放浪楽師の少女
鐘とともに飛び起きて、朝食もそこそこに中洲の皮なめし職人の小屋へと向かった。
ボニファティウス律院をちらりと見るが、今日は顔を出さない。天候や体調などの理由もなく日課を休むのは、はじめてのことである。なにも言わないでいると風邪でも引いたかと心配されるかもしれない。エーリッヒ神父には、イルゼに靴を渡した後に報告を兼ねてお礼を言いに行こう。そんなわけで律院を素通りして、巻き革の仕入れの帰りも道草はしなかった。
駆け足で工房に戻り、仕入れた巻き革をハンガーにかけ、大切な宝物をクーヘンの入っていた麻袋に包む。それを胸に抱えて、昨日シュタイナウと話した旅籠へと向かう。今頃きっと、今日の見世物の準備をしているころだろう。シュタイナウに言えば話を通してくれるかもしれない。
ネオの工房のある裏路地からベッカー通りに出て、少し南に行ったところにその旅籠はある。例によって薄暗い屋内へ入ろうとしたとき、視界の隅にちらりと明るい色がよぎった。ピンとくるものがあり、そちらの方へ回る。厩だ。定時市場を持つハーメルン市にはあちこちから人が集まるため、いわゆる「余所者向け」の旅籠がいくつかある。そういった旅籠は決まって厩も用意してあるのだ。
果たして、ネオが予感した通り、そこに少女はいた。地面の泥や馬糞にスカートの裾が触れぬよう気をつけながら、二頭のロバに飼葉を与えているところだった。
「イルゼさん!」
ロバのほうを向いていた少女はびっくりした様子で振り返った。
「う、ぁ、ね、ネオ、さん。お、おはよう、ございます」
つっかえながら、ほとんどしどろもどろに挨拶してくる。すでにネオの名前も聞いているらしい。
「しゅ、シュタイナウさんに、聞きました。昨日、その、すごく珍しく、話しかけてもらえました……その、きちんと、受け取るように、と、いわれました」
緊張ゆえか、それとも元来の舌ったらずなのだろうか。つっかえつっかえに喋るその様子には、明らかな戸惑いが見え隠れしている。思えば、この少女とは橋の上でたった一度すれ違っただけの関係なのだ。件の見世物のときにも、別段声をかけたわけでもない。イルゼにしてみたら、突然、見ず知らずの男から贈り物を申し込まれたのと変わらないだろう。
「そういえば……そうだよね。いきなりで、驚かせちゃってごめんなさい。もしも、嫌じゃなければでいいんだけど……」
「い、いえ。嫌じゃ、ありません。ちょっと、びっくり、しただけで……。ティルさんや、アマラさんも、受け取ったほうがいいって……いってました」
二人の名を出した際に、軽く目を伏せ、わずかに困ったような表情を見せる。おそらく、その二人はネオの申し出をなにか誤解して、色々とイルゼに吹きこんでしまったのではないだろうか。
はじめてその顔を近くでじっくりと見た。まだ歳相応の幼さを残してはいるものの、いずれは見事な栗色に染まるであろうブロンドの髪に、典型的なザクセン女性らしいすらりとした鼻筋。だが、まだ「綺麗」というより「可愛らしい」という言葉のほうがよく似合う。
そんなことを考えていると、ネオの視線から逃れるように、恥ずかしそうにうつむいてしまった。やはりティルとアマラにさんざん冷やかされたのだろう、頬をわずかに赤らめて、ネオの言葉の続きを待っていた。以前に見たときにも可愛らしい顔立ちだとは思っていたが、こうしてまじまじと見ると、そして、その頬が淡く染まっているとなると、その愛らしさはネオの目には何倍にも膨れ上がって映る。
無性に恥ずかしさが湧き上がり、イルゼに釣られてネオの顔もほかほかと熱くなってきた。どうしてこうなったのか。自分は、ただイルゼに靴をプレゼントしにきただけなのに、どうしてこんな気恥ずかしい空気になっているのだろう。
そういうつもりではないと、昨日のうちにシュタイナウには伝えてはあったが、そもそもあの男は、この話にはあまり興味を持っていない様子だった。だとしたら、イルゼや他の二人がその話を聞かされた際に、どんなふうに曲解したのか、そしてその場がどんなふうに盛り上がったのかは、推して知るべしと言ったところか。思えば、なんて言って渡そうか、まったく考えていなかった。
どうしよう。どうしよう。
