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ジョングルール ~ハーメルンの笛吹き男~  作者: 凪茶房
第一章 靴屋のネオは放浪楽師の少女のために靴を作る
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ジョングルール

 本日二度目の往復となる工房への道を戻る途中、わっと歓声が聞こえ、足が止まった。声の方を見ると、ベッカー通りとオスター通りの交差点にあたるニコライ教会前の広場に人だかりができている。その様子を見ただけで、ピンときた。

 ああ、そういえば。察しを付けながら、ネオもそちらの方へと向かう。まだ三時課(始業)の鐘には少しだけ時間があるだろう。人だかりに近づくと、すぐに風変わりな弦楽器の音が聞こえてきた。フィドルに近いが、もっとゆったりとした、かつ濁りをともなった、聞き慣れない音だ。そして、その音を押しのけ、大きな笛の音が広がった。

 まるで、祭りそのものと言って良いような、表現するならば、そう、ぐるぐると音が回っている。目まぐるしく、前に後ろに、右に左に。聞いているだけで自分もぐるぐると回り出したくなる、めまぐるしい、しかし軽快な音。音の中心へ向かって人ごみをかき分ける。予想は当たっていた。昨日、橋で出会った一座、レ・ジョングルールだ。

 あとひと月と少しで、夏至祭りがはじまる。そして祭りを彩るのは、やはり旅の楽団による賑やかな演奏に他ならない。本来ならば日曜日や聖人の祭日でなければこういった催しは許されないが、教会にある程度の喜捨をすることで短時間に限って大目に見てもらうのは、なかば常態化しているらしい。ただでさえ「お目こぼし」されている放浪楽師たちが、それ以上の規則を破らないかどうかを監視しているのであろう、傍に立つニコライ教会の神父は苦り切った顔を見せている。しかし、こればかりは止められるものではなかった。

 教会は放浪楽師が扱う楽器にも厳しい制限をしていた。ラッパは駄目。竪琴も駄目。三人以上による合唱も駄目。それらは神聖なもので、教会にのみ許されるのだそうだ。なぜかは知らないが、とにかくそういうものらしい。もしも破れば二度と街には入れなくなるという厳しい制約だった。

 しかし、もちろん教会だけでは祭りを引き立てることは叶わない。おごそかで荘厳な雰囲気も決して悪いものではないが、それだけでは葬式だか祭りだかわからない。結局、教会はそれが異教の香りを色濃く漂わせていると知りつつも、放浪楽師の奏でるエキゾチックかつ賑やかな音色を止めることはできないのだ。

 人だかりは輪となってジョングルール一座を取り囲んでいた。昨日見た通り、放浪楽師は四人。二人が演奏し、それに合わせて二人が曲芸を交えて踊っていた。

 踊っているのは一組の男女。ひとりは団長の男。もうひとりは踊り子の女。共に、以前に橋の上で見たマント姿とは打って変わって、明らかにこの辺りのものではない薄手の装束に身を包んでいる。

 団長はどこぞの伯爵でも気取っているのか、やけに偉そうな、わざとらしい付け髭を揺らしている。細長い帯を肩から腰へ流すように巻きつけ、腰から下はだぶだぶのズボン。装束の隙間から覗く浅黒い肌には、細身ながらも逞しい筋肉を浮き立たせていた。

 一方、踊り子は、これは下着ではないのかと疑ってしまうほどの薄着。顔の下半分を薄絹で隠し、胴は豊かな胸のみを布で覆い、脇腹からお腹、へそまで丸見えである。更に下半身も薄絹のふんわりとしたズボンを履いてはいるが、うっすらと透き通る中で、腰から太腿、更にふくらはぎにかけて艶かしいシルエットを浮かべている。祭りでもなければとても許されない、目のやり場に困ってしまう姿だった。そのいかにも軽そうな薄絹と、ざっくりと束ねられた腰まで届きそうな赤毛が、あたかもバグパイプの音に操られるかのように、ぐるぐる、ふわふわと舞っていた。文字通り、舞っていた。

 奏者も男女。黒髪の男はティルと名乗った青年である。踊り子を引き立てつつ、その背後を保って移動し、バグパイプを吹き鳴らしている。バグパイプは複数の管を持ち、まるで二、三人が同時に笛を吹いているような賑やかさを演出し、演奏の中核を担っている。ぐるぐると回る音は、この楽器の特徴なのだ。

