年のくぎりで、決断されたのだ」
部長は心なしか、目を潤ませていた。梶部の記憶では、部長は社長と同じ大学出身で、同じラグビー部だったはずだ。親密さも強かっただろう。
「新しい社長には専務が就任される。そして、私が専務になる」
「おめでとうございます」
梶部は立ち上がって頭を下げた。部長は嬉しそうに頷き、梶部を見上げた。
「それで、空席だった常務には……」
梶部はまた唾を呑み込んだ。
(まさか、俺が常務?)
心臓が更に速く動き出す。すると部長は、
「渡米していた平井君が帰国し、就任する。そして、君は晴れて営業部長だ」
梶部は意識が飛びそうになった。
(平井が戻って来る?)
平井は梶部と同期入社。妻の蘭子は専務の愛娘。そのお陰で彼は梶部より早く課長になり、次長になった。そして、家庭の都合でアメリカに渡り、現地の法人設立に尽力していた。
(考えてみれば、そうだな。専務は平井の義父だからな)
零れそうになる溜息を呑み込み、梶部は部長を見た。
「ありがとうございます。身に余る光栄です」
深々と頭を下げた。部長は大きく頷きながら、
「頑張ってくれたまえ」
「はい!」
梶部はもう一度頭を下げ、小さく溜息を吐いた。
(また平井が上司になるのか……)
胃が痛くなりそうな梶部だった。