頭をぶんぶんと振った。そもそも、ネオは徒弟である。そういった、いわゆる男女の関係を持つことは、少なくとも表向きは親方にならなければ認められない。そうでなくとも、親方になんの相談もなくそんなことをしたら、それこそ徒弟をクビにされかねない。ツンフトの中でも厳格に守っている若者がどれだけいるか知れたものではない、つまらぬ規則ではある。が、少なくともこの場では、ネオに冷静さを取り戻させるのに役に立った。
とにかく、用件を伝えよう。後のことは、あとで考えればいい。ネオだって普段から農家のおばさんや懇意のお客さんに、クーヘンや服をもらったりしている。それと同じことだ。自分にそう言い聞かせて、きりだした。
「い、イルゼさん。これを……受け取って欲しいんだけど。たぶん君に、今、いちばん必要なものだと思うんだ」
言って、麻袋をずいと差し出す。差し出して、これがクーヘンやパンを詰める食べもの用の麻袋であることを思い出した。食べものだと思われて、そのまま食卓へ持っていかれてはたまらない。慌てて紐をとき、中身を出す。ネオの最高傑作にして、最高の駱駝革で作ったイルゼのためのブーツが姿をあらわした。
多少の長旅を重ねたところで簡単には壊れない、硬い地面から足を守るための一足のブーツ。これを履いて、しばらく足を大事にすれば、きちんと歩けるようになるはず。足が治ったあかつきには、アマラと並んで飛びきりの笑顔を見せて欲しい。それだけが、ネオにとっての唯一の、そして、これ以上ない報酬である。
麻袋から出てきたものを見て、イルゼが身じろぎした。
無理もない。ひと目見てわかるほどの、おそらく貴族でさえも簡単には手に入れられないであろう、最高級のブーツなのだ。そんなものを突然押し付けられても、困るだろう。しかし、なんとしても貰ってくれなくては。このためだけに一生懸命作ったのだから。今更、すごすごと持ち帰るわけにはいかない。もう一度イルゼの顔を見ると、可哀想なほどに肩が震え、その目尻には涙さえ浮かんでいた。そんなにまで、泣くほど喜んでもらえたのだろうか。しかし。
なにか、様子がへんだ。
ネオの心臓がどきんとひとつ鳴った。浮かれていた気分が、さあっと冷えていくのを感じた。それがなにかわからないが、どこかに間違いがあったのだ。イルゼが震えているのは、涙をにじませているのは、嬉しいからではない。どこに違和感があるのかはわからないが、今、イルゼの周囲に漂っている空気は、どう見ても歓喜や感謝のものではない。むしろ、その正反対のものだ。
「あ……え、と」
なにを言えば良いのかわからなくて、間抜けにも、とりあえず靴を受け取ってもらおうなどと考え、一歩前に出た。びくんとイルゼが怯えたように震え、あとじさる。いや、怪我した足ではそれもままならず、イルゼはそのまま倒れ込み、尻餅をついてしまった。見世物のための衣装であろう綺麗なスカートが、あろうことか泥と馬糞にまみれてしまった。慌てて助け起こそうと近寄った。
瞬間、ネオは気がついた。今はじめて、自分の間違いに気づいた。そのままの姿勢で凍りついた。文字通り、氷水を頭からぶちまけられたのを感じた。
そう。間違いだったのだ。なにもかもが、間違いだったのだ。
どうして。
どうして、イルゼのために靴を作ろうなどと考えてしまったのか。
どうして、今の今まで、まったく気が付かなかったのか。
どうして、どうして、こんなことになったのか。
どうして。
答えるものはいない。冷たくなったネオの手から力が抜け、今となっては悪夢の結晶にさえ思えるブーツが滑り落ちた。ドサリと音を立て、打ち捨てられたごみくずのように、泥と馬糞にまみれてしまった。しかし、靴なんて、もうどうでもよかった。ネオがした仕打ちは、イルゼをこそ、ごみくずのように侮辱し、泥と馬糞にまみれた場所へと叩き落とすに等しい行為だったのだ。
このプレゼントには、たっぷりと悪意がこもっている。立場を傘に来て放浪楽師の少女に恥をかかせ、無様な姿を嘲笑うための、これ以上のない悪意の贈り物。どう考えても、そうとしか受取りようがない。イルゼに対するこれ以上の嫌がらせなど、考えろと言われても、他に考え付かない。
イルゼには、右脚がなかった。