 最後の一人は片足を怪我している例の少女だった。椅子に座り、見たことのない楽器を膝に乗せ、左手でハンドルを回しつつ、右手で弦を弾いている。手回し式のフィドルとでも言うべきか。独特の音色はこの楽器のものらしい。バグパイプの忙しい音や派手な装いの踊り子とは対照的である。若いザクセン女性特有の見事な金髪を持ちながら、しかし、たおやかな指の動きで物静かに弦楽器を弾いている様子は、物陰でひっそりと咲く清楚な花を思わせた。

 その清楚な印象も相まって、手回しフィドルの音は奇妙な感覚をネオに与える。理由はわからないが、二つの音が重なったような、水車小屋を思わせる不思議な音だった。

 音はバグパイプと弦楽器だけではない。シャン、シャン、と弾ける音を立てているのは、踊り子の女の両膝に結わえられた鈴だ。踊り子の回転とステップに合わせて鳴り響いているのだ。

「……すごい」

 思わず、感嘆の声が漏れた。それは一緒に見物している街の人も、まったく同じ感想だったろう。放浪楽師の演奏を聞くのは、もちろんはじめてではないが、これほどのものを見た経験はなかった。

 この見世物は、退屈なただの演奏や踊りではない。物語がある。どうやら、なにかの物語の一節、浮気がばれて開き直った夫と、それを責める妻の夫婦喧嘩のシーンらしい。夫はやたらに背の高いつば無し帽をかぶっており、異国の装束ながら、なにやら偉そうな雰囲気を醸し出している。偉そうな見かけ通り、開き直った夫は演奏に合わせてダンダンと地面を踏み鳴らす。責める妻に文句があるかと威張り散らしている様子だ。

 怒った妻は背後のバグパイプの音色に合わせてぐるりと回転、そのまま張り手打ちを食らわせる。シャン、と鈴が高らかに鳴った。観衆から、主に女性陣からどっと笑いが起こり、しかし、夫が背中からずらりと直剣を抜くと、歓声はどよめきへと変化した。剣先を突きつけられる踊り子。観衆の視線が集まるのに合わせ、こちらも左右の腰に下がっていた湾曲剣を同時にしゃらりと抜き、それぞれ両手に構える。剣舞がはじまった。

 シャン、シャシャシャン、シャン、と鈴の音と共に踊り子が軽快なステップで独楽のように回転する。バグパイプの音も合わせて忙しい調子に変化し、音だけで目が回りそうな錯覚さえ引き起こした。そんな中、二本の湾曲剣が交互に閃き、夫を圧倒しながら距離を詰めた。傍目には本当に殺し合いになるんじゃないかと、一歩間違えたら本当に相手を切り裂いてしまうのではないかとハラハラするほどの迫真である。

 しかし、夫も黙ってやられてはいない。踏み込んで、大ぶりな横薙ぎ。踊り子は風に煽られた蝶のようにひらりと舞い、しゃなりと躱す。そのまま片足で立ち、ゆったりとした薄絹に透けて見える太腿のラインも蠱惑的に、挑戦的な笑みを浮かべた。再び、ずいっと夫に詰め寄る。背後のバグパイプが、高らかな音を奏でる。合わせて、踊り子が回転し、右手の湾曲剣が閃いた。

 思わず、あっと息を飲んだ。その剣閃の鋭さは、演技ではない。曲芸どころではない。男の顔を真横に叩き切ろうとばかりに、容赦なく襲いかかる。が、男の反応も鋭い。横薙ぎに襲いかかった湾曲剣を、自らの直剣を平らに受け、火花を散らす。そのまま、ぱぁんと弾き上げ、踊り子の右手が宙を泳いだ。瞬間、切り返した男の剣が鮮やかに踊り子を襲った。その胸を一突きせんとばかりに、一直線に滑った。

 今度こそ、観客は息を詰めた。子供に至っては、両手で目を閉じて女が刺されるところを見るまいとしていた。

 しかし踊り子の不敵な笑みは揺るがない。男の剣筋が最初からわかっていたとばかりに、しなやかに動く。腰をくねらせる。背中を思い切り反らし、まるで猫を思わせる柔らかさを見せた。これでもかとばかりにお腹とへそを衆目に晒し、ついに両手は背後の地面に付いた。文字通り、脚と背中と腕で、円を描いていた。突き出された男の剣は、一直線に踊り子の胸を――豊かな胸の谷間を縫い、胸を覆う布の内側へとするりと潜っていた。

