駱駝革
「ちょうど良かった。ネオ君、これを見てくれないかね」
朝。いつものように聖書を受け取るために律院に立ち寄った際、エーリッヒ神父は興奮気味の顔で迎えた。神父の前の机には、紐を解かれて半分広がった革が置いてある。
「なんだと思うかね?」
「触っても?」
「もちろん、いいとも」
半分だけ広がっている巻き革を、すっと手で伸ばした。目を閉じる。指の腹で、手の平で、革を読んだ。非常に丁寧になめされているのがわかる。しかし、戸惑った。なんだこれは? 豚や羊のような柔らかな革を持つ動物ではない、もっと硬い革だ。しかし牛や馬とも思えない。強いて言えば牡牛かロバが近い気がしたが、それにしては、革の組織がみっちりと詰まっている。生まれてこのかた、触ったことのない感覚だった。
同時に、これがとんでもなく貴重な素材であることを直感した。この革は、すごく良いものだ。試しに軽く折り曲げてみる。想像通り、すぐに元に戻り、折り目がすうっと見えなくなった。皮革組織が凝縮している証拠だ。それでいてしなやかで、牛革のように触れた相手を弾く表面の硬さを感じない。こんな素材で作った靴は、どれほど頑丈にできるだろう。きっと、歩けば歩くほど足に馴染む、最高の履き心地になるに違いない。
想像を巡らせながら夢中で革を撫でるネオに、その様子を楽しげに見ていたエーリッヒ神父が声をかけた。
「駱駝、だそうだ」
「らくだ? ……駱駝って、聖書に出てくる、針の穴をくぐるあれですか? それにしては、ずいぶん大きいような……」
ネオの物言いにエーリッヒ神父は珍しくも、ぶはっと吹き出した。何事かと戸惑うネオだが、
「うくく、……違うよネオ君。まあ、惜しいところではあるがね」
言って、
「正しくは、こうだ」
ぴりっと居住まいを正し、朗々とした見事な声で韻を踏んだ。それは聖書のうち、福音書の一節をザクセン語にくだいたものだった。
「イエスは弟子たちを前に言った……富めるものが天国の門をくぐるよりも、駱駝が針の穴をくぐるほうがはるかに容易である、と」
なるほど、それで意味が通じた。
ネオは「金持ちが天国の門をくぐるときに、駱駝は針の穴をくぐる」と訳して、意味がわからないままだったのだ。ラテン語はザクセン語に比べ、同じ単語内での活用形が非常に多く、そのあまりのややこしさに、こういった間違いがしばしば起きてしまう。
それにしても、駱駝など、聖書の中だけにしか登場しない動物だと思っていた。それも、針の穴をくぐるというから、蚤のように小さな生物かも知れないと想像していたのだ。
「蚤じゃなかったんですね」
再び、ぶはっと吹き出す神父。ネオの勘違いがよほど可笑しかったのだろう。背中をわずかに震わせながら、苦しそうに説明していた。
「うくく……いや、すまんすまん。あまりに予想外でね。ラテン語の勉強も、聖書一冊のみ、しかも教師がいないとなれば限界があるようだね。しかし、まあ、独学とあらば上出来だろう。……駱駝というのは、はるか南の国で、馬やロバのように飼われている動物だそうだ」
「……南って、ローマですか?」
「いや、それよりも、ずっとずっと遠くらしい。おそらく想像もつかぬほどにな」
そもそも、ローマより向こうに国があるという話自体、想像を超えている。それはもはや、アダムとイヴが生まれたという地上楽園の近くなのではないだろうか。文字通り、想像もつかない話だった。
きっとその国では、靴を作るのに困らないだろう。なにしろ、これだけ上等な革を持つ動物が牛のように飼われているのだから。やはり、そこは地上楽園なのかも知れない。そんなふうに考えてしまうのは、靴職人ゆえか。
「ここの院長、ヴェデキント殿は、南のオーゼン伯の縁者だそうでな。親類のよしみということで、オーゼン伯はいつも素晴らしいものを喜捨して下さるのだが……。正直、こればかりは我々のほうでも扱いに困っておってな。どうかね。ネオ君なら無駄にはしないと思うのだが」
突然の言葉に、心臓がどきんと跳ねた。まさか、そんな。想像だが、この革は自分みたいな一介の徒弟ふぜいが扱うものではない。おそらく王侯貴族などの権力者が、贅を尽くしてお抱えの職人に仕立てさせる類のものだ。
「……っ」
とっさに言葉が出てこず、ぶんぶんと頭を振った。
「遠慮することはない。聖書にもあるだろう。……主が汝に富を築く力を与えたるは……、」
続けなさいとばかりに韻を踏んでネオを見る。試されている気がして、とっさに頭の中を探った。ここは何度も読み返しただけあって、苦もなく出てきた。
「汝の祖と交わした誓約を、今こそ果たさんためである……」
また間違えて笑われないかと、ちらりとエーリッヒの表情を見るが、果たして神父は満足気に微笑んでいた。
「そうだ。ネオ君には、職人としての力がある。なれば、私の役目は、これをネオ君に渡すことに他ならぬ。違うかね?」
「でも、だからといって」
確かに魅力的ではあるが、それだけに扱いに困る。きっと、なにを作っても素材に見合わない、つまらぬものになってしまうだろう。結局、怖くて手を付けられないと言う無様を晒すだけに終わってしまうのではないか。
あくまでも辞退しようとするネオに、神父はにこにこと笑いながら言った。まるでネオの反応を予想し、次の言葉を用意していた様子だ。
「では、代わりにひとつ頼まれてくれないか。少々厄介なことだが、実は困った問題が起きていてな」
「問題?」
「うむ。ミンデン市までの使いを頼まれて欲しいのだ。……いや、白状しよう。この革を受け取ってもらう代わりに、ネオ君に頼めないものかと考えていたんだ。……どうだね?」
「使いって? ミンデンに?」
なにかの間違いではないか? それこそ、自分などの出る幕ではない。律院の使いを、一介の靴職人が、それも徒弟が代行するなんて聞いたこともない。そもそもミンデン市など、名前くらいしか知らない。断片的な知識によれば、ここからはるか北西の、とても遠い街だという。
昨日、街の外が怖くないかと聞かれたことが、実はこの話が念頭にあったのだと、遅まきながら理解した。確かに、ネオは水車小屋の怪しげな気配にも物怖じしたりはしない。むしろ、それが奏でる不思議な音を気に入っているとさえ言える。
しかし、それとこれとは話が別である。そもそも、街の外を恐れないというのなら、街の東に広がる小麦畑で働いている農家の人たちだって同じことだ。街を島にたとえるならば、街の外は海である。多少は泳ぐことができようとも、それは明るい時間帯、かつ、いつでも引き返せる距離に限られる。
名前しか知らない遠くの街へ何日もかけて行く。当然それは、街の外で何度も夜を過ごすことを意味する。それは、悪魔や死霊、人狼の只中をすたすたと歩いて行けと言われているに等しい。考えるだけでも総毛立つ。事実、街からの追放は死刑と同じくらいに厳しい刑罰なのだ。「街の外で夜を過ごせ」というのは、「死ね」というのと、なにひとつ変わらない。エーリッヒの言っていることは、つまり、そういうことなのだ。
「無茶です。無理です。どうして、どうして、そんなこと。僕は、ただの靴屋ですよ?」
「うーむ、駄目かね。……言った通り、困った問題が起きているのだよ。とりあえず、聞くだけでも聞いて貰えないかね」
「……」
承諾するつもりはまったくないのだが、エーリッヒは勝手に話しはじめてしまった。いつにない強引さに、ネオもそれを遮って律院を飛び出すこともできない。
「ミンデン市とハーメルン市の関係については、知っているかね?」
「いえ、まったく」