 安堵と共に、観衆の男たちの視線が好色な期待を帯びる。このまま、男の剣が踊り子の服を切り裂くのか。そういった下品な趣向で客寄せをする放浪芸人も、たまにあらわわれるものだ。もっとも、怒り狂った神父に街を追い出されるのが関の山だが。

 背徳的な期待感の中、しかし踊り子は片足を跳ね上げ、好色な視線もろとも男の剣を蹴り飛ばした。飛ばされた直剣はくるくると舞い、苦り切った顔で見ていたニコライ教会の神父の眼前に突き立つ。冷や汗をかきつつも腰を抜かさずに留まったのは、監視役としての面子か、意地か。

 瞬間、踊り子はもう一方の脚も跳ね上げる。そのままの勢いで猫もかくやという動きでくるりと宙を回転し、着地に合わせ、左手の湾曲剣を一閃した。湾曲剣は正確に夫の帽子を捕らえ、弾き飛ばす。やはり偉そうな帽子は権力の象徴だったのか、帽子を失ったことに気づいた男は慌てて頭を押さえる。しかし、帽子に押さえられていたらしい栗色の髪の毛は無情にもばらばらに解けてしまい、見るも情けなく男の顔にぺろりと垂れ下がった。

 剣も権力の象徴も失い、まるで水に濡れた犬のような有様となった。凄みのある刀傷も、これでは敗北の証としてしか映らない。ついに夫は妻の足元に跪き、許しを請いはじめた。

 その無様な姿に、今まで呼吸さえも忘れて見守っていた観衆が、一瞬にして笑いに包まれた。先ほどの歓声よりも何倍にも大きな、腹を抱えて笑い転げるものもいるほどの大騒ぎとなった。

 笑いの中、仲直りした夫婦が手を取り合う。踊り子が跪いた夫の手を取り立ち上がらせ、その名誉を復権させたことを帽子をかぶせることで示す。最後に、二人並んで大仰な挨拶。そうして、この夫婦喧嘩の終わりを告げていた。鳴り響く拍手と止まらぬ笑い声。目の前の箱には次々に硬貨が投げ込まれ、中にはプェニヒ硬貨だけでなく、シリング硬貨まで見受けられた。ぱっと見ただけでも相当な大金が積もっている。

 それを見て、ようやくネオはこれが見世物だったことを思い出した。いや、もちろん最初からわかっていたことだ。これから祭りの季節を迎えるにあたり、他の放浪楽師一座も訪れることだろう。そんなライバルの中で、自分の一座を楽師として呼んでもらえるよう、パフォーマンスを兼ねて宣伝していたのだ。そんな当たり前のことをやっと思い出すほどに、ネオは一連の見世物に吸い込まれていた。

「……すごい」

 心底、それ以外の言葉が出て来なかった。

 本当の殺し合いかと錯覚させるほどの剣戟の鋭さも、終わった今では計算しつくされた動きだと理解できる。夫婦喧嘩と妻の勝利、そして夫の復権。ついでに、慇懃に監視しているニコライ教会の神父に対してチクリと嫌がらせまでしている辺り、ネオでさえも胸がすく思いである。そのひとつひとつが、まさしく観客の求める展開そのものだった。

 これが、放浪楽師。これが、ジョングルール。新鮮な驚嘆が胸の中に広がっていた。

 興奮も冷めやらぬ中、夫婦を演じていた二人と共に、バグパイプを吹いていた青年ティルも観客のことごとくに愛想を売り、笑顔を振りまいている。踊り子が観衆の中にネオの顔を見つけ、嬉しそうにウインクしてくる。その下着と変わらぬ大胆な装束にどきまぎとしてしまい、片手でおずおずと会釈を返すのもそこそこ、視線を逸らした。

 ふと、一人だけ淡々と手回しフィドルを片付けている少女の姿が目に止まった。気のせいか、その表情は喧騒とは対照的に、冷ややかに見える。あれほど盛り上がったのに、つまらなかったのだろうか。そういえばと、すぐに思い至った。足を怪我しているこの少女は、踊り子と並んで踊ることができないのだ。見事な剣戟は、少女にとっては足の辛さを思い出させる種でしかないのだ。