「ふむ。……ことは、五〇年ほども前になる。この辺り、ハーメルン市を含むザクセン地方で、大きな戦争があった。……これくらいは聞いたことがあるだろう」
「はあ……。少しは」
素直に頷く。確かに、両親から聞いたことがあった。
そんなネオにエーリッヒはゆっくりと、
「エーフェルシュタイン」
言って、じっとネオの顔を見た。まるで、その言葉にネオが反応するかどうかを見極めんとしているような視線だった。
「……?」
「ふむ。聞いたことはないかね? かつて、この街を支配していた昔の領主の名前だが……」
「いえ、はじめて聞きました」
「……そうか。うむ、まあ……あまり良い云われの名前ではないからな。おいそれと口にしないほうが良かろう」
「気をつけます」
ネオの返事に、エーリッヒは幾分態度を和らげ、とつとつと語りはじめた。それは、エーリッヒがまだ赤ん坊のころ、ハーメルン市を巻き込んだ戦いの話だった。
そもそもこの街は、一〇〇年以上昔、時の神聖帝国皇帝フリードリッヒ・バルバロッサの治世下にあった。聖ボニファティウス律院を中心とした小さな市場集落だったものを壁で囲い、都市と呼べるまでに発展させたのだ。
しかしその赤髭王も、歴代皇帝の例に漏れず、皇帝を任命する立場のローマ教皇と権威を主張し合い、あるいは自治権を主張して税金を納めない街を屈服させるべく、何度となく戦争を繰り返した。赤髭王亡き後も、当然のごとく帝国内は戦乱が続いた。特に、赤髭王の事実上の後継者だったフリードリッヒ二世の没後は酷いもので、帝国内の諸侯から皇帝位を主張するものが次々にあらわれては消えていった。しまいには「諸侯と血の繋がりがある」という点のみを根拠に、帝国とはほど遠い、まったく関係のない他国の国王が、それも複数人同時に皇帝として名乗りを上げてしまう有様だった。
当然、遠く離れた地にいるかけもちの王様がいくら頑張ったところで帝国がまとまるはずもない。挙句の果てに当人たちがそれぞれの国の内戦で揃って敗退し、ついにローマ教皇からの戴冠を受けることもなく、うやむやのうちに無かったことになった。
かいつまんで言えば、現在の帝国は、しっちゃかめっちゃかで、ぐっちゃぐっちゃな状態になっているのだ。
帝国がその支配力を失ったことで、各国、各領主、あるいは各街がそれぞれ勝手に自治権を持ち、あるいは別の街を支配下におこうと企て、場合によっては帝国だのローマ教皇だのの権威を振りかざし――厄介なことに、本当に帝国やローマ教皇を後ろ盾に持っていることも少なくなかった――、あたかも野獣が互いに喰い合うかのごとく争いを繰り返した。その戦乱は五〇年前にもこの街を巻き込んだのだ。
「その頃ハーメルン市は、かつて赤髭王に知行権を与えられたエーフェルシュタイン家が支配していた。ローマ教皇派は、それが面白くなかったのだ」
「なんで教皇派が?」
「もともと、ハーメルン市がただの集落だったころのここは、ローマ教皇領に属するものだったからだ。だが、そのころの教皇派は……税として農作物の半分以上を奪い取って食い漁る……そうだな、貪欲なネズミのように嫌われていた。奪うべき農作物がなければ、今度は財産を奪っていくのだから、まさしくネズミそのものだ。その集落を、正式な戦いの末に勝ち取ったのが赤髭王であり、エーフェルシュタイン家だ」
「エーフェルシュタイン家……」
「うむ。赤髭王より知行権を賜ったエーフェルシュタイン家は、古き因習を打ち壊し、この街に巣食う教皇派のネズミどもを一掃した。その後、街を発展させたのも、その資金を供出したのもエーフェルシュタイン家だ。……住民もエーフェルシュタインを歓迎し、その知行を受け入れ、小さな集落だったハーメルン市は、今の大きさにまで成長した」
「今のハーメルンを作ったのが、エーフェルシュタイン家……」
「そうだ。かの家なくして、ハーメルンの発展はなかったと言っても良い。搾取した小麦を貪る以外に能のないネズミどもには、到底できることではなかった。……だが、恥知らずな教皇派のネズミどもは、人が増えて豊かになったこの街の知行権を再び簒奪せんと乗り出してきたのだ」
エーリッヒの言葉には、ローマ教皇派に対する深い怒りと軽蔑の念がこもっているようだった。温厚なエーリッヒの珍しくも厳しい口調に圧倒され、口を挟むこともできないネオを前に、淡々と話は続いた。
「あらゆる買収工作を企て、それが首尾よくいかぬことがわかると、教皇派はエーフェルシュタイン家を無視し、この街の知行権をミンデン司教区に売却したと一方的に宣言したのだ。教皇派に大金を支払ったミンデン市は、それを口実にこの街を乗っ取りにかかり……戦争になった。多くの血が流れた。……特に、大勢の子供たちが殺された」
「……どうなったんですか?」
そのままミンデン市に敗北したとなれば、ハーメルン市は今の状態では残っていないことになる。それに、エーフェルシュタイン家などという名前は、ハーメルンに生まれたネオでさえも、一度も聞いたことがない。
「追い詰められたエーフェルシュタイン家は、それまで対立していたブラウンシュヴァイク公国のヴェルフェン家に助けを求めたのだ。ヴェルフェン家は過去の諍いを忘れ、エーフェルシュタイン家に力を貸した。そうして二つの領主が力を合わせ、かろうじてミンデンの軍隊を退けたのだよ」
「ハーメルンは守られたんですね」
うむ。と深く頷くも、しかし、その表情は明るいものではない。その激突と犠牲の先に、現在のハーメルン市があるのだ。それは、決して遠い昔の物語ではない。そして、それこそが、エーリッヒの話の核心だった。
「その後、政治交渉が重ねられ、ミンデンは撤退を余儀なくされた。しかし、すでにこの街を買い取る代金を教皇派に支払った手前、ミンデンはいまだに『ハーメルン市の知行権は我こそにあり』と考えておるのだ。隙あらば、すぐにでも乗っ取りにかかるだろう。そんな街へ、私のような律院の人間がのこのこと顔を出せば、どんなことになるやら……わかるだろう?」
「……揉めごとになりそうですね。ミンデンとしても面白くはないでしょうし」
その戦いで誰が一番損をしたかと考えれば、ローマ教皇派に大金を支払った挙句、ハーメルンを手に入れそこねたミンデン市ということになる。なにかにつけて、その損失を取り戻したいと考えるのは、ごく自然なことだろう。しかし、だからといってハーメルン市が譲歩するわけにも行かないのだ。
「ニコライ教会や市参事会の面々でも同じようなものでな。ハーメルンの行政に関わりのあるものが顔を出すのは、いかにもまずい。……最悪の場合、以前の諍いが再燃しかねん。しかし、今回の用件は過去の諍いよりも重要なものなのだ。……もちろん、そこいらの旅のものや農奴に任せるわけにもいかん。そういうわけで、誰もが頭を抱えているところなのだよ」
それでエーリッヒは、ハーメルン市の住民で、かつ帝国や市参事会と一切の関わりを持たず、ひと通りの読み書きができ、なによりも水車小屋を恐れないネオに白羽の矢を立てたと言うことらしい。
仮にミンデン市がネオになにかを要求したところで、所詮は一介の靴職人の、しかも徒弟である。なにひとつ決定する権限を持つはずもなく、つついたところでなにも出てきはしない。そして、まさにそういった人間こそが、使いとして必要とされているのだ。
しかし、いくらネオがそれに合致するからといって、いきなり街の外を、それも夜の世界をてくてくと歩けるようになるはずがなかった。エーリッヒの事情はよくわかったが、実際のところ、仮にネオがその役目を引き受けたとしても、生きてミンデンにたどり着けるとは到底思えない。盗賊に身ぐるみを剥がされる程度ならば、生きて逃げ帰ってこれる分だけ、まだましだ。ひとたび夜になったら、盗賊どころか悪魔や人狼から逃げ回らねばならないのだ。うごめく森に捕まり、飲み込まれることだってあるだろう。