 改めて見ると、やはりネオより少し幼く見えるが、おそらく二歳も離れていないだろう。踊り子のような蠱惑的な異国の装束ではないが、素朴で可愛らしいものだ。ふんわりとスカートまでつながった青のチュニックドレスを、白地に小さな赤い花をあしらったエプロンで飾っている。更に、祭りのときだけ許されるようなピンク色の大きなリボンをベルト代わりに腰に巻き、彩りを添えていた。

 この少女も、足が良くなればあの踊り子と並んで踊れるのだろうか。そうしたら、他の仲間と一緒に、笑顔を見せてくれるのだろうか。

「…………」

 不意に、大それた考えが生まれた。

 もしも。もしも、自分が作った靴で、少女の足が治るのを手伝ってあげることができたら。それで、少女が踊りに参加することができたら。彼女が、他の皆と並んで観衆に笑顔を振りまくことができるようになったら。

 ――もしかしたら、世話になるかもね――

 橋で最初に会ったときに踊り子が言った言葉。一介の靴職人でしかないネオだが、しかし、確かにそれは自分にしかできないことだ。そして、自分だけにできることだ。他の観衆のようにプェニヒ硬貨やシリング硬貨を投げることはできなくとも、ネオには靴を作ることができる。少女が踊りに加わったら、ジョングルール一座の曲芸は更に磨きをかけるかも知れない。それを手伝うことができるかも知れない。それは――それは、なんて素晴しいことだろう。

 しかし、すぐに現実的な問題がのしかかった。そもそも材料がない。靴を切り出す際にぎりぎりに詰めて裁断すれば、一足分くらいはどうにかなる。しかし、それで作れる靴などたかが知れている。これに限っては、靴ならなんでも良いというわけではないのだ。旅をする少女の足の負担を軽くするためには、一枚革を袋状に縫っただけのモカシンのような簡素なものではなく、複数のパーツを縫い合わせた、きちんとしたブーツでなければ駄目なのだ。それも、できる限り上等な革の、できる限り良い部位をふんだんに使って――。

 もちろん、無茶な話である。ネオの立場で、曲がりなりにも親方の財産である革をそんなに自由に使えるはずがなかった。溜息をつきそうになったとき、

 ごーん……ごーん……

 思い出したかのように、ボニファティウス律院の方から三時課(始業)の鐘が響き渡った。重苦しく鳴り響くその鐘の音に、いつもなら慌てて我に返り、工房へと駆けていくところだが、このときばかりは違った。

「――っ!」

 この鐘の音は、まさしく天啓だった。ネオのために鳴ったとしか思えなかった。駱駝革の存在を思い出させるために、エーリッヒ神父が鳴らしたのか。そんな馬鹿な考えさえ浮かんでしまう。

 背筋がぶるっと震えた。

 正直なところ、ネオは信心深いほうではない。元より、労働や生産活動を「人間に課された罰」として説くキリスト教は、職人やツンフトとは折り合いが良いとは言いがたい。ほとんどの職人が、その職に応じた聖人を崇拝している。靴職人もイエス・キリストよりもむしろ、靴屋の聖人クリスピンを崇拝していると言った方が正しい。他ならぬネオも、はっきり言ってキリスト教の教えは、それこそ南の果てのローマだとか、どこか遠くの世界の話として感じていた。

 もちろん、聖書の内容は文字通りの「最先端の知識」ではある。聖書がなければ、「もうじき、この世が一度滅んで、心正しきものだけが生まれ変わることができる」という常識すらも知らないままだったろう。しかし、だからといって、生活の大半を削って信奉するような、熱狂的な喜びを抱いたことは、ただの一度もなかった。

 しかし、今、この瞬間、

 ――汝の祖と交わした誓約を、今こそ果たさんためである――

 導きや奇跡というものがあるのなら、これこそがそうなのだと思った。まさしく、この目的のために、あの駱駝革は不思議な導きによって自分の手に届けられたのだ。そんな確信めいた喜びが、全身を走っていた。居ても立ってもいられなくなり、気がついたら工房へ向かって駆け出していた。


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