もちろん、恐怖があった。しかしそれよりも、役目に失敗して重要な手紙をなくしてしまい、更に大きな迷惑をかけることが目に見えていた。
「やっぱり無理です。ごめんなさい、お手伝いはできません」
はっきりと言って、革を机に押し戻した。駱駝の革はとても魅力的だが、これだけ熱心に頼まれたのを断っては、とても受け取ることはできない。
しかし、エーリッヒが気を悪くした気配はなかった。むしろ、無理に頼んだことを詫びている様子だった。
「そうか……いや、無理を言ってすまなかった。だが、やはりこれは受け取ってくれたまえ。頼みの件は別にしてくれていい。年寄りの昔話に付き合ってくれた礼だと思ってくれ。……なに、気兼ねはいらんよ。律院の物置に放り込んでも、ネズミを太らせることにしかなるまいからな」
もちろん、教皇派ではなく本物のネズミの話だ。確かに、これほどの革をネズミにかじられるというのは、靴職人としてはとても看過できる話ではない。ほとんど無理やりに駱駝革を押し付けられるネオだが、エーリッヒはこの話は終わりだと言わんばかりに話題を変えてしまった。
「そういえば、ミンデンにはハンザの拠点のひとつがあるそうでな」
ハンザ。ネオもしばしば耳にする名前だ。むしろ今どきの職人や商人であれば、知らぬものなどいないだろう。
それは、無数の行商人集団が同盟を組んで作り上げた巨大な組織だと聞く。ただでさえ危険な外の世界である。旅を続ける行商人が同盟を結ぶことで互いに協力しあい、護り合うことによって交易ルートを確保しているのだ。武装することで互いを守り合うことはもちろんだが、驚くべきはその情報網である。どこそこの街ではなにが不足している。今年はどの作物が不作になりそうだ。どの辺りでは北方人による襲撃が頻発している。各地をめぐる行商人が集める情報は巨大な利益を生み出し、すさまじく勢力を伸ばしているという。
街にとっては職人組合の領分をしばしば侵害してしまうためにトラブルの絶えない厄介者でもある。しかし、締め出してしまっては街の外との流通が止まってしまうため、黙認せざるを得ない。場合によっては地元のツンフトと諍うことも辞さず、街に情報と変化を運んでくる異質の存在。それが、ハンザ同盟である。最近ではハーメルン市でもぽつぽつとその名が囁かれ、ネオの工房にもそれらしい商人が顔を見せることが増えていた。
「ミンデンは以前からハンザ同盟を支援しておってな。ハンザのところには、世界中から珍しい品物や文献が集まっていると聞くぞ。そして都合の良いことに、ハンザは規律で街や国の対立には干渉しないことになっている。生粋の商人、というわけだな」
「……?」
怪訝な顔を見せるネオに、エーリッヒは笑みをこぼした。
「先ほどの話だよ。まあ、そう硬くならずに聞きたまえ。もしも頼みを聞いてもらえるのなら、私からハンザに多少の口を利くこともできるということだ。はるか遠い異国の靴や、その駱駝のような珍しい革。ネオ君なら、連中が溜め込んだ文献を読むこともできよう。きっと、職人として得るものも多いだろう」
「……」
興味がないと言ったら、もちろん嘘になる。ついさっき、この革に触れた瞬間に感じた興奮。それと同じものが、ミンデンに行けばずらりと並んでいると言うのだ。
遠い異国。新しい文化が次々と生まれるというローマでは、いったいどんな靴が作られているのだろう。西のフランス王国には、どんな毛皮を持つ動物がいるのだろう。牛の代わりに駱駝がいる国とはどんなところだろう。そもそも、駱駝とはどんな動物なのだろう。それらを想像するだけで、さっきの胸の高鳴りが蘇ってくる。
そうか。不意に思った。実のところ、自分は外の世界に憧れているのだと。自分の中で外の世界とは、鬱々としたハーメルン市とは対極に位置しているのだ。
ハーメルン市でただ働き同然の徒弟として暮らしていても、未来は見えなかった。たいていの徒弟は「いつかは親方に」と夢見るものだが、あの叔父が自分の息子ではなくネオに親方株を譲るはずがない。
しかし、同じように、街の外の世界にもネオの未来は見えなかった。徒弟や親方どころではない。まったくの暗闇である。しかし、ハーメルン市の中で迎える未来とはまったく別のものが、そこにある。その暗闇の海に飛び出してみたいと訴える衝動的ななにかが、この胸の中に渦巻いている。
水車小屋とは、憂鬱な生活が延々と続くハーメルン市と、なにものにも縛られることのない無限の世界との境界線なのだ。ぎしぎしと軋む音は、危うさとともに変化を予感させ、ごりごりと重く響く音は、永遠に続く不変の日常を約束している。街の外と街の中。変化と不変。相反するものが共に介在する場所。それが、水車小屋の本質なのだ。だからこそ、あの場所に惹かれるのだ。
慌ててぶんぶんと頭を振り、その想像を振り払った。わずかな憧れの念など、いとも簡単に吹き消すほどに、恐怖が強かった。
ハンザ同盟のように助け合う仲間もなく、たった一人で街の外を旅するなんて、到底考えられることではない。再度の断りの返事をする前に、
「なに、この場で結論を出せとは言わんよ。もうしばらくは猶予があるのでな。だが、もしも気が向いたら……声をかけてくれると助かるよ」
こう言われては、これ以上言い返すこともできない。駱駝革を持ってすごすごと帰るのみだ。
律院を出る間際、ふと、素朴な疑問が浮かんだ。先ほどの昔話、戦争の結末についてである。
「あの……さっきの話ですけど、ここの領主だったエーフェルシュタイン家は……どうなったんですか?」
「……」
今のハーメルン市の領主は言うまでもなくヴェルフェン家である。ハーメルン市を発展させたというエーフェルシュタイン家は、いったいどこへ消えてしまったのか。何気ないネオの質問に、エーリッヒの顔色が曇った。軽々しく話せる内容ではないらしい。
「うむ……。エーフェルシュタイン家はその後、数々の悲しい出来事に見舞われてな……。二十四年前のあの事件をきっかけにハーメルンを捨て、去っていったのだ。……彼らは……今でも、この街を呪っているのだろう」
「ハーメルンを……呪っている?」
ぞくりと寒いものを感じた。いったい、なにが。エーフェルシュタイン家とハーメルン市の間に、なにがあったのか。そう聞きたくなるが、それをさせない冷たい重さが、エーリッヒの面持ちにあらわれていた。
「先ほども言ったが、よそでは決して触れ回らぬようにな。特に、ニコライ教会や街の年寄りはこの話をとても嫌うから、気をつけたほうが良い。なんだったら、ネオ君も忘れてしまったほうが良いかも知れん。もちろん、頼みを聞いてくれるのであれば、別だがね」
律院を出てから、聖書を借りるのを忘れたことに気づいた。しかし随分と時間を過ごしてしまった。今からでは聖書を開いても読みふけるほどの時間は取れまい。それに、この駱駝革を持ったまま皮なめし職人のところに行くのもまずい。勝手に生皮をなめすことは、皮なめし職人の領分を侵す行為として、街の法律でもツンフト規約でも禁じられている。そんな場所へ珍しい革を抱えていくのは、誤解してくれと言っているのと変わらない。いったん工房に戻り、駱駝革を陰干し用ハンガーの一番下に隠すようにかけ、改めて材料の仕入れに向かった。
それにしても、駱駝革でなにを作れば良いのか。突然、使い道の思いつかない宝物を渡されてしまった。途方に暮れる思いだった。